二七 理性が眠るとき、怪物は目を覚ます
その日、水泳部の顧問教師は放課後の部活動が始まる前に日課の設備点検を終わらせようと、一人プールの水質チェックを行っていました。プールサイドにしゃがみ込み、塩素濃度が基準値内かどうか採取した水を見極めます。
時間にすれば五秒にも満たない束の間、先生は背後からドンっと押されてプールに落ちました。一瞬何が起きたのか分からなくて焦りましたが、すぐに先生は「部員の悪戯だろう」と思いました。そしてこの危険行為を教育者として咎めなければ、と水面から顔を上げようとします。しかし上から、先生の頭を誰かが水中へ押し込もうとしたのです。パニックに陥った先生はプールの中でジタバタと暴れ出します。顔から飛び込んだので背後の存在は見えません。しかし先生を抑え込む力はまるで複数人が覆い被さってきたような、そういう圧力のかかり方でした。緊張状態によって息が続かず、空気の代わりに水が気道へ入ってきます。意識が朦朧とするなか、先生は自分を抑え込む手のようなものを見たような気がしました。
気がつくと、先生は病院のベッドにいました。あれからすぐに、プールへやって来た部員たちと副顧問が溺れている先生を救出し、そのおかげで命に別状はなかったそうです。先生は何者かに押され、押さえ込まれたことを説明しました。しかし発見した彼らは首を傾げ、あのプールには先生以外誰もおらず、すれ違ってすらいないと言います。プールには入口が一つしかないので、先生を沈めようとした犯人が彼らと会わずに逃げることは不可能です。訳の分からない状況に先生は「そんなはずない」と声を荒げます。
後からやって来た警察や理事長にも同じ話をしましたが、結局今回の件は先生の過労によるふらつき、そして溺れた時のパニックによる妄想だったとして正式に事故として処理されました。
しかし、話はこれで終わりません。
先生の件から二週間後、学院では今年度初めての水泳授業が行われました。まだ六月のはじめですがここのプールは室内温水ですし、生徒数がとんでもなく多いので毎年プール開きは早めだそうです。一年A組、B組、C組の三クラス合同なので人数は合わせて百人強、教員は三名で行われました。そして授業時間残り二十分を切った頃、水泳授業でよくある自由時間が設けられました。事件が起きたのはそのときです。今回の件は事故ではなく、事件と扱うのが相応しいでしょう。
始まりは恐らく、一人の女子生徒でした。
その女子生徒はプールの中で立っていましたが、突然足首に違和感を感じたのです。誰かに足首を掴まれたような、そんな違和感に気づいた瞬間、女子生徒はとんでもない力で引っ張られました。当然、このプール場は女子生徒が立っていても肩くらいの水位しかありません。それなのに、女子生徒はプールの底へ引っ張られたと痛烈に感じました。女子生徒は水中で溺れ、もがきます。しかし実際のところ、その女子生徒の顔は水面から出ていたそうです。息をしているはずなのに、苦しくて、苦しくて、水の檻から出られない。プール場は異常事態に騒然となります。
そして誰かがその女子生徒を助けるよりも先に、他にも溺れ出す生徒が現れました。一人、また一人と必死の形相で水面を叩き、呻き声をあげます。それによって泣き叫ぶ生徒、プールサイドへ逃げる生徒、逆に水中へ飛び込む生徒、失神して倒れる生徒など、屋内プール場は一気に地獄と化しました。
いわゆる集団ヒステリーが、五〇人以上の規模で起きたのです。
その日、学校は臨時休校となり、学院にはパトカーと救急車が何台も停まることとなりました。幸い、死者は出ませんでしたが、低体温症一歩手前の生徒もいたそうなので紙一重の状況だったと言えます。
また、ヒステリーに陥った生徒たちの大半が「誰かに足を引っ張られた」と証言し、その他にも「水面に写った誰かが自分を水中に引き込もうとした」「水中から手が伸びていた」と証言したそうです。
この事件は集団ヒステリー、集団幻覚として片付きました。事実はどうあれ、警察も、医師も、教員たちも、それで事を丸く納めたかったのでしょう。その結論を表立って否定する者はいませんでした。
