表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

ぼくにも出来る事 a-1

 押し競饅頭よろしく、通勤電車の中はごった返している。

 押されて泣くなと言われても泣きたくなる、田舎育ちの僕には信じられない程の人が一台の電車の中に詰め込まれていた。

 けれども、それが僕らの日常だ。人間は学習する生き物みたいで、この通勤電車の風景にも慣れてしまっていた。

 慣れって恐ろしい。

 電車内の人は皆、楽しくない仕事や勉強のためだろう、死んだような目で俯いている。仕事が面白い人は人生得してるな、なんて思ってしまうくらいだ。

 僕はそんな車内で一人浮いている。

 いや、それって車内に限った事じゃないかもしれないけど。

 と。


「……や………て………さい」


 電車の振動音に混じり、か細い声が僕の耳に届いた。

 その微かな声がした方へと顔を向ければ、ドアの付近に外を見ているが体の良い男がいる。

 そして、その男の影に微かに女の子が見えた。良かった、やっぱりあの声は女の子のものだったか。もしあのか細い声が男のものだとしたら、天地がひっくり返ったか僕の耳が腐っているかのどちらかで、後者だったときは耳鼻科に行こうと思っていた。

 そんなどうでも良い事は置いておき、僕は溜息をついた。

 何がどうなっているのか、何となく解ってしまった。

 女の子が視界に入る位置に何とか移動。迷惑そうに周りの人達が僕を睨んだけど、愛想笑いで誤摩化す。この偽善者どもが。

 見れば、女の子はそこそこ有名な女子校の生徒だった。男の影に隠れているが、背中に氷でも入れられたようにピクリと肩を揺らしているのが見える。別に車内は冷房の効き過ぎで寒くはない。

 と、少しだけ大きな揺れがあり、男の影に隠れていた女の子の顔が一瞬見えた。

 セミロングの茶色の髪、清楚な印象を受ける少女だった。美しいと言うよりは、可愛いと言う感じの女の子だ。

 顔が見えたのはほんの一瞬で、再び女の子の顔は人ごみの中に消えてしまった。

 結局、周りは誰一人見向きもしなかった。

 よく見れば、少女の周囲にいる人は皆イヤホンを耳に、携帯やら新聞などを見ている。というか、最近では両方をしていない僕のような方が珍しいかもしれないな。

 聞こえていないのなら仕方ない、な。本当、聞こえてないのなら仕方ない事だよ。

 本当に聞こえていないのなら、ね。

 男が幸運なのか、それを知っての常習犯か、そんな事はどうでも良い。どちらにしてもアレは痴漢で犯罪だ。

 で。


 

『だからって、お前が出しゃばってどうするんだ?』


 女の子を助けてヒーロー面か?

 助ければお前は彼女に取ってヒーローになれるかもしれない。その可能性は捨てきれないだろう。お前の容姿なら、なんとかお世辞で白馬の王子様って言えるかもな。

 だが考えてみろ、そのためにお前は一人の男の人生を狂わせる事になるんだぞ。

 お前が言った事じゃないか。痴漢は犯罪だと。

 容易に想像出来るはずだ。会社を首になって、社会的地位を失ったあの男の末路を。

 お前にはその責任を背負う覚悟があるか?

 一人の男を不幸にする、その覚悟があるか?

 男だけじゃない。男には養う家族も居るかもしれないぜ?

 不特定多数の人間が、幸せにはならないんだ。

 ここでお前が黙って、あの子が降車駅に着くまで我慢すれば、一人の男は今不幸にならずに済むんだ。黙っていれば、一人が辛いを思いをするだけで全てが円滑に進むんだ。

 いつも通りが過ごせるんだ。

 一人の人生と、ほんの少しの通勤時間。天秤にかけるまでもないだろ。

 それになにより……恥ずかしいだろ?

 痴漢を罪にするためには、お前は大勢の前に出なければならない。たくさんの視線を浴びる事になる。最初は奇異な者でも見る目さ。次に品定め。お前と言う人間を評価する見る目さ。お前が何を思ってそんな行動を起こしたのか、探るように見てくる。結果はきっと、下心丸出しな奴って判定だろうな。

 それってさぁ、凄くこの電車乗りづらくならないか?

 お前、いっつもこの時間の同じ車両に乗ってるだろ?

 周りのお前を見る目が変わるよな。

 言い出さなければ、お前は普通として、ただの一般人として見られる。

 普通が一番良いだろ?

 普通に働いて金を稼いで、普通に飯喰って、普通に結婚して、普通の家庭を築く。普通の生活。何一つ特別な事は必要ない。周りと同じ。

 一個人になったら、お前の評価はお前一人で背負わなきゃならない。

 ここで何も言わなければ、なんで助けないんだと言われても、皆そうだからって言い訳出来る。

 普通は黙っている、ってさ。

 だけど、ここで助けてしまえば、もうお前には引く事は出来ない。

 一度助けて二度目助けなければ、お前は人の顔を見て助ける助けないを判断した奴だと思われる。最低、なんて評価を受けるかもしれないな。所詮偽善か、ってさ。

 お前には、それは辛いだろ?

