本当は、伝えたい
図書室には静寂が似合う。
誰もいない放課後の午後、その空間に微かに響くのは、ページをめくる音と――控えめな話し声。
「佐伯くんって、本、たくさん読むんですね」
「まあ、図書委員だし。読むのも、管理するのも仕事だから」
「……ふふっ。ちゃんとしてるんですね」
七瀬つかさの声は、いつもふわりと空気に溶け込む。
それを聞いて、佐伯光はふと視線を本から上げた。
(七瀬さんは……癒し系、という言葉そのままだな)
柔らかな物腰、誰にでも優しい態度、あまり前に出ようとしない遠慮がちな姿勢。
彼のように理屈で物事を考えるタイプにとって、彼女のような人はまるで癒しの象徴だった。
「……あの」
「うん?」
「佐伯くんのおすすめの本、今度、教えてもらってもいいですか?」
「もちろん。むしろ、嬉しいよ。僕なんかの好みでよければ、いくらでも」
そう言って、微笑む彼の表情に、七瀬は小さく胸を押さえた。
(優しいな……)
(やっぱり……佐伯くんって、みのりちゃんのこと……)
目を伏せたまま、七瀬は自分の心の奥にしまっていた想いにそっと触れた。
彼が、みのりを見るときの視線。それは明らかに特別なものだった。
(……応援しようって、決めたのに)
桜井葵の恋を応援する――そう決めていた。
けれど最近、胸の奥に芽生えていたのは、まったく違う感情だった。
帰り道、ゆっくりと並んで歩くふたり。
陽が落ちかけた空は、橙と群青が混ざる優しいグラデーション。
「桜井さんって、努力家だよね」
唐突に、佐伯がつぶやいた。
「……はい。すごく頑張り屋さんです」
「昔、成績があまり良くなかったって聞いた。でも今は学年でも上位……見習わないとって思うよ」
七瀬は黙って、でも笑ってうなずいた。
(葵ちゃんのこと、ちゃんと見てるんだ……)
だけど、彼の目は、どこか遠くを見つめていた。
「……風間ってさ、最近ちょっと変わったと思わない?」
「え?」
「いや、なんでもない。ただ……葵さんのこと、見てる気がして」
その言葉に、七瀬の心は一瞬で凍りついた。
(風間くんが……葵ちゃんを?)
(でも、それって……じゃあ、わたしの想いは?)
自分の中に芽生えかけていた感情。
名前を与えるのが怖かったものが、急に輪郭を持って迫ってくる。
(わたし……葵ちゃんが好き。たぶん、ずっと前から)
でも、彼女は風間を見ている。
そして、風間は――みのりを。
「……誰も、報われてないですね」
ぽつりとこぼれた言葉に、佐伯が少し驚いたように眉を上げた。
「え?」
「ごめんなさい、独り言です」
七瀬は笑った。その笑顔の裏に隠したものに、彼は気づかない。
そして彼自身もまた、自分の恋心を正面から見つめることを避けていた。
その夜、七瀬はベッドの中で天井を見つめていた。
(わたし、ずるいな)
応援するふりをして、心のどこかで願っている。
彼女が振られればいいなんて、そんなことは思ってない。でも――
(せめて、気づかれなければいい)
誰にも知られず、何も変わらず、ずっとそばにいられたら。
でも、そんな恋はきっと、どこかで歪んでしまう。
「……本当は伝えたいんだよ」
小さな声が、部屋の空気に溶けた。
伝えられない想いが、今夜もまた、胸の奥に積もっていく。