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三七 孤独な芸術家の夢想 後編

 


「あ、やっぱり純くんだ。久しぶり~」

「…柚仁(ゆずひと)さん」



 とんでもない緊張感で振り向くと、一人の青年が半分ほど開けたシャッターをくぐっているところだった。

彼の名前は鳴海柚仁。流夏さんの従兄(小夜子の兄の息子・三男)であり、鳴海家で最も年が近く交流が深い親族だ。僕がこの人と会うのはこれで三回目になる。



「すみません、勝手に入ってしまって」

「ん?ああ、いいよ気にしなくて。家に何か言われたら俺の名前出していいから」



 話が早くて助かる。柚仁さんは僕の方へ近付いてくると母子像に視線を向けた。その瞳は一瞬だけ見開かれると、すぐに苦笑となって細められる。



「なにこれ。流夏ちゃんが描いたの?」

「ええ。恐らくは最近描かれた作品かと」



言いながら、白鳥さんはどうしているんだろうかと思い彼女の方を一瞥する。姿が見えないので恐らくは咄嗟に身を隠したのだろう。目撃者は排除する、と息巻いていたのは一体何だったのか。



「へえ〜。ってことは生まれたんだ?」

「...はい?」

「あれ?まだ生まれてない感じ?」



 何かを聞き逃してしまったのか、どうにも会話が噛み合わない。



「すみません、何の話ですか?」

「だから...(あおい)さんがおめでたで、これはそのお祝い絵なんじゃないの?」

「蒼さん?鳴海家の方でしょうか。僕は存じ上げません」

「え」



 柚仁さんは僕がその『蒼さん』とやらを知らないことに大層驚いているようだった。



「流夏ちゃんの継母だよ。あの家、七、八年前に再婚してるんだ。聞いてない?」

「...」

「あっ、えーっと...そんなに気にしなくていいと思うよ?血縁じゃないから鳴海家でも話題にしてなかったし。流夏ちゃん、蒼さんとは上手くいってなかったからさ。そういう欠点、君にはあまり言いたくなかったんじゃないかな。ほらあの子、純くんにはすっごい格好つけてた、から...」



 虚しさだけが募るなけなしのフォローを言いかけたところで、柚仁さんはふと辺りを見渡した。否、見渡したのではなく鼻を効かせているようで、彼は何度かきょろきょろと首を動かすと、やがて淀みない足取りでアトリエの端へ向かった。

 あちらは白鳥さんがいる方面である。バレたところでトラブルにはならないだろうが、紹介のタイミングを逃してしまった今、鉢合わせたら気まずい。流夏さんに関するセンチメンタルは一旦置いておき、僕は柚仁さんを追いかけた。



「い、いきなりどうしたんです?」

「こっちから妙な匂いがするんだよね」



 僕には分からなかった。しかし日本で有数の料理学校に主席入学を果たした彼の優れた嗅覚は、僕たちを大小様々なパネルや資材が並んでいる一角へと導く。

 引き止める上手い口実を見つけられなかった僕は柚仁さんと一緒に、小瓶に入った赤い粉末を床にぶち撒けている白鳥さんの姿を見つけてしまった。なるほど、確かに近くまで来ると妙な匂いがする。なんとも言えない状況に数秒の沈黙を経て、柚仁さんは僕を見た。



「純くんの彼女?」

「違います。...白鳥さん」

「あはは...蓋を開けたら勢い余って溢しちゃいました。すみません、後で片付けますね」



 笑って誤魔化しつつ謝罪を述べて立ち上がった白鳥さんは柚仁さんに頭を下げた。



「隠れるような真似をしてすみませんでした。私は白鳥深雪と申します。以前、流夏先輩にはとてもお世話になって...あんなことがありましたから、桜庭先輩に無理を言ってここに連れてきていただいたんです」

