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ぐぅと自分のお腹が鳴ったことで、私の意識は日常の雑多な事柄へと移った。
私の腹の虫の音を耳ざとく聞きつけた男が自らの腹に手を当てている。どうやら彼も空腹を感じているようだ。
私は食材は何が残っていただろうかと思い返しながら、男から視線を外して朝食の準備をするために動き出す。まずは寝巻から着替えなければならない。
窓を開けっぱなしにするとベッド脇の自分の服が掛けられているところまで歩く。それから寝ている間によれよれになってしまった寝巻に手をかけて脱ぐ。脱ごうとした。
「ちょっ、待て!」
そうする私に向かって背後から静止の声が掛かり、そのせいで私は中途半端な恰好で動きを止めた。その呼び声が必死さを帯びていて、なおかつ大声だったから私はびっくりしてしまったせいだ。
「何をしている!お前は自分が今していることが何かわかっているのか!」
さらに怒鳴る様に言い募る男に私は頭だけ巡らせて視線をやると、そこには顔を真っ赤にした男がベッドの上で慌てふためいているのが見えた。
「え?何って着替えですけれど。着替えないと作業できないじゃないですか」
「着替え?作業?」
「そうです。着替えて朝ごはんを作らないと」
「朝ごはん……?」
この人は何を当たり前のことを聞いてくるのだろうと思った。私はそうだと頷いて見せた。一瞬彼が虚を衝かれたような顔をして、しかしすぐに怒ったような顔になって言葉を続ける。
「わかった。何をしようとしているのかは分かった!だがここで着替えるのは止すんだ」
「何でですか」
相手の横柄な願いを聞き入れる義理も無いので私は脱ぎ掛けの服をさらに持ち上げる。
「何でって……。おま、お前には恥じらいというものはないのか?女性がしかも未婚の女性が肌を晒すなど言語道断だ。着替えたいというのならせめて私のいないところでやるんだ」
「繰り返しますが何故ですか。納得できません。ここは私の家で、あなたの家じゃないんですよ。私が自分の家で何をしようと私の勝手じゃないですか」
「何故ってお前は女だろう!」
相手が再び声を荒げて言う。窓の外では、その声に鳥たちが驚いて鳴きながら飛び立つのが分かった。
「……はいまぁ、女ですけど、それが今何か関係がありますか……?」
今一何を言われているのかぴんとこなくて、私は曖昧に返事をする。その曖昧な返答に一瞬ぼんやりとした表情をした彼が、はっとした後でさらに言い募る。
「とりあえず腕を下ろせ!服を下ろせ!見えているぞ!いますぐ着替えるのを止めろ!」
叱責するような厳しい声の響きに、理由が分からないながら私はしぶしぶ腕を下ろす。
そうすると、男があからさまに安堵の表情を見せた。
「命の恩人であり、女性でもある君にみっともなくもこのような大声を出してしまって申し訳ない」
「はぁ、まぁ、いいですけど」
突然謝られて私は困惑してしまう。突然怒鳴って来たかと思うと、心底申し訳ないと謝る彼の目まぐるしく変わる情緒の変化が、私には理解しかねた。
「本当に済まない。だが、どうかこんなところで突然服を脱ぐのは止すんだ。着替えるのなら別の部屋にしたほうが良い。男のいるところで女性がむやみやたらに肌を晒すのは褒められたことではない」
未だ赤い顔をしたままの男が落ち着きを取り戻した声で、そんなことを言った。その言葉に、そういえばおばあちゃんからも何度か言われたことがあったなと私は思い出した。この家には私とおばあちゃんの二人しかいなかったので、実際にそうなったのは今回が初めてだった。
「ですが、この家はこの部屋しかありません」
私がそう言うと、男は驚いた風に目を見開いて部屋の中をぐるりと見渡した。
「あそこの扉は収納です」
私はたった一つの扉に目を止めた男に向かってそう言った。
「そ、そうか。庶民の暮らす家というのはこういうものなのだな……」
なるほどと何やらぶつくさ男が小さく言っている。しかしそれは私にはどうでもよいことだった。
「わかった。君がどうしてもここで着替えるというのなら、私が移動しよう。どうしてだか痛みもほとんどない。これならば、少しくらい動いても問題ないようだ」
彼はそう言いながら包帯でぐるぐる巻きになっている自分の背中へと手を伸ばす。私が昨日治した傷跡は包帯の下に隠れていて触れることはできないはずだ。
「うん。もっと酷い怪我をしていたと思っていたのだが、どうやらそうでもなかったようだ。想像していたよりもずっと体が軽い。きっと君の手際や手当の仕方のおかげもあるのだろう。本当に、私を治療してくれてありがとう」
「いえ」
そう言って、男が背中の傷を気にしながらゆっくりと体を動かしてその具合を慎重に確かめる。背を伸ばしたり身をかがめたり、上半身を左右に捻ってみたりと上半身の気の済むまで一通り上半身の動きを確認すると、一つ納得したように頷いた後で、こちらに向かって微笑んで見せた。
それから、まだ完全には治らない傷が引き攣れるのだろう、その動きは緩慢で、わずかに不快そうな表情をしながら体をゆっくりとずらしてベッドから起き上がろうとするのが見えた。
