三七 孤独な芸術家の夢想 前編
夏バテによる体調不良で自宅に引きこもっている僕とは対照的に、白鳥さんは学院の夏期講習に参加するとかでほぼ毎日登校しているようだった。流夏さんの件で日程の相談をすると大抵は白鳥さん合わせになるので、恐らく僕は暇人と思われていることだろう。実にその通りである。
僕を遊びに誘う人間なんて、流夏さんくらいだったし。
「おい、今絶対目が合っただろ。なんで無視するんだ」
学院の門前に停めている車内から、数メートル先を歩く白鳥さんに電話を掛ける。すると、彼女は振り向くどころか速度を緩めもせずに歩いたまま電話に応答した。
『そっちこそ校門前に車停めるとか、何考えてるんです?』
「裏門なら大丈夫だろう。今誰もいないし」
『グラウンドから見えやすいんですよここは!本っ当そういうとこ脇が甘い。もし私が桜庭先輩を狙ってる〜みたいな誤解されたらどう責任取ってくれるんですか?少なくとも女子生徒からの村八分は確定しちゃうんですけど、そこのとこ、ご理解されてます?それともアレですかね、四方八方から投げつけられる生卵を全部キャッチして私を庇ってくださる覚悟があっての行動なんでしょうかね??」
「...平成の学園モノじゃあるまいし、今どきそんな古典的なイジメは起きないと思う」
『そんなの分からないじゃないですか、Y2Kとか結構流行ってるし。あと私は今、覚悟の話をしているので論点ずらさないでください』
「あーもう分かった、僕が悪い。生卵キャッチは無理なので気をつけます」
とりあえず少し先の公園付近で待ち合わせることになった。先回りして路上待機していると、数分後に白鳥さんの姿が見えてくる。彼女は辺りを見渡してから車の窓をノックすると、それに合わせて開いた自動ドアより後部座席に乗り込んだ。電話口での対応とは打って変わり運転手へ礼儀正しく挨拶をする。こういう対応を見ると、僕への不躾な態度が意図的であることをつくづく実感させられる。運転手は先程の通話内容を察しているはずだが、さして気にした様子はなく「では出発しますね」と静かに発進した。
僕たちがこれから向かう先は、流夏さんのアトリエである。
「自宅とは別に仕事場があるってことですよね。さっすがお金持ち」
「仕事場というか、ほとんど住んでいたけどな。あの人、全然家には帰っていなかったようだし」
「へえ、家が嫌いとか?」
「どうだろうな。でも、一番の理由は作業効率のためだと思う。制作に没頭しすぎて寝食を忘れるのが、あの人の日常茶飯事だから」
一週間ほど音信不通でアトリエを訪ねてみたら衰弱状態で倒れているのを発見した、という経験は片手では足りない。仕事がなくとも生活力に乏しい人なので、夏は一日一食アイスだけ、とかいう頭のおかしい食生活をすることもしばしばあった。それで僕より健康的なのだから本当に解せない。
「鳴海先輩って、母親を亡くされているんですよね。家族と上手くいっていない可能性ってあります?」
「家族というか、一族諸共複雑だけど。君、どこまで把握している?」
「ウィキで見ただけです」
「じゃあ大筋は知っているな。母親については?」
「有名な画家だったんですよね。名前は確か…鳴海小夜子」
鳴海家は日本画の名門で、総本家筋まで辿るとあらゆる芸道に通ずるようなお家柄の一族だ。そんな鳴海家で(短期とはいえ)異例の留学を果たした小夜子は、ただでさえ例外的な海外生活の中で、日本画から油絵に転向、という、さらに破天荒な行動を見せて実家と揉めに揉めたのである。その結果、鳴海家は留学の援助を打ち切り帰国を要請したのだが、小夜子はそれを尽く無視して帰らなかった。