しかし、六月末。
プールに飛び込んだ一人の女子生徒が行方不明になりました。
彼女は一体、どこへ行ってしまったのでしょう。
「あっつ…」
「空調ついてないのか。仕方ない、さっさと調べよう」
締め切られた蒸し暑い空気に身が包まれる。体力的にも、時間的にも猶予はない。
流夏さんの真相を掴むためにもう一度プールを調査する必要がある、というのが僕たちの一致した意見だった。しかし事件以降プールは一学期丸々閉鎖され、夏休みは水泳部がほとんど毎日利用しているから迂闊に立ち入ることは難しい。
したがって、僕たちがプールに忍び込めるのはたった今行われている終業式の間のみであった。すべての教師と生徒が講堂に集まっているこの時を逃す手はない。こうして学校を休んだ僕たちは鍵を盗んでプールに忍び込んだというわけである。
「水、張ってありますね」
この後すぐに水泳部の活動があるからだろう、プールには水が張ってありぶいも浮かんでいる。まるで何事もなかったかのように、プールは元通りの様子だった。
「で、どうなんだ?」
「はい?」
「『プールの手』ってやつ。今もあるのか?」
立て続けに起こったプールでの事件を皮切りに、学院では『プールの手』という怪談がまことしやかに流れていた。そしてそれは、白鳥さんが作ったものらしい。
噂ではなく、怪異そのものを。
「さあ、どうでしょう。少なくとも、集団ヒステリーを起こすほどの強さはないと思いますが。あのとき、鳴海先輩がまったく別のものに作り変えてしまったので」
「というかそもそも、君が考えた『プールの手』ってどういう設定なんだ?」
「設定といわれても…そういう、『俺が考えた最強のモンスター』的な感じでは作ってないので。曰くが重なって、私の連想が形を成しただけ、というか」
「曰く?中等部の頃からいるけど、このプールに関する変な噂なんて今まで聞いたことがないぞ」
「ああ、いえ。プールについては水泳部顧問の件が最初です。本当の始まりは『呪いのフォーム』ですね」
なんだそれ。まったく聞いたことのない単語だった。
なんでも、作成者不明のアンケートフォームで、そこに任意の回答をするだけで相手を呪うことができるらしい。とんだ眉唾物である。
「いつの間にかSNSでちょいバズりしてたらしく、学院で結構流行ったんですよ」
「ふうん。それがプールとどう関わってくるんだ?」
「水泳部顧問の斉藤先生、主に水泳部からとんでもなく恨まれていて。フォームでもめちゃくちゃ呪われてたんです」
「…待て。え?もしかして君が作ったのか?『呪いのフォーム』を?」
「はい。もちろん、呪いの力なんてありませんけどね」
「いや、というより…なんでそんなものを作ったんだ?悪趣味すぎるだろ」
「人間関係を把握したくて。ほら、人の悪意って見えづらいじゃないですか。私、外部入学だからそのあたりの情報に疎いんですよ」
「だとしても、それで呪いのフォームを作ろうとは思わないだろ。君の思考回路ヤバくないか?」
「桜庭先輩も、『ヤバい』とか言うんですね」
「普段は言わない。ただ、君のイカれた精神性を表現する適切な語彙が僕に無くてね」
「ひどっ。だってクラスメイトのお嬢様方がスピリチュアル系好きって言ってたから…これくらい手軽なオカルトだったら食いついてくれるかな~、と」
「恐らく君のクラスメイトが好きなのはパワーストーンとかであって、都市伝説じみた呪いの儀式はお呼びじゃないと思う。あれだろ君、そういう非科学的な分野に一ミリも興味ないな?」
「はい。全くありません」
いっそ清々しいほどの断言だった。怪異を作った、なんて発言をした人間とは思えない言葉である。
「まあいいや…それで、斉藤先生が恨みを買っていたから何なんだ?」
「ああ、はい。その矢先に先生が溺れる事故が起きたんです」
「フォームの呪いが成就したと?」
「いえ、そこまでは…というかあれ、犯人は水泳部でしょ」
「…は?」
まるで当然のことのように言った白鳥さんはプールサイドにしゃがみ込むと揺らめく水面を見つめた。