「あっそう。俺は鳴海柚仁、流夏ちゃんの従兄です。よろしく〜。んでさ、その赤いのって何?独特な匂いがするけど...あの絵で使ったやつだよね?」

「やっぱりそうでしたか」

「どういうことだ?」



 瓶に半分ほど残った赤い色素粉末を揺らして見せた白鳥さんは、床に置いてあった発泡スチロール箱と一枚の用紙を指した。



「クール便の保冷ボックスに、赤い粉が入った小瓶が一つ入っていました。実際にクール便で届いたのは別のものみたいですけどね。これが納品書です」






 この度は当店でのお買い上げ誠にありがとうございます。

 〇〇湾で獲れた天然活アカニシ貝は焼いて美味しい、煮て美味しい、刺身でも美味しい巻貝です。また、肝については食べると痺れが出ますので廃棄してください。万一お召し上がり場合、当店では一切責任を負いません。

 ちなみに、貝の内臓から取れる染料は貝紫と呼ばれ、古代より高貴な色として扱われていました。海女さんたちも貝紫で染めた布をお守りにしていたとか。おまじないや願掛けに使われてきた、非常に縁起の良い貝でございます。ご注文いただいたお客様に幸多からんことを心より願っております。


【納品明細書】


 [商品名]天然活アカニシ貝5kg

 [価格]-----円(税込)

 [個数]20






 納品書を三人で囲む。



「流夏ちゃん、生きてる貝一〇〇キロ買ったんだ。やばいね。全部食べたのかな」

「少なくとも鰓下腺はすべて使ったんでしょう」



 アクキガイ科の貝にある鰓下腺はパープル腺とも呼ばれ、そこから得られる分泌液は染色に用いられる。それこそが納品書にも書いてあった貝紫という染料だ。分泌液そのものは黄色で日光に当てると紫に変色する性質を持つが、西洋では深紅色にまで発色させていたという話もある。ひとつの貝から取れる染料はごくわずかで、まとまった量を生成するには大量の貝が必要なのだ。



「その赤い粉末はおそらく、流夏さんが自作した貝紫です。おそらくは色素だけ抽出して粉末にしたのかと。膠と混ぜれば絵具にもなるでしょうし」

「あの。鳴海…流夏先輩がプールに撒いてたのも、これじゃないですか?」



 赤く染まったプールを思い出す。貝紫は紫に発色している場合水に溶けない性質を持つのだが、言われてみると確かにあの赤は溶けているわけではなかったかもしれない。とはいえ、あれだけの量を生成するのに要した労力は並ではないはずだ。つまり、そうまでしても貝紫でないといけない理由があった、と見るべきだろう。



「願掛けになるんだっけ。じゃあ、あの絵は安産祈願かな?」

「「…」」

「え、なにこの空気。俺変なこと言った?」



 むしろ変なのは僕たちの方である。神々しさすら感じられるあの絵に、流夏さんの怨念が込められている、なんていうのだから。なんと反応すべきか考えている僕より先に、白鳥さんが口を開いた。



「盗み聞きしちゃって申し訳ないんですけど…流夏先輩と継母の蒼さんってあまり仲良くなかったんでしょうか?」

「あー、うん。らしいね。親戚の集まりで会ったときはそんな風に見えなかったけど、流夏ちゃんから聞く話ではかなり険悪っぽかった」

「それって、流夏先輩のほうが嫌っていたんでしょうか?それとも、蒼さん?」

「どうだろ。多分、蒼さんのほうが流夏ちゃんを邪険にしてたんじゃないかな。それで流夏ちゃんも反撃してたー、みたいな」

「え、反撃?」

「殴り合いになったこともあるらしいよ」



 思ってたのと違った。

 柚仁さんが聞いた話だと、本家で日本画を学んでいた流夏さんを自宅に連れ戻したのはまだ籍を入れたばかりの継母である蒼さんだったらしい。理由はおそらく、流夏さんと一緒に本家宅へ移り住んでいた父親と同居するためだろう、とのことだ。しかし連れ戻しておきながら流夏さんに対して冷たい態度を取る蒼さんに、流夏さんは様々な嫌がらせをして報復したらしい。



「例えばなんだったかな…蒼さんがずっと無視してくるから、部屋を勝手にバンクシー壁画っぽくしたんだっけ。それでブチギレた蒼さんに夕飯でドッグフード出されて、その腹いせに蒼さんのクレカ不正利用して出前取りまくった~とか言ってた気がする」