そうなると一番の問題が金銭面である。とにかく金がない。だから小夜子はひたすらに絵を描いた。描いて、描いて、描きまくり、ありとあらゆる絵画の賞レースに応募して、賞金を稼いだ。コンペで勝ち抜き、展示権をもぎ取り、ファンとパトロンを獲得したのである。
「と、いうわけで流夏さんの母は鳴海本家とかなり険悪だった」
「すでに伝説級のエピソードが飛び交ってて胃もたれしそう…先輩、話盛ってません?」
「誇張がないとは言い切れないけど、これ、業界では有名な話だからな?事実、鳴海小夜子の受賞歴はとんでもない」
「うわ、本当だ。受賞歴一覧で別のリンク飛んでる…え、これ二十歳の話?噓でしょ」
白鳥さんはスマホを取り出して鳴海小夜子の記事を開いているようだった。一体どのような情報が書かれているのかは気になるところだが、生憎僕の三半規管は揺れる車内での閲覧行為に到底耐えられないので大人しく外の景色に目を向ける。
「大学卒業と同時に結婚して、小夜子は流夏さんを出産した。数年後、本家の当主が代替わりしたのをきっかけに小夜子への風当たりが弱くなって、一部の親族と交流を再開したんだ。流夏さんが日本画に興味を持ったのはその頃らしい」
「で、渡米中に少年ギャングの抗争に巻き込まれて死亡...」
「流夏さんが八歳のときだな。母親である小夜子が亡くなり、流夏さんは一時期を本家で過ごし本格的に日本画を学ぶようになった」
「親と険悪な祖父母の家で、ってことですよね。居心地悪そう...それって本人の意思なんですか?」
「ああ。日本画を学べる場は少ないからな。恐らく本家としてはあまり歓迎していなかったと思うが...油彩と違って狭い業界だから、権威的な鳴海本家に楯突いて日の目を浴びるのは非常に難しいんだ。だからこそ本家に気に入ってもらう必要があった、と」
かつてそんな話を本人から聞いたことがある。
そう言うと、白鳥さんは訝しげな目で僕を見た。
「八歳って、そんな打算的に動けます?」
「どうだろうね。細かいことは後付けだったとしても、どこに愛嬌を向けるべきか、くらいの思考は幼い子供でも出来るんじゃないか?人によるだろうけど」
「...なるほど。それであんな、呆れるくらいに大衆から愛されてるんですねー。鳴海先輩が芸術家として人気を博した今、もう本家との蟠りは解消されたんでしょうか?」
「そう単純な話ではなさそうだが、少なくとも表向きは円満ということになっている。デビュー当時は鳴海本家のゴリ押しが凄かったからな」
人材不足によって長らく斜陽の時代が続いていた鳴海家の金のなる木として、流夏さんは数多くの案件を受けてきた。それを本心でどう思っていたかは分からない。当然、あの人のことだから本家の言いなりになっていたわけではなく、自分のやりたいことと上手くバランスを取っていたのだろう。それでも、しがらみを負担に感じなかったはずはない。
思えば僕は、あの人の弱音というのを聞いたことがなかった。
「流石、鳴海先輩については随分とお詳しいですね。Wikipedia超えてますよ」
「...僕の母方が数寄者の家系で、芸術方面の噂が入ってきやすいだけだ。特に叔父は鳴海小夜子の大ファンで...流夏さんと知り合ったのもそういう繋がりだった」
「へえ、てっきり高校からの付き合いかと思ってました」
「よく話すようになったのは高校に入ってからだよ。それまでは単なる知人だった」
芸術家としての略歴なんて、芸術分野に強い関心があれば自ずと耳に入る情報だ。そんなものに大した価値はない。この一年、僕はあの人と何を話しただろう?会話の機会はたくさんあったけど内容は取り止めもない話ばかりだった。流夏さんの悲しみや苦悩に、僕は明確に触れさせてもらったことなんてない。
「──アトリエは、鳴海本家が所有している土地なんだけど」
「はい?」
「今日、訪問の許可は取っていないんだ」
