七 想像力で良識なんか殺してしまえ
「恋は罪悪、だってさ」
ページを捲る音と同時に気怠けなあくびが聞こえた。流夏さんは机に脚を乗せ、僕から奪い取った現文の教科書を眺めている。
図書館棟の最上階にある閉架図書倉庫に併設された会議室は、僕たち文芸部の部室だった。
「洒落せえ言い訳だよな」
「それ、『こころ』の感想ですか?」
「というより『先生』の人間性批判?罪悪は恋じゃなくてお前自身だろ、ってね」
「...恋心も、先生の一部でしょう。同じことでは?」
僕の反論を受け、流夏さんはにやりと笑う。
「どうかな。恋をしなければ親友を死なせずに済んだ...つまり、恋をしていない自分は清廉潔白だ!っていう逆説的な主張を感じずにはいられないんだけど、私は」
「清廉潔白とまでは思ってないでしょう。確かに、恋をしている自分を違う自分として切り離すような思考は、あるかもしれませんが...」
「恋は潜在していた性質を引き出すきっかけに過ぎない。利己的な行動は先生そのものであって、恋をしようがしてなかろうが同じだ。こんなの、自己矛盾を取り繕うための欺瞞でしかない」
「やけに厳しいですね。でも、まあ...そんな欺瞞があったからこそ、先生は生きていられたんじゃないですか。長くは続かなかったとしても」
「え〜。罪悪も、矛盾も、愚劣も、最高に美しくて面白いモチーフなのに?それに目を背けて生きることに意味なんてあるか?」
「それは芸術家としての価値観でしょう。あなたと比べたら、先生の方が余程一般的なマインドですよ」
自分の中に醜い感情があることを素直に認められる人間というのは、果たしてどれほどいるだろうか。自身を正当化したい願望は誰しもが備えているものだ。先生の欺瞞も、運悪く最悪の結果を引いてしまっただけで、それ自体はそう責められることではないと思う。情状酌量の余地はある。罪は罪だが。
なんて、批評ならともかく実在しない創作の人物像を批判するなんて、暇を持て余し過ぎだ。
「そもそも、自己を真っ直ぐ見つめられる人間なら、抜け駆けして告白とかしないでしょう」
「ああ、うん。純くんだったらその場で決闘とか申し込みそうだよな」
「するわけないだろ」
思わず敬語が取れた僕のことなど気にせず、流夏さんは続ける。
「先生の場合、微妙に被害者面してんのが癪なんだよなあ。望み通り恋敵が居なくなったんだから、小躍りくらいしてみせろっての」
「そんなイカれメンタルの人間は自死を選びません。だいたい、『抜け駆けした結果Kは死んでしまったけど、それはそれとして結婚生活を謳歌しよう!』とか言う人間の話、読みたいですか?」
「妻の方はわりとそんな感じじゃね?」
「ちょっと、僕の読解力では及ばない考察過ぎて同意しかねますが。だとしても、追い詰めた本人がそんな感じになるのは...」
「追い詰めた本人って、どっち?」
「え?」
「Kを追い詰めたのは、『先生』か『お嬢さん』か」
そんなの先生に決まっている。そう答えようとしたが、考えれば考えるほど即答できる問ではないように思えた。
流夏さんは教科書を閉じると、座っている椅子の後ろ脚に体重を掛けた。ぐらぐらと、子供みたいな真似をする彼女は僕の方を見て微笑を浮かべるだけだ。
「純くんって、『私』っぽいとこあるよね」
「...」
「はは、すっげー嫌そうな顔。私の遺書はお前に託そっかな」
そんないつかのやり取りを、不意に思い出した。
「桜庭先輩?」
図書館棟の最上階にある会議室。今、テーブルの向かい側に座っているのは白鳥深雪、僕と一緒に流夏さんを追ってプールに行った一年生の女子生徒だ。
