彼の好きな人は
「えーと、これが……ホシノで、こっちが……アカネ? うーん……難しい!」
図書室の奥、静かな空間の中に、ぽつんと明るい声が響いた。
高山みのりは、机に教科書とノートを広げながら、参考書と格闘していた。
「ったく……何でまた、そんな複雑な小説選んだんだよ……」
小さく嘆く彼女の手元にあるのは、風間凛から借りた文庫本。読書好きの彼が、無言で差し出したそれは、難解な心理ミステリーだった。
(でも……風間くんが、好きな本なら。読んでみたいって思ったんだよね)
ただの興味本位だった。最初は。
でも、ページをめくるたび、彼の好きに近づける気がして――
「……っ、って、わたし何考えてんの!?」
ぶんぶんと頭を振る。
(これはあくまで、友達としての興味!そう、友達!!)
だけど、ページの隅にメモされた小さな書き込みや、折られたページの跡を見るたび、彼の息遣いが聞こえてくるような気がして――ドキドキする。
(うわー、わたし完全に意識してるじゃん……)
それが「恋」という名前を持つ感情なのだと、彼女はまだ知らない。
「それ、光の本だよ」
不意に背後から声がして、みのりはビクッと肩を跳ねさせた。
「ひ、光? って、誰のこと?」
「佐伯光。……この図書室の本、彼が管理してるから」
声の主は、図書委員の女子だった。そういえば、風間が本を貸してくれたとき、確か――
《図書室で見つけたやつ。佐伯のだけど、読んでみろよ》
と、ぼそっと言っていたのを思い出す。
「そっか……光くんの、なんだ……」
(あの本、風間くんが好きってわけじゃ、なかったのかも)
なぜか、胸の奥がチクリとした。
その日の放課後。
みのりは、グラウンドの片隅でひとり水筒を握っていた。
練習後の疲れもあって、ぼんやりと空を見上げる。
(風間くんが、本を貸してくれたのって、どういう気持ちだったんだろ)
でも、どんなに考えても、あの人の気持ちは見えない。
寡黙で、いつも何かを隠しているみたいで。
(もしかして、誰かを……好きだったりするのかな)
そのとき、偶然耳に入った会話があった。
「なあ、佐伯。今日の返却、もう済んだ?」
「ああ、風間が借りてたやつもね。……みのりちゃんに貸してたみたいだけど」
「へえ、アイツもやっと青春してんな〜」
「……さあ、どうだろうな」
笑いながら交わされたその言葉に、みのりの胸はドクンと跳ねた。
(青春……?)
彼の名前と、自分の名前が並んで語られるだけで――こんなにも動揺するなんて。
(わたし、風間くんのこと……好きなの?)
その疑問が、確信に変わるにはまだ少しだけ、時間が必要だった。
数日後、みのりは再び図書室を訪れた。
返却カウンターに本を差し出すと、そこにいた佐伯光が笑った。
「……どうだった? 難しかったでしょ」
「うん……正直、途中で頭こんがらがった!」
みのりは正直に答える。そして、その笑顔に――何かが引っかかった。
(……この人、なんか……やさしい)
冷たそうに見える眼鏡越しの目が、実はとても温かくて。
その視線が、自分にだけ向けられているような錯覚に陥る。
「でもね、不思議と最後まで読んじゃったんだよね」
「風間に借りたんだよね? あいつ、ああ見えて案外センスあるんだよ」
「えへへ、かもね。でも……この本、光くんのだよね?」
「そうだけど?」
「じゃあ……わたし、光くんの好きを、読んでたんだね」
その瞬間、佐伯光が少し驚いたような顔をした。
みのりはそのまま、続ける。
「なんかさ、ページの折り目とか、ちっちゃい書き込みとか。すっごく優しい感じがして」
「……それはたぶん、本じゃなくて、君が優しいから気づけたんだよ」
その言葉に、みのりの胸が、また跳ねた。
(――え? いまの、って……?)
どきどきする心臓を抑えながら、みのりは、ほんの少し赤くなった頬を隠すように笑った。
夜、自室。
みのりはベッドの上で、天井を見つめながら考えていた。
(わたし、風間くんが気になる……それは、たしか)
(でも、光くんの言葉も、なんか……すごく響いた)
揺れる心の中で、まだ恋は形にならない。
でも、その種は確かに蒔かれていた。
そしてその種は、やがて――
彼女がまだ知らない、片想いのループを開く鍵になる。