「えっと…『僕は出入り自由だから』って言ってませんでした?」
「うん。流夏さんからはそう言われていたし、鍵も渡されている。でも正式な権利は本家にあるから…もしも先に伺いを立てて断られてしまった場合、分が悪いだろ。だったらアポなしのほうがまだ弁明の余地があると思ってな。というわけで、鉢合わせてしまうかもしれないから覚悟しておいてくれ」
現状、流夏さんは行方不明扱いだが、すでにあの事件から三週間が経過しているので本家がアトリエの作品を移動させている可能性は十分にある。もしも作業中に鉢合わせた場合、相手が僕のことを知っている人間なら話は早いが、そうでなければただの不審者だろう。最悪、有名画家の作品を狙う泥棒として通報されかねない。勿論そうならないように尽力するが、多少騒ぎになってしまうリスクは避けられないだろう。僕の言葉に白鳥さんは神妙な顔で頷いた。
「…分かりました。目撃者は一人残らず排除しましょうね」
「なぜそうなるんだ??悪いけど僕にそんな覚悟は一ミリもないぞ。もし君が殺ってしまった場合、その場で即通報するからな」
「それ、私を直接止めた方が早くないですか?」
「いや、だって相手は殺意に塗れた白鳥さんだろう?関わりたくないし、コンディションによっては負けそうなんだよな...君、運動神経良いんでしょ?」
「確かに成績はオール五ですけど、特別良いわけでは...先輩、握力っておいくつでした?」
「なぜよりによって握力...二五」
「あっ同じですね。ちなみにこれ女子平均です」
「本っ当にひと言余計だな君は!!」
無意味な会話をしているうちにアトリエへ到着した。郊外の峠へ繋がる閑散とした住宅地にひっそりと佇むその場所は、トタン屋根の大きな倉庫と、そこに併設されたプレハブ小屋と、砂利が敷かれた駐車場で構成されている。駐車場には誰も停めていないので、少なくとも中を探る前に本家と鉢合わせる事態は避けられたようだ。
「なんというか...国道沿いにある運送とか建設会社みたいな雰囲気ありますね」
「...ごめん、あまりピンと来ないんだが」
「あ、いいです。忘れてください。思ってたんと違う、と言いたかっただけなので」
確かに芸術家のアトリエとしてはかなり無骨だが、デザイン設計の監督はほかでもない流夏さんである。秘密基地をイメージしているとのことで外観だけでは何の建物か分からないし、そのレトロ感に反して頑強なセキュリティを備えているのだ。僕は警備システムの静脈認証を解除し、シャッターを開ける。その瞬間、熱気とともに日本画特有の膠の匂いが漂った。僕は真っ先に冷蔵庫を開ける。
「…なんか臭いません?」
「多分、画材を腐らせたんだと思う。モノは無いから誰かが掃除してくれたんだろ。腐った膠水はこの程度じゃ済まないからな」
膠とは動物性の油分から抽出されるコラーゲン物質のことで、水に溶かすと接着剤になる。日本画の画材には欠かせないものだが、膠水は痛みやすく夏場の常温だったら一日で腐るし、冷蔵庫に保管していても一週間が限度だ。流夏さんは一気に多量の膠水を作るので、冷蔵庫に入れたまま腐らせることがしばしばあった。
行方不明になってから三週間ということは、膠水も三週間は放置されたわけである。むしろ今この程度の臭気で済んでいるということは、第一発見者がしっかりと始末をつけてくれたのだろう。ご愁傷様である。
アトリエ内は以前来たときよりも整然としている気がした。前回来たときから二ヶ月ほど空いているので正確なことは言えないが、恐らく画材やら作品やらは片付けられているものの、この場にあるものは減っていない。介入したのは本家の人間だろうから、もしかすると流夏さんが戻ってくると思って最低限そのままにしているのかもしれなかった。
