(1)バレンタインデー前日
部下が次々に提出してくる書類に目を通しながら、俺は誰にも気づかれないように視線を時折ソッと走らせている。
そして、目当ての人物の姿を視界に納めては、心の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
俺には目にかけている……、いや、正直に言うとかなり気になっている部下がいる。それは今年入った社員で、29歳の俺より7歳下の青川 千賀子だ。
影で同僚や部下からは“鬼”や“悪魔”と言われている俺。仕事中にはかなり容赦ない接し方をしているので、いつしかそう呼ばれるようになったようだ。
その俺のしごきにも耐え抜いた頑張り屋の部下が青川だ。
当初、女性の部下は自分についてこれるはずがないと侮っていたのだが、意外や意外、小柄で童顔な青川は可愛らしい外見に反して、他の女性社員よりも相当粘り強かった。
それでも、俺の叱責にはきついものがあったらしく、ごくたまに泣き出す寸前の表情を見せることもあった。
だが、彼女はポロリとすら涙を流さない。
彼女の他にも女性の部下がいるが、揃いも揃って泣きやがる。メソメソ、シクシク、涙を流し、そしてチラリと上目遣い。
自分で言うのは嫌味だと分かっているが、俺は女性にモテる。学生時代にバレーボールをしていたおかげで身長は180センチを優に越え、筋肉も適度について全身引き締まっている。
顔立ちも悪くないようで、女性社員たちからは熱い視線を向けられることも日常茶飯事だ。
そんな俺に、ホロホロと涙を流すことで自分の儚さでもアピールしたいのだろうか。ミスを指摘している最中に泣き出す部下を見て、俺は心の中で深いため息をつく。
あいにく、俺はこういう女性には惹かれない。
涙は女の武器とは昔からよく言われているものだが、職場でそんな武器を使ってくるような根性の弱った部下には女性としても魅力を感じないのだ。
武器はここぞという時に使うから、効果を発揮する。そんなことも考えずに簡単にポロポロと流れる涙にやられるほど、俺は甘くない。
彼女たちは俺に『少し言いすぎた。悪かった。お詫びに食事でも行こうか』と言わせたいのだろう。それをデートと称して、周囲に自慢したいのだろう。
―――まったく、そんなことに気を回す暇があるなら、一つでもミスを減らせ!
声に出さずにブチブチと愚痴った。流石に、正面切って相手に言うことはしない。俺の怒りの一言が、職場の雰囲気を壊すものだと重々分かっているのだ。
手にしている書類を、目の前でシクシクと泣いている女性部下に突き返した。
「今日中に再提出だ」
「え?今からなんて無理です」
そう言って、また涙を浮かべる女性部下。ウォータープルーフのマスカラやアイライナーを使っているのだろう。どんなに泣いても、目元の化粧が崩れていない。
そして、少し赤くなった目で俺を見上げてくる。
お決まりのパターンに、怒りを通り越して笑いがこみ上げそうだ。それをグッと我慢して、低い声を出す。
「無理かどうか、やってもいないうちに判断するな。ここで突っ立っている暇があるなら、すぐさま取り掛かれ」
俺は再度書類を突きつける。
その女性部下は再びチラッと俺を見上げるが、今日のところはこれ以上どうにもならないと察したらしく、すごすごと自分の席に戻っていった。
―――まったく、どいつもこいつも……。少しは青川の根性を見習え!