プールの件が教師陣に発見されてすぐ、僕たちは病院に連れて行かれた。そしてストレスか風邪か、四〇度の高熱を出した僕は二日ほど入院することになったのだが、彼女は受診だけで済んだらしい。あの時が初対面だったのにも関わらず、彼女は僕を見舞いに来た。
いや、あれを見舞いと言うのは少し違うか。彼女は僕のいる病室に来ると、簡単な挨拶をしてから連絡先を渡してきたのだ。「鳴海先輩の件でお話があります。具合が良くなったら連絡ください」とだけ言って、早々に帰って行った。
こうして体調が万全に回復するのに、あの日から一週間も経ってしまったというわけである。貧弱な体が憎い。
「すまない、少しぼーっとしてしまった」
「いえ。病み上がりにすみません。あの...」
「なにか?」
「本当にここで良かったんですか?」
「人目につかないところを指定したのは君だろう。このフロアは関係者以外立ち入れないからちょうど良いんだ。テスト終わりで図書館を利用する人もほとんどいないし」
話し合いの場を設ける相談をメッセージでした際、白鳥さんからは「桜庭先輩と一緒にいるところを見られないようにしたい」とかなり念押しされた。ほとんど初対面の後輩からそう言われるのは何とも微妙な心境だったが、異論はないのでこうして文芸部室を使用したのである。
白鳥さんは愛想の良い笑顔を浮かべて「そうですか」と答えた。
「なんというか、ここは鳴海先輩と桜庭先輩の侵してはならない聖域と聞き及んでいたので...」
「おい一体どこで聞いたんだそれ」
「どこと言われても...学院のそこらじゅうで」
「ここは文芸部室だ!」
大声を出して咽せる。そんな僕を白鳥さんは可哀想なものを見るような目で見ていた。
「大丈夫ですか?ご無理なさらず」
「君が変なこと言うからだろ」
「え、私のせい...?じゃあ不躾ついでに聞いちゃいますけど、先輩たちってお付き合いされてたんですよね?」
「...っしてない!!」
「え、本当に?あの、かなり真面目な質問なので正直にお答えいただきたいです」
「初対面の先輩を露骨に疑うな。どこが真面目なんだよ...僕たちはただの部員同士で、先輩と後輩以外の関係性ではない」
「へえ...」
「なんでまだ疑ってるんだ。納得しろ」
僕の苦言に白鳥さんはへらへらした様子で「はーい」と返事をした。この子、大人しそうな見た目の割に結構図々しいぞ。
前置きはさておき本題に入る。白鳥さんが僕を呼んだ目的は互いが持っている情報の共有だった。警察や教師など、関係者から聞いた話をまとめたいらしい。こちらとしても願ったりな話なので、僕は知っていることを全て話した。
まとめた内容は以下の通りである。
①鳴海流夏がプールに入るところは複数の監視カメラに写っている。(なんならカメラに向かってピースしていたらしい)
②排水は鳴海流夏が入水する前に自分で操作していた。
③ 排水口のカバーは鳴海流夏が前日にネジを外していた。
④入水する前に、鳴海流夏は貝殻を原料とした染料をプールに撒いていた。
⑤入水する直前、鳴海流夏は刃物で腹部付近を刺すような動きをしている。(監視カメラには背を向けていたため、詳細は不明)
⑥ プールの排水溝に鳴海流夏の遺体は無かった。
⑦遺書は見つかっていない。
ノートを開いた白鳥さんは、僕と話しながらその内容を書き留めていた。あまりにも自然な動作だったのでスルーしてしまったが、よく考えたらおかしい。
なぜ白鳥さんが、流夏さんの件について熱心にメモを取っているんだ?
