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朝食の準備が終わって、私はベッドにいる男に声を掛ける。あれからあの男は、成人しているだろうにずっと布団にくるまってベッドの上で丸まっている。まるで子供だ。
「もう。食べないと冷めちゃいますよ」
何度目かの呼びかけにやっと男がベッドの上に起き直った。その視線は何か非難めいたものが含まれている。
騒ぐ男に昨日洗濯しもうすっかり乾いていた下着だけを手渡したところ、顔を赤くしながら受け取っていそいそとそれを身に付けた。だからもう全裸ではないというのに、どうやら彼は未だに恥ずかしいらしい。なかなか面倒くさい男だと思う。
しかも、私よりもきっと年上だろう男に、年下の私が機嫌を取らなければいけないという不条理さに首を傾げたくなる。まぁ、けれどもきっと私が何かやらかしてしまったのだろうと思うと強くも言えなかった。
「すみませんでした。私はずっとこの森で暮らしてきていて、外の人と交流をもつことも稀だったので、森の外の常識には疎いんです。男の人なんて村の人くらいしか知りませんし、その村人とも深い付き合いはありませんので、もちろん常識は教えてもらって来ていますが、何か粗相をしてしまったようですみませんでした」
「村が近くにあるのか!」
私がしぶしぶながらも謝って見せたというのに、男はそんなことなどどうでも良いらしく、村と言う言葉に食いついて、急にベッドの上で大声を出した。
「突然大きな声を出さないでください」
「あ、あぁ、済まない。その、つい興奮してしまって。それで、村が近くにあるのか?どのくらいで離れている?」
「ええ、あります。森では手に入らないものも多いですから、私が狩った動物の肉や毛皮や採取した薬草なんかを交換するために、時々行きます」
「私を村まで連れて行ってくれないか!頼む!」
「でも、村まで丸一日かかりますよ。まだ怪我が治っていない貴方には無理なことかと」
「丸一日……」
「怪我が治ったら連れて行きます。もとよりそのつもりでした。ここにあなたを長く置いておくつもりはさらさらありませんでしたから」
「そうか。ありがとう。それでその、君が言う村というのはどこの領地にある村だろうか。ブルワース侯爵領だろうか」
「さぁ、私にはわかりません」
「分からない?」
「はい。以前習った記憶はあるのですが、生憎必要のない知識でしたので忘れてしまいました」
「そんな、本当に?それでは、マクスウェルはどうだ?ダグラス・マクスウェルだ」
私はその名前に聞き覚えが無いか記憶を探ってみたが、
そんな私の様子に男が言葉を重ねる。
「では、ウォルター・ディケンズはどうだ?あるいは、グラハム・アバネシーは?」
「さぁ、わかりません。そのどれにも心当たりはないようです」
「君は自分の住んでいる土地を治める領主の名も覚えていないのか?」
「会ったこともありませんし。村長の名前なら憶えているんですが」
「そんな……」
「いいじゃないですか。知らなくて困ることはありません」
私の言葉に、男は信じられない者を見るような顔をした。そんなに非常識なことだっただろうか。
「ところで、君に色々と教えてくれた人というのは誰だろうか?この近くにいるのか?」
「私のおばあちゃんです。この森での暮らし方だとか、一般的な常識だとか、物々交換の仕方だとか、お金についてのこととかいろんなことを教えてくれました」
「そうか。それでは、君の祖母君はどちらにおられるのだろうか?」
「死にました。三度前の冬に。今は家の裏のお墓の下にいます」
「……そうか。済まない。不躾なことを聞いてしまった。お悔やみ申し上げる」
「いえ、もう随分前のことですから」
「君は今いくつなんだ?ヘスター嬢は」
「今年で十六になります」
「十六か。私よりも二つつも下だというのに、こんな森で一人で暮らすなんて。すごいな」
「たった二つじゃないですか。差なんてほとんどないようなものですよ。それにおばあちゃんは私が生きていけるようにいろいろと準備をしてくれていたので問題ありません。これから先一人で生きる上で必要なことは十分に教えてくれました」
「そんな。君はこんなところでずっと一人で暮らしていくというのか?」
「ええ。別に困ることはありませんし」
「そうか……」
私の答えに、相手は少し悲しそうな顔をして黙り込んだ。
「そんなことより食事にしましょう。折角作ったのに冷めてしまっては台無しです」
「……ああ、分かった。ありがとう」
そう言って彼はベッドの上に姿勢良く座ると、私から朝食の載った盆を受け取り布団の下で胡坐を汲んでいるであろうその太腿の上に置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして。おかわりはありませんので零さないよう注意してください」
私はスープの椀を指さしながらそう言って、食卓へ戻ると自分の椅子に座って、遅い朝食を食べ始めた。
私が黙々と食べている視界の隅で、男がしくはっくしながら食事を摂っている。パンを一口かじり目を白黒させ、スープを一口飲んで首を傾げている。