「くだらな…あ、えっと、お二人とも随分と不毛な喧嘩をされてたんですね」

「それ言い直した意味ないだろ。まあ確かに、恨みが募るようなやり取りとは思えないな」

「恨むまではいかないと思うよ。いうなれば天敵?トムとジェリー的な…喧嘩するほど仲がいいとは口が裂けても言えないけど、好敵手くらいには思ってたんじゃないかな」



 蒼さんとやらもかなり大人気ないが、実行した悪事の大きさで言うなら流夏さんに軍配が上がる。というか本当、なにしてるんだこの人たち。一般的な継子いじめ譚とかけ離れすぎではないか。いや、いじめはないに越したことないけれども。



「では仮に蒼さんが自分の父親との子を妊娠していたとして、流夏先輩はそれを祝福すると思いますか?」



 白鳥さんが切り込む。その問いに柚仁さんはさして迷うことなく答えた。



「するんじゃない?手放しに、とは言わないけど…多分、流夏ちゃんは蒼さんのこと好きだったと思うし」



 不仲だとしても恨むほどでないのなら、当然呪うことだってないだろう。あくまでも柚仁さんの主観的な意見なのですべてを鵜吞みにするわけにはいかないが、流夏さんが蒼さんに対して怨念を向ける理由はなさそうに思える。

 ではなぜ、あの母子像画は呪われているのか。



「君たち、流夏ちゃんのこと探ってんの?」

「…流夏さんがいなくなった理由を、です。僕たちは第一発見者なので」

「へえ~、ってことは深雪ちゃんも?」

「え。はい」



 白鳥さんはいきなり下の名前で呼ばれたことに面食らったようだ。そう、この人は他人との距離を詰めるのが異様に早いのである。そういうところは流夏さんとの血縁を感じるが、他の鳴海家の人にそういった印象はないので、彼らの世代にのみ対人コミュニケーション能力の遺伝子が突然変異を起こしたのだろう。

 柚仁さんは母子像画の方を向いた。



「じゃあ、きっと二人は選ばれたんだね」

「...流夏さんが、故意に僕たちをあの場へ集めたと?」

「純くんが居合わせてる時点で偶然はないでしょ。深雪ちゃんの方は分からんけど」

「私は誘導されましたよ、確実に」



 そうだ、白鳥さんは流夏さんを追いかけてプールに辿り着いた。そして僕も、直前まで流夏さんといたから行動したのだ。



「なら、やっぱり君たちに来て欲しかったんじゃない?九割方ガチガチに計算して残りの一割を運に任せる、みたいなのって流夏ちゃんがよくやる手だし」

「ああ...なるほど」

「え、なるほどなんですか?来てほしいなら一〇割で計算すればいいでしょう。どうせあの人なら可能なんでしょうし」

「選ばせることこそが重要なんだろう。僕たちに選択の余地がない上での行動に、流夏さんは価値を見出さない」

「じゃあ九割の計算は何なんです?」

「他を思い通りに動かそうとする、ごくごく普通の利己的思考」

「何それ...結局は天才の道楽ってことじゃないですか」

「あはは、流夏ちゃんロマンチストだから。そういうとこは昔からずっとクソガキだよねえ」



 長い年月を共に過ごした親戚らしい言葉だと思った。そう、あれは一種の試し行動とも言える。あらゆる手を使って他者の感情を揺さぶり、引き摺り出そうとするのはあの人の悪癖だ。



「とりあえず時系列で整理してみたんですけど...」



 白鳥さんがノートを広げる。それは文芸部室でメモをしていたものと同じノートだった。



 ①4月下旬 呪いのフォーム作成

 ②5月上旬? 呪いのフォームが流行る

 →アカニシ貝大量発注

 ③5/19 水泳部顧問の事故

 ④呪いのフォームがさらに流行る

 ⑤6/2 集団ヒステリー事件

 ⑥6月中旬 鳴海流夏と白鳥深雪が出会う(『呪いのフォーム』が影響を受ける)