どんなにきつい指導にも、歯を食いしばって必死についてこようとする青川。
彼女も泣きそうになることはあるものの、泣いたりはしない。目を潤ませることはあるが、必死で我慢するのだ。
そしてきちっと謝罪して、言い訳など口にせず、次には完璧に手直しした書類を持ってくる。
人間誰しもミスはするものだ。役職つきの俺も、極々たまにではあるがミスをする。
だから、自分よりも経験の浅い部下がミスをするのは仕方がない。
だが、大事なのはミスを犯した時の対応と、その後の行動。失敗を失敗で終わらせず、その反省を活かして成功に繋げればいいのだ。
そんなことは社会人として当たり前のことだと思うのだが、そういったことを言われないと理解できない、また言っても理解できない人間もいる。
大体、泣き出す部下だって本気を出せば、きっちり仕事が出来るはずなのだ。
このKOBAYASHIは生半可な気持ちでは入社できない。それなりの人材だからここの社員になれたというのに、どうやら大企業に就職できた安心から自分に甘えが出ているのだろう
―――もしかしたら、俺の下では伸びないのかもしれないな。
涙を流す部下のことをおいそれと認めてやることはできないが、それでも一方的に放り出すほど俺も鬼や悪魔ではないのだ。
折を見て部下の異動を話してみようと、俺は少々憂鬱な気分で考える。
そんな沈んだ気持ちを変えるためには、愛しの青川だ。
俺は再び書類に目を通す振りをして、彼女をこっそり眺めた。
彼女は何やら分厚い資料を捲りながら、一生懸命にパソコンに向かっている。分からないことが、あれば俺に尋ねてくれたらいいのに。そうしたら、いくらでも教えてやるのに。
だが、青川はまず自分の頭で考える。あれこれ調べて、それでも分からない時には上司や先輩の指示を仰ぐようにしている。
はじめから人に訊けば時間の無駄もないだろうとは思うが、それではなかなか成長しない。まずは自分の目で見て、自分の頭で考えることが大事なのだ。
時折首を傾げてはキーボードを打つ手を止め、真剣な眼差しで資料を捲る青川は、この会社の中では大人しい部類に入る服装をしている。
大会社ということで羽目を外した服装で出社する女性社員はいないが、それでも彼女たちはそれなりにオシャレだ。髪も、化粧も、ネイルも、服装も、靴も、仕事に差し支えない程度に綺麗なものだったり、可愛いものだったりしている。
しかし青川はそれほど化粧をすることもなく、服装はブラウスに目立たない色のカーディガン、膝丈の淡い色のフレアスカート、ちょっとだけかかとの高いパンプスといった感じで、今時の若い女性というものとは少しだけ違う。背中の中ほどまで伸ばした髪を、ほんのりと明るい茶色にカラーリングしている程度だ。
だが、俺からすれば、そういった彼女を非常に好ましく思っている。その感情は部下に向けるものではなく、一人の女性として向けるものだ。
ソロリ、ソロリと青川の様子を伺っていると、書類を手にして彼女が立ち上がる。そして、まっすぐに俺の席へとやってきた。
「チーフ、確認をお願いします」
先ほど熱心に作っていた書類を差し出してくる。
俺はそれを受け取り、真剣に目を走らせた。そこで、いくつかのミスに目が留まる。
「青川」
名前を呼んだだけで、彼女がビクッと震えた。
俺の声は体に見合ったとおりに低く、そして体格がいいから、『女性からすればそこにいるだけで威圧感があるんだよ』と、よく同期に言われている。こちらとしては、特別威嚇しているわけでもないのだが。
どうやら彼女もそのように感じているで、入社してだいぶ経つのに相変わらず声をかけただけでビクッと震えるのだ。
そんな様子が可愛いと秘かに呟きながら、ミスがある場所を指差す。
「ここ、計算方法が間違っている。どの資料を参考にした?」
俺の質問に、青川は少し緊張したように説明を始める。
彼女の説明を聞きながら、俺は参考資料が適切でないこと、計算自体に少し誤りがあることを指摘した。
「今日中に再提出だ」
先ほどの部下に告げたものと同じセリフを口にする。
ところが、彼女は先ほどの部下とは違い、
「分かりました。必ず仕上げます」
と返してくる。
だが、気をつけていてもやはり自分の口調は厳しかったようで、青川の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
しかし、浮かぶだけだ。流れることはない。
そういう青川を好ましいと思うし、何より、泣くのをこらえている必死の表情が、逆にこちらを煽るのだ。
思わず抱きしめたくなったことは、一度や二度ではなかった。流石に、理性で踏み留まっているが。
席に戻って改めて書類を作り直している青川に、『頑張れ』と、唇だけで呟く。
そろそろ、俺も頑張って行動を起こすべきだろうか。
おりしも、明日はバレンタインデー。恋のイベントだ。
女性が男性に告白することが一般視されているが、男の自分から行動するのも悪くないだろう。
―――明日、食事に誘うか。
パソコンと資料に何度も視線を向けている青川を眺めながら、クスリと小さく微笑む俺だった。