わたしはさっさと食べ終えて自分の食器を片付けたのに、男はまだ食事を続けていた。
「普段からそんなに食べるのが遅いんですか?」
「いや、そんなことはないのだが、というか君はもう食べ終えたのか」
「はい」
「その、君の食事に文句を言うつもりはさらさらないのだが、こう、パンがあまりにも硬くて酸っぱくてなかなか食べ進められないんだ。大変失礼だが本当にパンなのか、これは?」
「パン以外のなんだっていうんですか」
そう言えば以前誰かに、貴族や金持ち連中っていうのはふわふわした白いパンばかり食べているという話を聞いたことがあったのを思い出した。白くてふわふわのパンなんてあるのだろうかとその時は思ったものだった。
私は今再びうまく想像できないそれを頭に思い浮かべて、もし貴族がそういったものを食べて暮らしているのなら、硬パンを食べ慣れていないことにも納得だと思った。そしてそれは、質の良い服のことや丁寧な言葉遣いから、この人の出自が自分と全く違うだろうということを確信させた。
「あなたは貴族なのですか?それとも商売をしているお金持ちなのですか?」
「いや、私は……」
私の問いかけに言葉にならない返事が返って来た。
「いや、失礼。君からみたらまぁ、そういうものかもしれない」
「自分のことなのにはっきりしないんですね」
「まぁ、色々あるのだ。説明が難しくてな」
「そうですか。じゃあ、あなたは普段から白くて柔らかいパンを食べているの?」
「は?パン?」
ベッドの上の男が私の問いに困惑の表情をして見せた。
「以前聞いたんです。貴族やお金持ちは毎日白くておいしいパンを食べているって」
「そんなことが気になるのか?まぁ、実際そうだな。逆にこういう黒くて固くて酸っぱいパンというのは初めて食べた」
「ほんとなんだ。じゃあ、白いパンは本当にこの黒パンみたいに固くも酸っぱくもないのですか?」
「あぁ。もっと柔らかいし、ほんのり甘くさえあるよ」
「へぇ。全然違うのね……」
私はつい口に出してそう言ってしまっていた。
「これは、どうにもこう、食べにくいな」
そう言ってもぎ取ったパンのひとかけらを口に入れている。がりがりとした食感は確かに美味しいとは言い難い。
「……そのパンは、スープに浸して柔らかくして食べるんですよ」
「そうか!なるほど!」
そう言って男が嬉々として指先で力任せにもぎとったパンの一欠けらをスープに浸して食べ始めた。
「あぁ、これなら味はともかく食べやすい。いい勉強になった」
そう言って男が私に笑った。
「はぁ、それは良かったです」
そうしてなんとか朝食を食べきった男の食器を下げると、自分のものと合わせて洗って戸棚に仕舞った。簡単な後片付けを終わらせてから、怪我人のいるベッドのほうを振り返ると、男はじっと窓から外を眺めていた。
「それじゃあ傷口の様子見も兼ねて包帯を交換します。背中をこちらへ向けてください」
私は予備の手作り包帯を戸棚から取り出しながら男に声を掛けると、言われるがままにこちらにその大きな背中を向けて来た。
私は新しい包帯を持ってベッドへ近づくと、その背中に向かって声をかける。
「そう言えば、名前は何と言うのですか?名前が分からないと言うのはなんだか不便です」
「あぁ、そうか。まだ名乗っていなかったか。助けてもらったというのにまだそんなことすら伝えていなかったのは、礼儀に悖る振る舞いだった。私としたことが、本当に申し訳ない。君の名前は既に聞いていると言うのに」
「いえ、そこまで大げさなことではないかと」
そう言うと、男は何やら考える素振りをみせた。何やら視線が宙をさ迷っている。
「私の名はライアンという」
「ライアン」
「ヘスター嬢。その、先ほどは見苦しいものを見せてしまって済まない」
「見苦しいもの?」
「あぁ。その、なんだ。まさか下着すら身に付けていないとは思いもよらず、ええと、未婚の女性には見せられないものを見せてしまった」
「何のことかよくわかりません」
「そ、そうか。なら良い」
そう言ってまたライアンと名乗った男の顔が赤くなった。
「あぁ、なるほど」
私は彼が言わんとしているものが何なのかわかった。おばあちゃんから教えてもらっていた。その言葉を思い返していた。
「子供を作る器官のことですよね。むやみやたらに人に見せてはいけないって。それはとても恥ずかしい振る舞いだって、おばあちゃんが言っていました。だからあなたは恥ずかしがっているんですね」
「こ、子供……。まぁ、有体に言えばそういうことだ。その、非常に恥ずかしいことだ」
「森の動物にもついているものですから、見慣れています。だから全然気にしません」
「そ、そうか」
「ただ、人間の雄のそれがどういった形をしているのかは知らなかったので、勉強になりました」
「に、人間の、雄……」
そう言って顔を俯けた後のライアンの言葉は小さすぎて私の耳には聞き取れなかった。
「とりあえず怪我の様子見を兼ねて包帯を交換しましょう」
また微妙な空気になるのを避けるために私は努めて話題を変えようとそう言った。
「あぁ、すまない」
