崩れ始めた均衡
文化祭が終わり、日常が戻ってきた教室。
けれど、何かが違っていた。
静かな時間の裏で、それぞれの心に生まれた揺らぎが、少しずつ形を変えていく。
<葵、知ってしまったこと>
「……風間くん、あのとき、みのりちゃんのところに行こうとしてたんだよね」
放課後、誰もいない教室。
桜井葵は、自分のノートに視線を落としながら、ひとりごとのように呟いた。
文化祭の日。
七瀬が風間を呼び止めた、その瞬間を、偶然見てしまった。
(私、わかってたはずなのに……どうして、こんなに痛いんだろう)
知っていた。
風間が見ているのは、自分じゃないということを。
でも、知ってしまったのは、風間が「動こうとしていた」ことだった。
想いを届けようとしていた、その事実。
(……私の恋は、終わったんだ)
そんなふうに思うには、まだ少しだけ、早すぎる季節だった。
<風間、わずかな後悔>
「……話しかけるべきだったかもしれないな」
自分のロッカーを閉じながら、風間凛はぽつりとつぶやいた。
七瀬につかまったあと、なんとなく気まずくなって、それきりになってしまった文化祭。
(……桜井、あのとき何か言いたそうだった)
ちらりと見た彼女の横顔。
今まで感じたことのないような空気を纏っていて、なぜか心に残った。
(俺が、ちゃんと向き合えてたら……)
けれど、それでも頭に浮かぶのはみのりの笑顔だった。
(俺は、誰に……)
誰を見て、誰を想っているのか。
それすらも揺らいでいく感覚が、風間を少しだけ不安にさせた。
<七瀬、揺れる本心>
「葵ちゃん、最近……元気、ないよね」
図書委員の当番を終えた七瀬つかさは、静かな図書室で独り言をこぼす。
(私のせいだ……よね)
文化祭で風間を呼び止めたのは、自分だった。
葵の恋が動くのが怖くて、止めてしまった。
親友としてのつもりだった。
でも、その言い訳はもう自分の中で通用しない。
(葵ちゃんが、誰かを好きでいられることが……苦しい)
それは決して、祝福だけでは終われない気持ち。
彼女への応援と恋心がぶつかり合うたびに、胸の奥が苦しくなる。
「私は、どうしたら……」
その問いに答える者は、誰もいなかった。
<光、気づいた優しさ>
「みのりさん、風間と……話してた?」
昼休み、偶然教室の外で見かけたふたりの姿。
何気ないやりとりに見えたけれど、光には見えてしまった。
(風間の目が……真っ直ぐだった)
嫉妬。そんな感情とは少し違う。
けれど、確かに心の奥がざわついた。
みのりの笑顔に癒されて、惹かれて――
でも、自分の気持ちは伝えられないまま。
(あの優しさを、風間も知ってしまったんだな)
そう思ったとき、胸がきゅっと締めつけられた。
自分だけが知っていたはずの、彼女の魅力。
それが他人に向けられることへの、どうしようもない独占欲。
(俺、誰かと争いたいわけじゃないのに……)
彼は静かに目を閉じた。
<放課後の階段:葵と七瀬、最初のひび>
夕日が差し込む階段の踊り場。
そこにいたのは、葵と七瀬だった。
「つかさ、文化祭のとき……」
「……うん」
「……風間くん、止めてくれてたんだよね?」
七瀬はぎゅっと拳を握りしめた。
「……ごめんね。私……勝手だった」
葵は、そんな七瀬の顔をじっと見つめたあと、微笑んだ。
「ううん。ありがとう。優しいね、つかさは」
その笑顔に、七瀬は何も言えなくなった。
本当は、謝ってほしくなかった。
本当は、あのとき止めなければよかった。
でも、それを口にしてしまえば、もう元には戻れない。
(私たち、何かが少しずつ……壊れはじめてる)
その予感だけが、ふたりの沈黙を支配していた。
感情は、言葉にしないまま、濁っていく。
優しさは、時に誰かを傷つける刃になる。
想いの連鎖が崩れ始めた今――もう、元の均衡には戻れない。




