君にだけは気づかれたくない
「……おはよう」
教室に入るなり、桜井葵は静かに席に着いた。朝の喧騒の中、彼女の声が誰かに届くことはない。けれど、それでよかった。
(今日こそ、少し話しかけてみようって思ってたのに)
心の準備は、昨夜からしていた。鏡の前でシミュレーションもした。けれど、風間凛はいつものように、窓の外をぼんやりと見つめていた。話しかける隙など、一秒もなかった。
(本当に、あの人は……)
好き。
その気持ちを、誰にも知られたくない。
とくに――七瀬つかさには。
放課後、葵はふとしたきっかけで風間の本を拾った。
表紙は、何の変哲もないミステリー小説。
「……これ、返さないと」
けれど彼に話しかける勇気が、今日もなかった。机の上にそっと置こうとして――
「それ、風間の?」
振り返ると、そこには高山みのりがいた。
「えっ……あ、はい。さっき落ちてて……」
「へえ、ありがとう。代わりに渡しとくね」
みのりの笑顔は無邪気だった。それが、葵の胸にじくりと刺さる。
(私が、返したかったのに……)
そんな自分の感情が、嫉妬だと気づいた瞬間、彼女は自己嫌悪に襲われた。
その頃、風間凛はひとり図書室にいた。
(あの本、ちゃんと見つかったかな)
彼は知っていた。本を拾ったのが、桜井葵だったことも。彼女が時折、自分を見ていることも。
だけど、それを知らないふりをするのが、風間の優しさであり、臆病さだった。
彼の視線は、図書室の窓越しに見える中庭のベンチへと向く。そこには――高山みのりが座っていた。
(……また、笑ってる)
誰にでも分け隔てなく接するその笑顔に、最初は戸惑い、そして惹かれてしまった。
けれど。
(その笑顔が、自分だけのものになる日なんて――来るんだろうか)
風間は、本のページを閉じた。
夕暮れ時、下校途中。
「葵ちゃん……ちょっとだけ、いい?」
七瀬つかさが、校門の近くで声をかけてきた。
「どうしたの?」
「今日、みのりちゃんと風間くん、少し話してたの……見ちゃって」
「……うん。私も知ってる」
「……つらいね」
その一言に、葵は心が揺れた。
この子は、何も知らない。私が誰を好きなのか、本当に知らないのに。
それでも、どうしてそんな風に、寄り添ってくれるのか。
「……ありがとう。つかさちゃんは、優しいね」
「ううん。……葵ちゃんのために、できることがあったらいいなって思っただけ」
七瀬のその言葉に、葵は――泣きたくなった。
(そんなに優しくしないで。私、本当は……誰にも知られたくないの。君にだけは――)
夜。桜井葵の部屋。
勉強机の上、彼女はノートを開いていた。
そのページには、今日の出来事が記されていた。
「風間くんとみのりちゃんが、話していた」
「私は、また一歩も進めなかった」
「……でも」
その手が、ほんの少し止まる。
「好き、という気持ちは、たぶんまだ消えない」
彼女は、そっとペンを置いた。
その瞳は、少しだけ――決意を帯びていた。
(明日こそ、少しだけでも。私は、私の想いを――)
そのころ、風間凛もまた、机に向かっていた。
開いているのは、葵が拾ったあの文庫本。
その裏表紙に、小さな書き込みがあった。
《この本を拾った人へ。もし、あなたも、ひとりが好きなら、きっと僕たちは少し似ている》
それを書いたのは、数か月前の自分だった。
(……あの時、拾ってくれたのが、桜井だったんだな)
彼の指が、本のページをめくる。
(気づいていたよ。君がずっと、俺を見ていたこと……でも)
風間は目を伏せる。
(俺の目に映っているのは、あの人だから)
すれ違う想い。
届かない視線。
気づかれたくない、気づいてほしい――矛盾する感情が、胸を締めつける。
誰かを想うって、こんなに苦しいことだったっけ。
そう、登場人物全員がまだ知らない。
この片想いが、まだループしていることを――