 ……それに、気付いてるか?

 お前が助ける義務なんてないんだ。

 だからな?


 見て見ぬ振りでもしていよう。

 


 ……そうだ。

 そうだ、悪いのはあの子だ!

 僕が助けないのは、悪くない。

 大声で助けを呼べば、僕じゃないもっと近くに居る奴が気付いて止めるだろ。

 痴漢が怖いなら女性専用車両に乗れば良い。

 それに本当に嫌なら、男の手を掴んで頭上に持ち上げてこう叫べば良い。

「この人痴漢です!」

 ってさ。 

 そうすれば男も言い訳出来ないし、次の駅で駅員に引き渡されて、めでたしめでたしさ。車内の居心地の悪い雰囲気も無くなるし、あの男の魔手に引っかかる人も居なくなる。

 そうだ、悪いのは言い出せないあの子だ。

 話では、痴漢にあった女の人は九割が言い出せないそうじゃないか。

 誰もが通る通過点と考えればいいだろ。

 僕が悪いわけじゃない。

 僕が助ける必要はない。

 だから…….。



「この人痴漢です!」


 僕は男の手を掴み持ち上げてはっきりと口にした。僕の声が変に静まり返った車内で反響する。どうしたことか、皆がこちらを見て静まり返ってしまっていた。

 更に恐ろしい事に、周りから人がどけて行き、通勤電車内とは思えない程の空間が出来た。その中心に僕ら。

 最初は奇異な者を見るような視線。


「なっ!? なんだ君は!」


 男は僕を見て驚いた。女の子も似たような感じだったけど、こちらは前者に比べて割合嬉しそうだった。でも九割九分を驚きが占めている。

 男の驚いた声に感化され、周囲が少しずつざわめきを帯び始める。

 皆の視線が僕、男、女の子に集中する。

 品定め。

 舐め回すような視線に嫌気が指す。

 僕が次になんと言い出すか気兼ねていると、駅に着いてしまった。


「失礼だな! 大人をからかうんじゃない!」


 と男は無理矢理僕の手を払うと、脱兎の如く電車から降りて行く。

 速かった。改札めがけて脱兎の如く走っていた。体系が体系だから、もの凄く速く見えてしまった。

 呆気にとられて、僕は何も捕まえてない手をじっと見つめるしか出来なかった。その間に車内の入れ替わりが行なわれ、全てがうやむやに終わってしまった。

 先に乗っていた人達は再び視線を落とし携帯や雑誌に目を向け、乗り込んで来た人達は怪訝そうな顔で僕を見る。

 そういう人を上から目線で評価するような目が僕は大嫌いだった。

 …………なにはともあれ、これでいいか。

 別に男に罰を与えたかった訳じゃないから、男が逃げてくれても僕としては満足だった。

 とりあえず、女の子を助けられたのだから。

 羞恥心なんて知ったこっちゃないわ。

 さあて、僕も一般人に戻ろう。

 精神的に辛いものがやっぱりあるんだな、社会の先輩達からの視線は。

 と。

 そう思っていた僕の制服の袖が軽く握られた。

 ……解っている。一人だけは、他と違う反応をするのは。

 僕は深呼吸し、普通を装って振り返った。

 袖を握っていたのは、女の子だった。


「あ、あの、ありがとうございます!」


 そう言って小さく(通勤電車内で迷惑にならない程度の小さな)お辞儀する女の子。

 それを目の当たりにして、僕は……。


「……どういたしまして」


 僕はもう女の子を直視出来なかった。だから俯いてそう言った。

 恥ずかしいから、女の子の顔を真っ直ぐ見れなかった。

 昔、何も出来なかった自分が、凄く恥ずかしかった。

 見て見ぬ振りをしていた自分を見直して、改めてそう思ったのだ。

 恥ずかしいからと何もしなかった自分が、凄く恥ずかしかった。

 簡単な事だよ?

 ただ男の手を掴んで、叫ぶだけだったんだぞ? なんで言えなかったの?