僕が空調やら照明やらを調整している間、一人でアトリエの中を見て回っていた白鳥さんはいつの間にか立ち止まっていた。見ると、彼女の前には白い布が掛けられたイーゼルスタンドが置いてある。
「なにか気になることでも?」
「...ええ、まあ」
「なんの絵だ?」
「あっ!ちょっ...」
布を剥ぎ取る。なぜだが制止されたような気がするけど、別に良いだろう。ここの作品は自由に見て良いと、作者に許可をもらっているのだから。
「...これは」
「うわー...うわうわうわ、やば」
「は?なに?どうした?」
「いえなんでもないです」
「嘘つけ絶対なにかあっただろ隠すな!」
「…じゃあ逆に聞きますけど、先輩はこの絵どう思いますか?」
「先輩の質問に質問で返すなよ」
どうと言われても、見事な作品であるというのが第一印象だった。
そして次に出てくるのが、「珍しいな」という感想だ。
描かれているのは『母子』で、色は紫がかった真紅一色を水墨画のように濃淡で描いている。デザイン性の強い作風が特徴的な流夏さんの作品の中では比較的写実寄りで、色彩も相まりセピア写真のような雰囲気を醸している。額に入れずパネルのままイーゼルスタンドに立てかけているということは、最近描かれた作品と見て良いだろう。
「出産直後の絵、かな。母子像といえば聖母マリアだけど、この母親は随分と表情豊かだ。安堵の中に気迫迫った感情が見える。なんとなくだけど、商業向けではなさそうだ」
「...つまり、わざわざ普段と違う手法で趣味の絵を描いた、と?」
「さあな、コンクール用かもしれないし。あと流夏さんの作品で水墨画というのは珍しくないよ。これは多分、この絵の具をメインに使いたかったんだと思う」
「母子については?」
「人物はよく描いてるけど、母子は...初めてじゃないかな」
「鳴海先輩って、母親と何かありました?」
「基本的に放任主義で、あまり一緒にいた記憶はないと聞いている。小夜子は基本的に海外を飛び回っていて、国内にいても制作に明け暮れていたから流夏さんが母に絵を教わった回数は片手で足りる程度だと。...で、いつまで尋問を続ける気だ?」
意図を隠されたまま一方的に質問されるというのは何とも気分が悪い。一体どういうつもりなのか、隣にいる白鳥さんへ視線を向ける。
「おい、大丈夫か?」
すでに涼しくなったはずのアトリエ内で冷や汗を流している白鳥さんは青い顔で絵画をじっと見つめていた。僕の声かけを聞いても彼女は眉を顰めたまま絵から目を離さない。
何となく嫌な予感がした僕は、咄嗟に母子像画に布を掛けた。
「白鳥さん!」
「...っ、すみません」
「向こうに椅子がある。とりあえず座ろう」
アトリエ奥にある画材作成用のスペースは、工作室と理科実験室を合わせたような造りになっている。木製の簡易的な椅子は座り心地の良いものではないが、あのまま立ち続けるよりはマシだろう。白鳥さんは自前の水筒を取り出すと勢いよく水分を補給した。
「無理しないほうがいい。帰りは家まで送るよ」
「...はは、先輩が運転するわけじゃないのに」
「減らず口を叩く気力はあるみたいだな」
「はい、もう平気です」
口ではそう言っているが、テーブルに肘をついて額を押さえている様子はとてもじゃないが平気には見えない。
「体調が悪いなら早く休むべきだ。ここにはまた来ればいい」
「いえ、二回目は勘弁です。ここの調査は今日で終わらせます」
「どういう意味だ?」
「あの絵、呪われてますよ」
白鳥さんは大きなため息をつくと、例の母子像画を一瞥した。
「呪物、ってやつです。相当な怨念ですよ、あれ」
「…そんな禍々しい雰囲気は感じなかったけど」
「でしょうね。あの絵、本当に綺麗ですから。だからこそ気持ち悪いんですよ。あれだけの怨念を込めておいて、あんな…まるで『新たなる生命への祝福』みたいな、希望めいた絵を描けるなんて」