「あっ」
その様子を見て小さな声が私の口から零れた。
その小さな漏れ出た声にベッドの中の男がこちらに再び顔を向ける。
しかし彼はそのまま体に掛かっていた布団から足を出すと、しっかりと床に両足をつけて立ち上がった。
男はもの問いた気な顔でこちらを見上げているが私は何も言わなかった。ただ私の視線の先にある男の白い足が、太腿や膝なんかが朝の日差しの中ではっきりと見えていた。
「うん?どうしたんだい?」
「いえ、その」
歯切れの悪い私の言葉に彼が小首をかしげた。金色の髪の毛がさらりとその額に流れた。
「男の人はいいのかなって思って」
「何が?」
怪訝そうな顔をして見せる。
「男の人は裸を晒しても問題ないのかなって思って」
「裸?」
「ええ。私はどうも常識に疎いようなので、女の人が肌を晒すのがだめなら、男の人はどうなのかなって思ったんですけど」
「何故今それを質問してくるのか分かりかねるが、そうだね、基本的には良くないよ。女性ほど厳しく注意されることではないが、まぁ常識に照らせば褒められた行いではないだろうな」
「そうなんですね」
「あぁ。特に未婚の女性の前で裸を見せるのは良くないとされている」
「そうなんですね。教えていただきありがとうございます」
「いや、構わないよ。それで、なんで急にそんなことを?」
「あ、はい。えっと、そうとは知らず、昨日怪我の治療のためにあなたの服を脱がせてしまったのですけれど、駄目だったのかなって気になって」
「あぁ、それは仕方ないことだと思う。さすがに怪我を負った人間の治療は、服を脱がせずにはできないことだっただろう。君の名誉のためにも私は君が私の上着を脱がせたことは黙っているつもりだ。私が口を閉ざしていれば君の評判が悪くなることも無いはずだ。安心したまえ」
男の言葉から私はどうやら大丈夫そうだと安心する。
私の表情に満足そうな顔をすると、男がベッドからゆっくりと立ち上がった。
こうして実際にお互いに視線を合わせると、男の背丈がやはり高いのだとわかる。私はわずかに見上げるような形になって目の前の男を見ていた。おばあちゃんと暮らしていた家の天井がこんなにも低いのだと初めて気づかされた。
視線の先で、彼は怪我をした後だというのにしっかりと両足で危なげなく立っている。怪我はうまく治りかけているようだった。
そのことに私はそっと胸を撫でおろす。
おばあちゃんの言いつけを守らなかったけれど、どうやら大事にはならなそうだと私は思った。
世間の人を簡単には信用してはいけないと何度も言い含められていたから、少し心配ではあったけれど、目の前の男については大丈夫そうだった。
曖昧に微笑んでこちらを見ているその表情は穏やかで、無害そのものだった。背は高いけれど、村にいる男たちと比べればずっと細い。もちろん私には無い筋肉がはっきりとあるが、それは貧弱なのではなく均整の取れていると言うべきものかもしれない。そのそれなりにしっかりとした体が朝の日差しの中で白く浮かび上がっていた。
不意に風が窓から入り込んできて、彼の体を撫でて通り過ぎた。そよそよと金色の毛が靡いている。そこの毛も金色なんだなぁと私はぼんやりと思った。
「それで、済まないが僕の上着はどこだろうか」
「今、庭に干しています。昨日洗濯したので」
「なるほど、そうか。包帯でぐるぐる巻きにされているとは言え、無駄に肌を女性の目に晒すのは良くない。返してもらえるだろうか」
「私は気にしませんし、もちろんお返しいたしますが、すぐには着られないと思います。背中側が大きく裂けているので、破れたところを繕わないといけません」
「あぁ、それもそうか」
そう言って窓の外へ男が視線を向ける。その目は眩しそうに細められた。
「そう言えばまだ名乗っていなかったね。ごめん」
「いえ。知る必要もありませんし」
「そうかもしれないけれど、名乗らせてくれ。私は――」
窓に向けていた顔を動かして、室内に視線を戻しながらそう言いかけた男の口が閉ざされる。
「え」
そう小さく言葉が口から零れると同時に、男の目が驚愕に見開かれた。
「あの……」
私はそう声を掛けたのだけれど、答えは返ってこない。
その代わり、彼の目線は自分の体に向けられていた。
何かおかしなところがあるのだろうか。彼は自分の体を驚きを持って見つめていた。
それからゆっくりとその視線が上を向き、私のそれとぶつかった。
口はあんぐりと開かれていて、何やら言いたげにはくはくと動いている。
「どうかしましたか?」
私は不思議に思って問いかけた。
男は驚きに満ちた顔をしながら、幾度となく自分と私との間で視線を行き来させている。その顔は見る間に赤く染まっていき、最終的には見たことも無いほどにまでなってしまった。まるでりんごやとまとのような。
それからしばらくの間があって彼が再び大声を出した。私は思わず両耳を手でふさいだ。
「何故私は全裸になっているんだ!」
その絶叫に、森の鳥たちが何羽か驚きの声を上げて飛び立つのが聞こえた。




