あの日見た背中
「……わたし、また見てるだけだ」
教室の窓際、桜井葵はそっと視線を落とす。
風間凛の後ろ姿が、黒板の前で何気なく腕を組んでいる。誰とも話さず、いつも通りの孤高な雰囲気。
(……どうしてあの人は、あんなに静かなのに目を引くんだろう)
そしてその風間が、放課後の教室を出た直後――ふと、葵はその視線の先にいた彼女を見つけてしまう。
「――あれ?」
高山みのり。部活帰りらしく、ジャージを腰に巻き、髪はいつもより乱れていた。
だけど、笑顔だけは変わらず太陽みたいで。
(……あの笑顔を、見てた?)
確かにその瞬間、風間の目線は彼女に向いていた。
確信ではない。証拠もない。ただ、胸に刺さるような感覚が残った。
(風間くんは……)
口に出したら崩れてしまいそうな予感がして、葵はそっと目を閉じた。
一方、みのりは体育館の前で、汗を拭きながら笑っていた。
「うわー、今日も走ったー!」
陸上部の仲間とハイタッチして、帰り支度をする中、ふと視線を感じて振り返る。
(あれ? ……さっき誰かいたような)
ほんの一瞬、図書館の陰に人影があった気がした。
でもすぐに消えてしまって――気のせいかと首をかしげる。
その視線の正体は、佐伯光だった。
彼はみのりが気づかない場所から、そっと立ち去っていた。
(……やっぱり、無理があるかな)
体育館の裏手から見える彼女の笑顔。それを見ているだけで、胸がざわつく。
彼女のエネルギー、明るさ――そのすべてが、自分にはまぶしすぎる。
「俺みたいなのが、近づいちゃいけない気がするよな」
本を差し出したあの日、少しだけ会話を交わした。
でもそれは、彼女にとっては些細なことだっただろう。
(期待なんて……してないつもりだったのに)
図書室での静かな日々が、少しだけ揺らぎ始めていた。
放課後、図書室では七瀬つかさが静かに本を読んでいた。
そこへ、光が入ってくる。彼女に気づいて、小さく会釈する。
「あ、佐伯くん。こんにちは」
「こんにちは……ここ、隣いい?」
「うん、どうぞ」
光は七瀬の隣に座り、本を開いたが、ページは一向に進まない。
(こんなに近くにいるのに、どうしてあんなに遠く感じるんだろう)
七瀬は、彼の横顔をそっと見つめる。
(光くんの目は……わたしじゃなくて、みのりちゃんに向いてる)
それを知っていても、ここに来てしまう自分がいる。
(ずるいよね、わたし)
でも、ただそばにいることしかできない。
彼の視線の先にいる誰かと、自分を比べてしまうことしか。
その夜、それぞれの部屋で、5人は背中を思い出していた。
葵は、風間の視線の先にいたみのりを。
風間は、みのりと光が話していた瞬間を。
みのりは、図書室で自分に本を貸してくれた光の指先を。
光は、体育館裏で見たみのりの笑顔を。
そして七瀬は、図書室で本を読む彼の横顔を――
(あの日見た背中は、誰かを見ていた)
みんなが誰かを見つめ、みんなが誰かに見られていた。
でも、その視線は決して交わらない。
(こんなに近くにいるのに)
(誰も、こっちを見ていない)
言葉にならない想いが、胸に積もっていく夜。
廊下ですれ違ったとき、七瀬がふと葵に声をかけた。
「ねえ、葵ちゃん……元気ない?」
「え? あ……ううん、少し疲れただけ。ありがとう」
「……無理、しすぎないでね」
「七瀬さんも」
ふたりの間に流れた静かな時間は、たしかに友情だった。
でもその裏で、それぞれが、言えない気持ちを抱えていることに、まだ気づいていなかった。