「確かに幸福の象徴とでも言うような絵だったが、作者の意図も同様とは限らないだろ。実は隠されたテーマがあって、鑑賞に仕掛けが必要な可能性もある」
「なるほど。確かに、あれが『わが子を食らうサトゥルヌスの前日譚』とかなら、ギリ納得できるかも…?」
「君、それ本気で言ってるのか?」
「いや、あの、メンタリティ的な意味で…ほら、太宰治はテンション高いときに『走れメロス』を書いて、病んでるときに『人間失格』を書いた、みたいな話あるじゃないですか。あの絵が実は怖い意味を持っているなら、込められた呪いとの整合性はあるのかな、と」
病んでいるときには、病んだような作品を描く。美術史的にも文学史的にもよくあることだ。先ほど僕は鑑賞に仕掛けがあるのではと提言したが、正直言ってその可能性は低いと思っている。主題や構図のオマージュなどは別としても、例えば『呪い』をメインのテーマにしているなら流夏さんはそれを自分なりの表現でストレートに描くはずだ。あの人は感情主義だから、『取り繕いたい心』は愛せても『取り繕った心』には興味がない。どころか、軽蔑すらしていた。
「君のその、呪い感知はどのくらいの精度で発揮されるんだ?」
「んー...ネガティブな感情や執着を持っているかどうか、持たれているかどうかの判別は正確だと思ってます。でも総合的な精度で言ったら微妙ですね。私が直接視ないと駄目だし、それが怒りなのか悲しみなのか恨みなのか、っていう具体的なところまでは分かりません」
「つまり、流夏さんが何らかのマイナス感情を持って母子像を描いた可能性は高い、と」
あのサイズの絵なら製作期間は短くて二、三週間、長くて二か月といったところだろう。思い返しても、記憶の中にいる流夏さんはいつだって享楽的で、この世のすべてを愛そうとしていた。しかし今思うと、それは流夏さんが自身に寄せた理想だったのかもしれない。
稀代の天才芸術家だって、人間だ。そりゃあ掴みどころのない人だったし、いつだって肝心なことは口にしないあの人の本心なんて分かりようがないけれど。なにかどうしても受け入れられない現実に心を打ち砕かれてしまうことだって、きっとあったはずなのだ。そんなこと、分かっているつもりだったのに。
己の愚かさにようやく気がつく。あの人が何かを呪うなんて、僕は、考えたこともなかったのだ。
もしもあの人が苦しみに苛まれていたなら、僕は、その苦痛を分け与えてほしかった。しかし実際、僕は愚鈍にも気づかなかったし、流夏さんは巧妙にその傷を隠した。
ああ、心臓が痛い。
「君といると、流夏さんの知らない一面を思い知らされてばかりだ。...なんでだよ」
「私にキレられても、そんなの知りませんってば。先輩が今になって勝手に悟ってるだけでしょ」
「まあ、それはそう…こうやって誰かと流夏さんの話をすることなんて今までなかったし。異なる視点の意見に色々と気付かされたのかもな。ちなみに君って、流夏さんのこと嫌ってたりする?」
「直球だなあ...元々苦手なタイプでしたけど、呪いを横取りされてからはさらに嫌いになりました」
「なるほど。アンチの意見を聞いたことで、多少客観的になれたのかもな。対極意見を同列に扱ってこそ、学術的論評の公平は実現するわけだし」
「私の個人的な好き嫌いを勝手に飛躍させないでもらえます?アンチってほど鳴海先輩に興味ありませんから」
白鳥さんのこういうところを流夏さんは好ましく思っていたのだろうと、何となく思った。無関係の外野ならいざ知らず、実際に流夏さんと関わった人間において本気で流夏さんを嫌っていた者、あるいは、無関心でいられた者が果たして存在しただろうか?もしかすると、白鳥さんくらいかもしれない。