「呪いのフォームにはいくつかの項目があります。呪いたい相手の名前は必須ですが、自分の名前、自分と相手それぞれの性別、生年月日、出身、所属、そして呪いたい理由…便宜上、入力する項目が多いほど効果は強まるとしていますが、全部書いてくれる人ってあんまりいないんですよ。でも、水泳部の人たちはかなりの熱量で書いてくれていました」
「根拠はそれだけ?」
「まあ、そうですね。でも私、学校の怪談について色々調べたんですけど…プールの中にいる人間を上から抑え込む怪談って基本なくないですか?オーソドックスなのって、水中に引きずり込む方でしょ」
「それはそうだが…まさか君、斉藤を発見した部員全員がグルとでも言うつもりか?」
そんなクリスティーの小説みたいなこと、現実に有り得るのだろうか。プールの中に監視カメラが設置されたのは集団ヒステリーが起きてからで、それ以前の出来事について映像の証拠はない。だからまあ、頭から否定する材料もないのだが。
「あの場には副顧問もいたんだろ」
「そうですね。水泳部はみんな、そこにいたそうです」
「…おい」
「誰が『部員』なんて言いました?先生だって、URLさえあれば呪いのフォームに入力することは可能ですよ」
「ホラーなのかミステリーなのか、ジャンルを統一してくれ…」
「いやいや、一人の人間を複数人で沈めるとか普通にホラーでしょ」
確かに、探偵役が犯人を推理しない限りはただの怖い話である。
とりあえず水泳部には金輪際関わらないと決めた。
「そんなわけで色々な噂が飛び交ったんです。事実はどうあれ実績を作っちゃいましたから、フォームの回答数はどんどん増えていきました。私が『プールの手』という怪談を知って、水泳部の件と連想したのもこの頃で…集団ヒステリーが起きたのはそういう時期でした」
「君の想像が具現化したと?いくらなんでも強すぎるだろ」
「そんな能力があったら私は今こんなことしてません。あれは、プールという場に多くの人間が集まったことこそが問題だったんじゃないですか?」
「つまり、『呪いのフォーム』を使った人間がプールに集合する、という先例の見立てが行われた?」
「はい。きっと私が干渉できるのは『呪いのフォーム』の構造だけです。そして、フォームは『プールの手』という怪談の性質を帯びた。フォームで複数人から呪われていた子は大体溺れていましたよ」
「そういえばあれ、一年生のクラスだったな」
「はい、私も参加してました。見学で」
「…まさか、こうなると知って見学にしたのか?」
「いえ、普通に生理です」
「…」
「あ、疑ってますね~。言っておきますけど私は小学五年生からずっと生理を理由にプールの授業、休み続けてるんですから」
「それは…うん、その話は終わろう。つまり、集団ヒステリーは怪異による現象だったと?」
「あの規模ですから、流石に全部がそうだったわけではないと思います。でも、生徒を引きずり込もうとする手は視えました」
白鳥さんの隣に立って、一緒に水面を見つめる。見えるのは反射した僕たちの姿だけだった。
「...なあ、あの。君は手、視えるのか?」
「今は見えません」
「それは『今ここに何もない』という意味か?それとも『今君に見えていない』...?」
「前者です。私…なんか最近、霊感あって」
「霊感ってそんな感じのノリで発現するのか!?」
「さあ?一般的にどうかは知りませんけど。そこまでがっつり視えるわけじゃないし」
「いつから?」
「集団ヒステリーが起きる少し前、ですかね。最初は単に、自分の頭がおかしくなっただけだと思ってました。ていうか今も、それは思っているんですけど」
白鳥さんは立ち上がると管理室へと向かった。扉を開けるとタンクやら制御盤やら、一般の生徒が見ることのない景色が広がっている。ひと目見ただけではどうやって排水するのかなんて到底分からなかった。
「鳴海先輩は、いつから準備していたんでしょう?」
「前日には排水口の金網を外していたから、少なくともそれ以前か。なあ、流夏さんはいつ君の...怪異を奪ったんだ?」