私はよれてしまった包帯を慎重にほどいた。少しずつ無惨な傷跡が顔を出す。紫色に変色した怪我の跡は、しかし傷口は開くことも無くきちんと塞がっていて、血が出た痕跡はなかった。良かった。
「怪我の具合はどうだ?膿んだりはしていないだろうか」
「大丈夫そうです。もうしばらく安静にして、激しい運動をしなければ傷口が開くこともないと思います」
「本当に?」
そう言いながらほどいたばかりの包帯を私の手から受け取るとためつすがめつ見る。
「はい。ご覧の通り血は出ていません。まだ油断はできませんが、このままいけば大丈夫なんじゃないかと思います」
「確かに包帯には血がついていない……」
「傷口の表面はもうくっつき始めているので」
「くっつき始めている?どういうことだ。そんなにすぐに塞がるような怪我ではないと思っていたが」
「まぁ、たぶん、傷自体は浅いものだったんでしょう」
私は適当なことを言ってみたが、信じた様子は無かった。
「そうだろうか?もしかして、傷口を縫い合わせてあるのか?」
「いえ、私にそんなことはできません」
「縫い合わせていないのに、もうくっつき始めている?」
そう言って自らの腕を背中に回して怪我の跡を確認するようにそっと触れる。そして、手を顔の前に持ってきて血がついていないことを確認した。
彼の怪我は肩口から腰のあたりまである。非常に大きな怪我だった。今ライアンの白い指先が、その怪我の範囲を確かめるようになぞっている。
「これほどの怪我だとは思わなかった。いや、思ってはいたがこうして実際に触れてみてわかる。今自分が生きているのが信じられない……」
「良かったですね」
努めて平静に堪えた私に男が胡乱気な目で見つめている。
「朝はあぁ言ったが、やはりおかしいような気がする。これは、君が軽く言うほど生易しい怪我でも、そんな簡単に治って良かったと言えるような傷でもない。もちろん自分の目で確認したわけではないが、触れた感じでは生半可な物でないと言える。それに私は確かに覚えている。昨日切られたときのあの痛みと、逃げながらも自分の命が終わりに向かっているという冷たい感覚は……」
ライアンの言葉には真剣な響きがあった。
「君が、治したというのか?あの傷を?あのまま死んでしまっていてもおかしくなかった怪我を?」
「薬草が良く効いたのだと思います」
「薬草?馬鹿を言わないでくれ。薬草でこれほど簡単に怪我が治るのならば、世の中の軍人はもっと気楽であろう」
沈黙が落ちた。
私には何も言うことができないので、ただ静かに傍に立っているしかできなかった。窓の外から鳥の甲高い声が聞こえてきている。
ありふれたいつもの日常と何ら変わるところは無かった。
おだやかな風が吹いて、窓から入り込み私たちの頬を撫でて通り過ぎた。
「君は、その……」
かすれた声
「はい?」
「魔女、なのか?」
「魔女?御伽噺の中のですか?いいえ、違います」
「では、聖女なのか?」
震える声で男が尋ねてきた。
「聖女?聖女とは王都にいらっしゃった方のことですよね。違います」
私は困惑しながらそれだけを言った。
「では、どうやって私の怪我を治したというのだ。これは……、僕の背にあるものは、致命傷と呼んでも良いもののはずだ。かすり傷だとか軽い怪我だとか、そんな生易しいものではいはずだ。ならば、聖女以外の誰に治せるというのか!」
「さぁ。薬草のおかげではないでしょうか。この森の薬草は質が良いと近くの村で評判ですから」
「君は!!」
男が思わずと言った風にこちらへ身を乗り出してくる。その瞬間、背中の傷が引き攣れたのかうめき声を上げると痛そうに顔をしかめながらベッドに倒れた。
「無茶をしてはいけません。血が止まっただけです。まだその塞がりかけている薄い皮膚の下は、まだしっかりと癒着してはいません」
痛みにうめくライアンの背から血が流れている。傷口が開いたのだ。
「ほら、無茶をするから。まだ怪我の治りかけなんです。無理はしないほうがいいですよ。元気に見えても、体は傷を癒すのに随分無理をしているはずです。目に見えない疲労もまだまだあるはずです」
私は血を綺麗に拭いてからライアンの上半身を包帯できつく締めあげてから、ベッドに寝かせた。
私の手当てを彼は無言でじっと見ていた。
「そのまま大人しく寝ていてください。傷口が開いて膿んだり熱が出たりしても私には治せませんからね」
そう言うと、ライアンは小さく頷いて目を閉じた。
私は彼が落ち着いたのを確認してから、庭にある男の服を取り込んだり、部屋の掃除をしたり食材の在庫を確認したりしてその日を過ごした。
それと同時に私は村へ行く計画を頭の中で立てていた。一人なら食料は七日以上もつだろうが、二人だったらすぐに食べきってしまう。それに彼の着替えもとりあえず必要だろう。
そう思いながら手作りのカレンダーに目を遣ると、月に一度遠くから村に商人が物資を荷車に積んでやってくる日が三日後に迫っていた。背の高い彼にも着られる良い古着を顔なじみの商人が持ってきてくれることを期待した。
そしてしばらく悩んでから、私は最終的に彼の怪我が悪化しなければ明後日は村へ買い出しに出ようと心の中で決めた。