僕が黙って思索していると、白鳥さんはにやりと笑った。
「ていうか普通に、恋は盲目ってやつじゃないですか?」
「は?」
「桜庭先輩って鳴海先輩のこと好きだったんでしょ?恋愛的な意味で」
「...」
「黙っちゃった。あ、もしかしてすでにフラれてたりします?」
「...いつから僕たちは恋バナするほどの仲になったんだ?」
「えー、だって鳴海先輩の動機に何か関係するかもしれないじゃないですか」
「ないよ」
断言する。
「あの人にとって僕は、そういう対象じゃない。ただの後輩...年下の友人だ」
僕の好意がどういった類のものか、あの人は知っていたのだろうか。多分、分かっていながらはぐらかしていたんだと思う。僕が傷つかないよう、あらかじめ明確に線を引かれていた。だから僕もそれ以上は踏み込めなかった。
だとしても、二人きりだった文芸部での約一年間を否定はしない。流夏さんの『特別』に、僕は間違いなく入っていたはずなんだ。
「白鳥さん。君は流夏さんを自殺と言ったが、僕は違うと思う」
「はあ、そうですか。根拠は?」
「流夏さんが自殺するとき、その遺書は絶対に僕が持っているはずだから」
僕が今、何も持っていないことこそが根拠だ。過去の軽口を本気にするなんて馬鹿げているかもしれない。しかし一般的な遺書とは違う形だとしても、あの人は僕に何かを残す。その程度の心なら僕に割かれるだろう。
「ええと、はい。で、一旦話戻しますけど...」
そんな流し方ある??
白鳥さんの反応は驚くほどドライだった。というか、ドン引きされていたのだろう、まるで触れてはいけないモノのように僕の主張はスルーされた。いやべつにいいけど。
「鳴海流夏最推しの桜庭先輩が絵を見て感じた印象も、決して間違ってないと思うんですよ」
「...推しているわけでは」
「なので、両方合わせて推測します。呪って描いた絵なんですから、やはりあの絵にこそ鳴海先輩の感情があるはずです。あの母子像、赤ちゃんの方は顔が見えなかったし、多分母親がメインですよね?」
「そうだな。しかしさっきも言ったが、鳴海親子の関係性は希薄だったはずだ。それに、鳴海小夜子当人に対して強い感情があったとしたら、直接それを描くんじゃないか?あれでは似ても似つかないぞ」
「鳴海小夜子の顔、知ってるんですか?」
「写真で見たことあるだけだが、流夏さんと瓜二つだった」
「えー…あの顔が一世代前にも存在してたんですか。遺伝子やばいですね」
品のない物言いだが、白鳥さんの言いたいことは分かる。容姿端麗で破天荒な天才芸術家、などという現実離れした人間が二代にも渡って存在するとは、話に聞いただけではにわかに信じられないだろう。僕も昔のアルバムを見せてもらったときには仰天したものだ。違いといえば髪質くらいじゃないだろうか。
だからこそ断言できるが、母子像にあるあの母親は絶対に小夜子ではない。
「…そういえば、どこかで見たことあるような」
「え!?あの母親ですか?どこで!?」
「…思い出せない。ちょっともう一回見てくる」
「嘘でしょ」
「そういえばあの絵って呪物なんだよな。それって呪いの儀式で使う用、ということか?」
「いや、単に呪いの思念が宿っているタイプかと…」
「じゃあ誤作動で誰かを呪ってしまうことは無さそうだな」
「その前に先輩が呪われる可能性の方が高いと思いますけど!?」
「望むところさ。ほら、君は隅の方でむこうを向いてなさい」
線を引かれて距離を置かれるくらいなら、僕は呪われたかったよ。
再び布をはぎ取って母子像画の前に立つ。美しい母親だが、その造形は絶世の美女というよりも柔和な素朴さを表現しているように思う。やはりどこかで見たことあるような…
その時、シャッターが開く音がした。