「完全に横取りされたのは当日ですね。でも、布石は打たれてたんだと思います」
管理室を閉めて再びプールに向かい、気付く。僕たちは今、流夏さんの行動を辿っているのだ。
「集団ヒステリーを目の当たりにして、自分のしたことの重大さに気がつきました。まあ、私が悪いわけではないと思うんですけど」
「それ自分で言うか?」
「他に誰が言うんです?…ってことで、もっと無害な怪異にしようと決めた私は伝承とか呪術とか信仰とか、そういう分野の勉強を始めたんです。それで図書館を利用していたとき、鳴海先輩に話しかけられました。まともに話したのはあれが初めてですね」
「駐輪場ですらないのか。君、全っ然本当のこと言わないな」
「お見掛けはしていましたよ、本当に。でも話したことはなかったので、あの時は急に声をかけられて驚きました。鳴海先輩といえば、超有名人ですし」
白鳥さんの言う通り、流夏さんは有名人である。誇張なしに、世界規模で。
鳴海流夏は天才だ。主に芸術分野においてその才能は既に世間へ広く知られている。しかし彼女はそれ以外の大抵でも天才的であった。凡人が十年かけて積み上げたものを、勘で一発成功させてしまう。一から十を察し、ゼロから百を生み出してしまう。誰からも愛されて、誰もを愛していた。流夏さんはそういう人間だった。
作品はオークションで億を叩き出し、個展のチケットは全日程が秒で完売。他にもハイブランドアパレルとのコラボや、大型デジタルアートの総監修、有名企業のロゴデザイン協力など。彼女の芸術家的な伝説を挙げたらキリがないし、芸術以外の伝説も飽和状態だ。
「君、流夏さんにフォームとかプールのこと話したの?」
「するわけないじゃないですか。私は『課題で調べている』くらいの、ふわっとしたことしか言ってません。だけどいつの間にか、学校で起きたプールの事件に話題が変わっていて…まあ、その頃が一番噂も白熱していたので不自然ではなかったんですけど。今思えば、誘導されてたのかなって」
「うわ、ありそう」
「ありそうですか?」
「うん。あの人はそういう、人心を掌握するのが引くほど得意だから。しかしそうなると…流夏さんは君がプールの噂に関係していたと知っていた、ということになるな」
「そう、それなんですけど。鳴海先輩って霊感、あったりします?」
「…ある、と直接言われたことはない。でも時折、ある一点を見つめていたり、理由もなく道を迂回したり、異様に勘が鋭いときはあった」
「それ、"ある"のでは…?」
「どうかな。流夏さんは霊感やら呪いやらは感受性の問題だ、なんて言っていたよ。同じ景色を見ていても得られる情報は人それぞれで、情報の消化は知識と偏見によって幾多にも分岐する、って」
「思ったよりも理屈っぽいんですね。もっとこう、直感で生きてる人かと思ってました」
「直感で生きてるよ、持っている知識が膨大なだけで。あの人にとって怪異とは人間の恐怖の象徴で、研究対象のひとつだったから」
流夏さんはなによりも人間の心に関心を持っていた。喜怒哀楽、あるいはそのどれにも属さない感情をテーマに作品を描くことがほとんどで、それこそがあの人の芸術家としての信念だったのではないかと思う。作品についてあまり言葉で解説しない人だから、確かなことは分からないけれど。
僕はそう思っている。
「このプール、鬼門に位置しているらしくて」
「え?…ああ、確かに北東だな」
「それ、ぱっと出てくるんですね…文芸部の人って鬼門の位置が必修だったりします?」
「いや、五行とか十干と同じようなものだろ。それ、流夏さんに言われたのか?」
「はい。あと、風水的に水場は悪いモノが集まりやすい、とか。そもそも『水』は表象的に境界線を曖昧にする役割を持っていて…だから、学院のプールは異界との境界を曖昧にしているのかも、とか。その連想で逢魔時やら黄泉国やら、最終的には古事記の話になったりで…とても勉強になりました」
うざかったんだろうな、というのは言葉の端々から伝わった。確かに、先輩からそんなうんちくを長々と話されるのはキツい。それがいくら鳴海流夏であってもだ。
「誘導されたな、確実に」