 ⑦6/30 鳴海流夏がプールで行方不明



 ②と③の間にアカニシ貝の発注が行われたらしい。流夏さんが呪いのフォームを把握していた時期は定かではないが、水泳部顧問の事件が起こる前に購入していたとすると怪異はまだ学院のプールと関連していないはずだ。ともすれば、最終的な貝紫の使い道は初期の想定と違っていたのかもしれない。

 なんて考えていると、柚仁さんが「これ...」と呟いた。そういえば普通に見せてしまったけれど、ここにある内容は彼にとって意味不明な事象の羅列であり、どう考えても余計な不審を立てるだけである。すでにしっかりと読んでしまったらしい柚仁さんは白鳥さんの方を向いた。



「深雪ちゃんって、流夏ちゃんと会ってからめちゃくちゃ日浅いんだね?」



 一番気になるのそこ??

 何と誤魔化そうか考えるよりも先に斜め上の発言で思考を止められた。確かに白鳥さんは先ほど、流夏さんの世話になったと柚仁さんに説明していたので微妙な矛盾が露呈してしまったわけだが、それにしたってもっと他に言及すべきことがあるだろと思う。というかこれ、僕がフォローすべきなんだろうか。

しかし白鳥さんは非常に落ち着いた様子でにこやかに「はい」と答えた。



「正直言って、親しくはなかったんですけど...私のモノを借りパクしたまま流夏先輩が失踪されたので、こうして取り立ての手掛かりを集めている次第です」

「(唖然)」

「あらら、それは災難だったね。あの子綺麗だからみんな騙されがちだけど、概ねジャイアンみたいなもんだから...あ、でも、借りをそのままにすることはしないから、多分何かしらの方法で返してくれるとは思うよ」



 返す、なんて可能なのだろうか。怪異だなんて特殊なモノを、そもそも『借りパク』という言葉が適切かどうかも分からない。流夏さんが貸し借りに律儀なのは僕も同意するところだけれど、白鳥さんによればプールの怪異はもう「元には戻らない」わけで、返すとすればそれは別物になるはずだ。



「お返しなら、ここにある絵でも良いですけどね。メルカリに出したら高値で売れそう」

「あー、それはやめた方がいいよ。本物ってバレたら鳴海家に訴えられる」

「やっぱりお抱えの弁護士さんとかいるんですか?」

「うん。法務力は芸術界における任天堂と言っても過言じゃないね」



 いつの間にかだいぶ馴染んでいた。柚仁さんがかなり緩い性格であることを知ってか、白鳥さんの不躾具合がどんどん加速している。



「っていうか俺、ひとつ思い出したんだけど...うん、やっぱり。この『集団ヒステリー事件』ってやつの翌日、流夏ちゃんから変な電話が来たんだよね」



 アプリのトーク画面を確認した柚仁さんは、白鳥さんから借りたシャーペンで⑤と⑥の間に『→柚仁へ連絡』と記した。



「流夏ちゃんと電話なんて滅多にしないんだけど、あの日は急にかかってきてさ。そしたら突然『ゆずは本当に生まれ変わりを信じてんの?』って」

「なにその質問...怖」

「それは確かに妙ですね。柚仁さんに聞くのも謎ですし」

「ああ、それは俺に前世の記憶があるからだよ」

「「はい??」」



 急に風向きが変わった。戸惑う僕たちをよそに柚仁さんは話を続ける。



「流夏ちゃん、分かってるはずなのに改めてそんなこと聞いてくるからさあ。やっぱ内心嘘だと思ってたのかな~って、一瞬悲しくなったんだけど」

「あの、すみません。柚仁さんって前世の記憶あるんですか?」

「うん、あるよ。気になる?話すと長くなるけど」

「気になるか気にならないかで言われると…」

「流夏先輩と関わる部分だけ簡潔にお願いします」

「おい」



 白鳥さんの失礼な物言いを窘める前に柚仁さんが「オッケー」と答えてしまったので、僕はそれ以上突っ込むのをやめた。



「前世の記憶っぽいものがある、ってこと自体は昔から軽く話してたんだ。でも三年前に前世で大切だった人が転生していたのを見つけて…まだ小学生だったからとりあえず暫定で婚約までこぎつけたんだけど」