 そんな言葉が頭の中を巡る。

 ……まあ、もうどうしようもないんだけどさ。


「これから、自分で言うんだよ?」

「え? あの、えっと……」


 僕の呟きに、女の子は首を傾げた。

 僕が何を言いたいのか理解出来ていないようだ。

 対して僕は壊れた機械のように、奇怪な言葉を喋り出した。


「だから、痴漢に合ったら、自分で言うの! 『この人痴漢です!』って、なるべく大きな声で。言えないといつまでもずるずると痴漢に遭うよ? 味を占めるだろうからさ。僕も気付いたら助けようとは思うけど、気付けなかったら助けられないからね? だけど、別に僕だけが君を助けられる訳じゃないんだからさ。『この人痴漢です!』ってちゃんと言えば、見て見ぬ振り、気付かぬ振りをしてた人達でも嫌でも助けてくれるから。見栄とかプライドとかでさ。本当、腐った性格してるよ。『なんで助けなかったの?』って聞いたら皆平気で答えるんだ。『気付かなかったので』ってね。その理論を正論とするために携帯とかで音楽を聴いてるんだ。勿論、素直に音楽を聴きたいって人も居るかもしれないけどさ。でもさ、せっかく色々な立場の大人達が集まっているのに、個人の世界に引きこもってるとか勿体無くない? 話とかすれば良いのにね。わざわざネットの掲示板なんか使わなくたって、目の前に話せる人は居ると思わないか? 面白いと思うんだけどさ、色々な職業の人達がお喋りするのは。恥ずかしいとか言ってたら、何にも出来ないしさ。たった一度の人生で恥ずかしいも何もないと思うんだけど……」


 と、気がつく。

 僕は何を宣っているのか、と。

 5W1H。

 いつ(when)、どこで(where)、だれが(who)、なぜ(why)、なにを(what)、どうした(how)。

 通勤時、電車内で、僕は、照れ隠しから、大声で心中を、吐露していた。

 不自然なまでに静かな車内。

 やけに冷たく感じる空気。

 恐る恐る視線を少女から逸らせば、車内が再び静まり返り、皆が僕を凝視していた。

 不思議と、僕は落ち着いていた。

 小さく深呼吸をし、僕は思考を時空の彼方に吹っ飛ばす。

 これはなんていうか、そう、いつものことだ。


 

 なあ、昔の僕。

 お前の言っている事は凄く共感出来る。まあ、過去の僕自身の意見だからな。

 普通に生きるのは凄く魅力的だ。特別だったら、出る杭と見られて打たれるからだろうな。

 世間の風が冷たいのは、とっても生きにくい。

 僕だって、出来る事ならそれに従いたかった。



 けどさ、それって僕が普通である事が前提な話だよな。



 僕が普通?

 ははっ、そんなわけないじゃないか。

 一つでも狂っていたらさ、もういくら狂ったって同じじゃないか。

 それにさ、何が男が不幸になるだよ。

 この国は資本主義社会さ。皆がみんな、他人を蹴落として自分の幸せを掴むために生きてるんだ。

 資本主義社会じゃ幸せなんて、椅子取りゲームでしかないんだ。

 椅子取りゲームで椅子を奪った事を詫びるか?

 違うだろ、それは椅子を取れなかった奴の実力不足ってことでおしまいだろ?

 僕が他人の幸せを考える必要なんて皆無。皆がみんな、自分の幸せを考えて好き勝手生きてるんだ。

 だから、僕は他人のことなんて考えて生きる必要なんてない。

 好き勝手生きて行けば良いのさ。その過程で僕以外の誰かが幸せになったら儲け物、ってな考えでさ。

 他人が不幸になる事を考えてたら、何にもできない。

 本当にそんなことを真面目に考えているんだったらさ、

『私の呼吸などの生命活動で地球環境を壊してごめんなさい、非生産的存在の私はさっさと誰の迷惑にもならないように死にます』って結論になるだろ。けどそんな事はしないだろ?

 止めとけよ、結果的に誰も救えないようなそんな偽善は。

 皆が好き勝手に生きてる世界で一人そんな事をしていても馬鹿みたいだろ?

 だからな、昔の僕。

 

 僕は好き勝手に生きるんだ。

 他人の評価? 知らないな。

 僕は僕が幸せなら、他が何であろうと構わない。

 皆そうやって生きてるのが、資本主義社会だろ?


「わかった?」


 思考を現実に戻して、僕は目の前の女の子に話しかけた。


「えっ、あ……、えっと」


 突然話しかけられ戸惑う女の子に、僕は追い打ちをかける。

 顎に手を添え、僕の顔と向き合えるようにツイッと顔を持ち上げる。


「だからさ、君が本当に痴漢が嫌なら、ちゃんと言わなきゃ駄目なんだよ?」


 あわわわ、みたいな感じに視線を泳がせて、ぽんっ、みたいな音と共に赤面する女の子。

 ほらね、嫌なら言わなきゃ駄目なんだよ。

 僕みたいな奴が調子に乗っちゃうから。

 なんて言うか、理性が崩壊しそうなんだよなぁ〜。


「ほら、嫌ならどうするか教えたでしょ?」


 僕は女の子の耳元で囁く。悪魔の囁き。

 女の子はくすぐったそうに肩を震わせる。

 ……耳をはむはむしたいなぁ〜。


 と、電車は僕の降車駅に到着。

 

「……はぁ、気をつけるんだよ?」


 僕はそうだけ呟いて颯爽と電車を降りる。

 そして、決して走っているようには見えない速度で逃げ出した。

 いや、だって痴漢に間違われたら嫌だし。

 冤罪、とは言えなくもないから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