今や学院で流行っているプールの怪談は、流夏さんの一件を機に『プールへ引きずり込む手』から『プールに入ると異世界へ連れていかれる』といったものへ変容している。もちろん事件の詳細は公には伏せられていて、出回っている情報といえば「鳴海流夏が行方不明」「学院のプールで何かがあった」くらいのものだが、それでもプールで起きたどの事件よりもセンセーショナルな話題として噂されていた。あの人の影響力を考えれば、この結果は決して予測不可能ではない。
あと単純に、流夏さんは善意で後輩にアドバイスをするような人間ではないのだ。
チャイムが鳴り響く。タイムリミットだ、もうここにはいられない。
「生きてると思います?」
あまりにも直球すぎるその問いに、主語は必要なかった。
「…正直言うと、僕たちの想像が及ばないとんでもない手を使って、どこかで好き勝手やっているんじゃないかと思ってる」
「それは、いくらなんでも鳴海先輩を神聖視し過ぎじゃないですか。自分から言っといてアレですけど、『怪談を横取りして異界への門を開く』とか…頭おかしいでしょ」
「あの人は昔から頭おかしいし、少なくない人々に全知全能の神様みたいな扱いをされ続けていた。実際、崇拝されるに足る能力もあったよ。信者の熱狂ぶりはだいぶ薄ら寒いものだったが」
「あー...もしかして、鳴海先輩って私が思うよりずっと凄い人だったんですかね。恥ずかしながらハイソサエティにあまり造詣がなく」
「あの人の場合、ハイとかローの問題ではないよ。一応聞くけど君、芸術とか興味ある?」
「ないです」
「だろうね。まあ、芸術家としての概要ならWikipediaを読むので十分だよ」
「知らないなりに、鳴海先輩がSNSで持て囃されている様は存じ上げていたんですけどね」
「言い方悪くないか?」
「いやいや、あの人の支持層が分厚過ぎるって話ですよ。若い子に人気!ってだけかと思ったら、年配の高等国民にまで顔が利く。老若男女が鳴海先輩の虜なわけじゃないですか。私としてはそれ、ちょっとしたホラーなんですけど」
「うん、だから異常なんだよ。なにもかも」
僕には霊感なんてないし、あまり信じてもいない。あまり、と付けたのは少なくとも一パーセントくらいは怖いと思っているからである。「もしかしたら、僕が知らないだけで本当はいるのかもしれない」という考えを捨てきれない、そんな、絶望的なまでに凡庸な感性。だからこんな与太話を心の底から信じているわけじゃないし、白鳥さんは信用できない(それ以上に彼女が僕を信用していない)し、流夏さんならやりかねない、とも思っている。
だから僕は全部聞いて、全部考えてみるしかないんだ。
戸締りを確認してプール場を出る。もうしばらくはここに来られない。推理小説のように劇的な証拠が見つかったわけではないが、こうして現場に来た意味はあったと思う。少なくともプールで起きた一連の流れはすべて流夏さんの計算通りであると考えるべきだろう。起きた事象は限りなく必然であり、あの日、あの時、あの場所で僕や白鳥さんに接触したこと、流夏さんの行動全てに意味があると考えるべきだ。
「君はどう思っている?」
「自殺だと思ってます」
白鳥さんの見解を聞き忘れていたと思って質問をしてみると、実に歯に衣着せぬ物言いで返ってきた。
「...異界への門を開く、だったか。誘導されていたとしても連想したのは君だろ。例にならって流夏さんも異界へ行ってしまったとは思わないのか?」
僕の問いに、白鳥さんは失笑する。
「望んで死者の世界に行ったとしたら、それはもう自殺でしょ」
日は高く昇っていて、刺すような陽光がアスファルトに反射している。そういえば、流夏さんがプールにいたときはちょうど日の入で西日が眩しかった。黄昏時、逢魔が時…境界が揺らぐ時間。
もしも流夏さんの行き着いた先が冥界や黄泉国という存在だったとして、どうかそこが魑魅魍魎の跋扈する幻想的かつ愉快な新天地であって欲しいと、僕は願わずにいられない。それがたとえ現実逃避でしかないとしても、この幼稚な期待を亡くすことはできそうもなかった。