「君、鳴海先輩と親しかったの?」
「いえ全く。駐輪場でたまにお見かけするくらいで」
「君もバイク通学?」
「まさか。自転車ですよ。この学院、バイクもそうですけど、自転車通学もほぼいないじゃないですか。だからどうしても顔を合わせちゃうんです」
確かに、そう広くないあの駐輪場なら顔を合わせる機会も多いだろう。
だが、聞いていた話と違う。
「鳴海先輩は、君のことを気に入っていたみたいだけど」
「...私について、なにか言っていたんですか?」
「ああ。外部入学の特待生と話した、という話を何度か聞いたことがある。君のことだろう」
顔を知らなかったのでプールの時は気付かなかったが、白鳥深雪は学力特待で入学した学院でも話題の新入生だ。整った容姿と、勤勉な性格と、人当たりの良さで注目を浴びている、と噂で聞いている。
そんな彼女にたった今、堂々と嘘をつかれたわけだが、当の本人は悪びれる様子もなくにこやかに言った。
「本当に、親しくはないですよ。何度か世間話をしたくらいで。あとは...ちょっとアドバイスをもらったりとか」
「じゃあ、どうしてその『親しくない先輩』に関することをわざわざノートに?」
「あれ、先輩はペーパーレス派ですか?私は紙に書く方が頭に入るんですよね」
「今の流れでノートの方に疑問持つわけないだろ!一体何を企んでいるんだ?場合によっては止めるぞ」
「そうですか、ご自由にどうぞ。私も好きに動くので」
「そういうことを言ってるんじゃない。...ふざけるなよ。流夏さんのことを嗅ぎ回ってどうするつもりなんだ」
語気を強めて詰問しても、白鳥さんはどこ吹く風で依然笑顔を浮かべている。それが奇妙で、薄気味悪くすら感じた。
「あなたには関係ありません」
「ある」
「え、即答...?ないでしょ」
「ある!流夏さんに関することなら、僕は絶対に首を突っ込むからな」
「...彼氏でもないくせに」
「ぼそっと呟くな、聞こえているぞ。あの人は僕にとって大事な人だ。もし君があの人の名誉を傷つけようものなら、決して許さない」
「...」
わずかな沈黙の後、行儀よく座っていた白鳥さんは姿勢を崩してテーブルに頬杖をついた。
「だっる」
「...言っておくが、僕はキレたとき物事を投げ出すんじゃなくて、徹底的に問い詰めるタイプだからな?絶対に逃すものか」
「怖...もっと儚い感じの人かと思ってたのに」
「ご期待に添えず申し訳ないね」
「ああ、いえ。フィジカル的にはだいぶ儚いご様子なので、イメージ通りではあります」
「今日一番の失礼をどうもありがとう」
絶妙に嫌なところを突かれた。プールに数分間浸かって、ほんの小一時間服が濡れていただけで高熱が出てしまうとは、我ながら呆れてしまうほど貧弱で、情けない。対して白鳥さんは翌日から普通に試験を受けていたというし、自転車通学だし、きっと心身ともに頑強なのだろう。羨ましい限りだ。
とはいえ、いくらコンプレックスを悪意で刺激されたとしても、ここで怒りを露わにしたら彼女の思う壺である。最初の態度とは打って変わり無礼な振る舞いをしているのはきっと、僕を怒らせて二度と関わらないように仕向けるためだ。話を切り上げる前に僕が違和感を指摘したから、平凡な女子生徒の振りをやめて故意に不躾な言動を見せているのだろう。
「流夏さんの件について何を隠しているんだ?怒らないから正直に言いなさい」
「それ絶対怒るやつじゃないですか。ていうか隠してるんじゃなくて、部外者に言いたくないだけです」
「は?僕は当事者だろ。吐け」
「自我つっよ...私も自信ある方でしたが、先輩もなかなかやりますね。まあ、いっか。先輩に何かできるとも思えないし。面倒臭くなってきたのでお話ししますよ」
「君、ひと言余計って言われないか?」
「あはは、サービスです。有り難く受け取ってください」
なるほど、これは確かに強い(自我が)。
白鳥さんは背もたれに寄り掛かると、一瞬だけ視線を伏せてから僕を見た。その顔に、先ほどまで貼り付けられていた笑みはない。