「「(ドン引き)(絶句)(軽蔑の眼差し)」」

「はは、やっぱり変だよね。前世の記憶があるなんて普通じゃないし…」

「前世の記憶以上に人格というか倫理観がヤバいんですけど...え、なんでこの人寂しげに微笑んでるんですか??」

「頭がおかしいんだろう。流夏さんの従兄である時点で察するべきだったな...」

「そういえば流夏ちゃんにも『お前イカれてんな』って言われたっけ。まあ、そういう流れで前世のことを色々話すようになったんだ。あとは…結構相談に乗ってくれたりもしてね。誕プレとか」

「相談内容だけまともなのが腹立つな」

「ちょっと収集つかないので、一通り聞かなかったことにしましょう」



 とりあえず重要なのは「柚仁さんが前世の記憶を持っており、その事実(?)を流夏さんは肯定的に捉えていた」ということだ。



「...で、流夏さんの質問になんて答えたんです?」

「勿論『信じてるよ』って。俺の中にある記憶や感情が揺るがない限りは、それだけで証左としては十分だし」

「それで流夏さんは...あーもう、会話の内容一言一句再現してもらえます?前世まで覚えているほど卓越した記憶力をお持ちならできますよね」

「いや俺記憶力はあんま自信ない...ていうか二人とも急に冷たくない!?なんで??」

「僕はそうでもなかったでしょう。まあ、理由は自分の胸に聞いてください」



 そう言ってはみたものの、恐らく柚仁さんが自身に問いかけたところで答えが出ることはないだろう。なにせ発言の全てに罪悪感というか、後ろめたさが全くなかった。ああもう、なぜこんな予想外のところで動揺させられなきゃいけないんだ。勘弁してほしい。

 柚仁さんは解せないとでも言うような表情で話を続けた。



「つっても話自体はすぐ終わったんだよ。俺が『急にどうしたの?』って聞いたら『取材』って言われて、『そっか〜』で終わり」

「終わり??あの、私にはよく分からないんですけど、その会話って『そっか〜』で流せるものですか?」

「僕は無理」

「いやだって流夏ちゃんのことだし、どうせ絵のことだろうな〜と思ったんだよ。次の作品は輪廻転生とかがテーマで、身近な俺に話を聞いたのかなって」



 そう言われてみると、確かに通常運転のような気もしてくる。あの人が突飛な行動に出ること自体はそう珍しくない。寧ろ今の僕たちにとっては柚仁さんのほうが余程異分子的な存在である。



「あの絵、いつ描かれたものか分かりませんかね?」



 白鳥さんの言う「あの絵」とは当然母子像画のことだ。柚仁さんの登場ですっかり忘れていたが、呪われているらしいあの絵は僕が再確認のために布を剥がしてからずっと剥き出しのままである。



「ごめん、大丈夫だったか?」

「はい。視界に入れないようにすればなんとか。...あの絵の制作がプールの件以前か後かで、話が変わると思うんですよ」

「そうだな。細かい時期は分からないけれど、僕が最後にここへ来たのは四月末だ。その頃にはまだあの絵はなかったよ」

「ってことは、あれが流夏ちゃんの遺作かもしれないんだ」



 遺作。

 柚仁さんの言葉が刺さる。



「そういえば桜庭先輩、蒼さんに見覚えあるって言ってましたよね?結局どうでした?」



 白鳥さんに言われて思い出す。そうだ、僕はあの母親...蒼さんに見覚えがある気がしていたのだ。しかしどうにも思い出せない。だからきっと勘違いだったのだろう。だって僕は、流夏さんの継母の存在すら知らなかったのだし。



「そりゃあ見覚えはあると思うよ」



 なぜか柚仁さんに肯定された。彼の、何て事もないような雰囲気が却って妙に落ち着かない。



「だって蒼さん、君らのとこの先生だもん」



 ああ、本当に、僕は何も知らないんだな。

 今の僕にできるのは、この目眩を熱中症ということにして強がることくらいだった。




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