片想いはじめました
四月の空気はまだ少し冷たくて、けれどどこか浮き足立っていて、胸の奥がちくりと疼くような季節だった。
「高校二年って、なんか中途半端だよねぇ~」
明るい声が教室に響く。高山みのり。陸上部のムードメーカーで、誰にでもフレンドリーな笑顔を向ける彼女は、早速周囲に人だかりをつくっていた。
それを少し離れた席から眺めていたのが、桜井葵だった。
(今年も、また同じクラス……)
そっと眼鏡の奥の視線を逸らす。彼女の視線の先には――風間凛。無口でミステリアス、そんな印象を与える彼は、例によって窓際の席で一人本を読んでいた。
(……話しかけるなんて、無理。私なんかが)
思えば、恋なんて初めてだった。
中学時代は目立たない存在だったし、人と深く関わることが怖かった。だけどあの日、ふとした拍子に拾った彼の文庫本。その見開きに書かれていたメッセージと、彼がかけてくれたたった一言の優しさに――葵は心を掴まれてしまった。
それからずっと、片想いを続けている。
それはたぶん、誰にも言えない秘密だ。
「風間くん、また読書?」
みのりの元気な声が、教室に響いた。
「……うん」
「何読んでるの? 難しいの?」
「……まあ」
やっぱり短い。けれど風間凛の視線は、確かに高山みのりに向いていた。どこか目が優しい。それに気づいていないのは、みのり本人だけだった。
「ふーん。ね、今度貸してくれない?」
「……いいよ」
風間はすっと本を差し出す。その仕草は自然体で、けれどどこかぎこちなくて。葵はそんなやり取りを、胸を締めつけられる思いで見つめていた。
放課後。図書室。
静かな空間の片隅に、佐伯光がいた。彼もまた、葵と同じく眼鏡をかけ、静かな読書を好むタイプだ。ただし、彼の周囲にはどこか柔らかな空気があった。
「七瀬さん、また来てくれたんですね」
「はい。副委員長ですから」
七瀬つかさ。ほんわかした雰囲気で、誰からも好かれる癒し系女子。光とは図書委員の活動を通じてよく顔を合わせるようになっていた。
「……この本、昨日のお勧めのやつですよね。読みました」
「感想、聞かせてもらえると嬉しいです」
そんなふうに静かに交わされる会話。そこにはまだ恋の気配はなかったかもしれない。けれど光の目には、彼女の柔らかさが心地よく映っていた。
(こういう人が、隣にいたらいいな……)
そんな淡い憧れが、彼の中に芽生えはじめていた。
「……あの」
七瀬は放課後の昇降口で、そっと声をかけた。声をかけた相手は、桜井葵だった。
「なに?」
「今日……風間くんと話せましたか?」
葵の肩がぴくりと揺れる。
「……いいえ。やっぱり、勇気が出なかった」
「そっか……」
七瀬はふわりと微笑む。その笑顔は優しくて、少し寂しげだった。
(葵ちゃん、好きな人に近づきたいって……応援したいって思ってる。でも……私だって――)
その感情に名前をつけてはいけない。そんな気がして、七瀬は胸の奥に押し込めた。
日が暮れて、校舎の窓にオレンジの光が差し込む。
風間はひとり、帰り道の途中で立ち止まった。持っていた文庫本のページをふとめくる。
(……渡すつもりじゃなかったのに)
本を貸したのは、ただの気まぐれじゃなかった。みのりに興味がある。いや――もっと言えば、彼女の笑顔に、救われた日があった。
けれどその笑顔は、誰にでも向けられる。
それが、彼を臆病にさせていた。
「……あれ、この本」
放課後、自宅でページを開いたみのりはふと気づく。
「持ち主の名前……佐伯 光?」
そう、風間が貸したその文庫本は、実は光の私物だった。偶然か、狙いかはわからない。でもそこに光の匂いを感じた瞬間――
(あれ……なんか意外……)
みのりの中に小さな種が落ちた。それはまだ芽吹いてもいない、淡い感情のきざしだった。
その夜、桜井葵はベッドの中で、ノートを開いていた。
そこにはびっしりと、風間凛の好きなもの、話したことのある本、彼の行動パターンまでが書き込まれていた。
(……気持ち悪いかな)
けれどやめられなかった。恋って、きっと誰かを想い続けること。たとえ報われなくても。
それでも葵は、明日こそ、少しだけ前に進もうと思っていた。
それが、彼女の――精一杯の「片想い」のはじめの一歩だった。