「鳴海先輩にあるものを奪られました。それはもう使い尽くされて、戻ってはきません」
「...プールの件に直接関係しているのか?」
「はい。でも、どうしてああなったのかは不明です。だから真実を探しています。同じ失敗はしない主義なので」
鋭い眼光が僕の瞳を貫く。まるで抑えきれていない、苛烈なまでの激情を目の当たりにして僕はようやく腑に落ちた。
『すっげー怒ってる子に会ったよ。マグマを溜めまくった火山みたいに。自覚ないっぽくて、余計に憐れだったな』
いつしか流夏さんが言っていた白鳥さんへの評価。
今まで話していた雰囲気を見ると彼女は一貫して冷静だった。僕への悪態はパフォーマンスによるところが大きいのだろうし、怒りを顕わにする姿が想像つかない程度には落ち着いた言動をとっている。
だから、たった今こうやって取り繕わない彼女の目を見るまで分からなかったが、なるほど、この子は怒りをぶつけるようとしない。今、白鳥さんにとって怒りの対象であろう流夏さんが不在なので、当然といえば当然である。だが、そういうことではないように思った。勘だけど。
「僕も手伝おう」
「え…結構です」
「手伝って結構、と。じゃあよろしく」
「いやいや、断ってるに決まってるじゃないですか。何考えてるんです??」
「流夏さんについての真相を探るのは、僕にとっても望むところだ。なら協力したほうが効率いいだろう」
「私の作業効率が下がりそうなんですが...」
「は??なぜ??懸念事項があるなら言ってみなさい」
「えー…だってなんか、横から口出されそうだし」
「ああ、出すよ。それだけか?だったら僕も言わせてもらうが」
「早い早い。何も解決してないのに私のターン終わったんですけど」
「僕は流夏さんと学外でも交流があったので、周辺ともそれなりに繋がっている。どう考えてもデメリットよりメリットのほうが大きい」
「…………………………分かりました」
「そんなに悩むことか?」
とても不本意そうな顔をされた。他人にそこまで拒否された経験がないので微妙に傷つくが、それはそれである。
とりあえず、僕たちの同盟は結ばれた。
「では、ここからは忌憚ない意見を交わそう。そもそも君、どうしてあのときプールにいたんだ?僕は少し前まで、流夏さんとこの部室にいたのだけど」
「そうですか。私は…渡り廊下を歩いていた時に、外を歩く鳴海先輩を見かけて。向こうも私に気が付いて、手を挙げたんです。それで、私も会釈して。そのまま通り過ぎようとしたんですけど」
白鳥さんは右手を、僕に小指の側面を見せるようにして首のあたりまで挙げた。「よっ」と挨拶でもするかのような、何気ない動きだ。
「この動き...こういう挨拶の仕方もあるのは分かってます。でも、なんだか違和感があって。多分あのとき、鳴海先輩は何かを呟いていました。遠くて聞こえないし、よく見えなかったんですけど。それで私、考えれば考えるほど、あれは挨拶じゃなくて、謝罪だったんじゃないかって思ったんです」
「謝罪…って、君が言っていた『あるもの』についてか?」
「はい、多分。それで追いかけて、あとは桜庭先輩と合流した通りです」
「君が奪られたものって何?」
「あー、そこ気になります?」
「当然だろ。むしろそれ言わないで協力できるわけなくないか」
「私からすると言ったほうが協力関係解消になりそうなんですけどね。まあいいか、それはそれで」
「おい。...言いにくいモノなのか?」
「そうですね。言葉にしづらいうえ、普通に考えたら到底信じられないようなモノです」
「ふうん。とりあえず、言うだけ言ってみなよ」
「いいですけど。もしこれで絶交しても、私のこと『頭のおかしい女だ』とか、そういう噂流さないでくださいね?」
「誰がするか」
そんな低俗なことをする人間だと思われているのだろうか。地味にショックを受けていると、白鳥さんは長い前置きのわりにあっさりと言い放った。
「奪られたのは、私が作った──学校の怪談です」