魔術決闘編
あの朝のことは、私はどうしても自分が全面的に悪かったとしか思えない。カイルはただ心配して私を覗いただけだったのに、私は突然起き上がって……しかも、夢の中とはいえ、カイルにあんなことをさせてしまった。彼には何の罪もないのに、私が勝手に動揺して、カイルを変な目で見てしまった。そして何より、私にはルークがいるのに――。
だからこそ、その朝以降、私は必死に普段通りに振る舞った。あの朝のことなんて、なかったかのように。何もなかった。何も起こらなかった。そう信じることで、カイルとの間の変な空気を元に戻そうとした。そして、少しずつカイルも調子を取り戻してくれた。
そう思って安心し始めていた矢先のことだった。
朝、少し早めに目が覚めた私は、カーテンの中で着替えていた。カイルはまだ上の段で寝ているらしい。カイルは寝ているとはいえ、カーテンを閉めているからとはいえ、同じ部屋で着替えているという事実が、少しドキドキさせる。でも、もう大丈夫。あの日のことを思い出さない限り、私は平気だ。
すると、突然コンコンとノックが響く。
「あ、いま出ます!」
ちょうど着替え終わったところだったので、私は慌ててドアへ向かう。すると、やってきたのはウィンドマン先生。そして、隣に立っている男を見た瞬間、私は言葉を失った。
「こんな朝早くに申し訳ありません、ブラウンさん。実は、こちらの方がどうしてもお会いしたいと」
「はじめまして、ライラ・ブラウン様」
その声を聞いた瞬間、全身が凍りつく。メルエール・マジックアカデミーのルシファー――! かつて、私のことを散々貶めた張本人だ。記憶は消えているのだろうが、私にとっては、彼が私を傷つけたことは忘れられない。
「ヴァルヴァディア学園に、魔王を退け世界を救った大賢者様がいるとの噂をお伺いしまして」
ルシファーが大げさな口調で言う。彼に言われると、嫌味にしか聞こえない。私は反射的に表情をこわばらせた。
「その力は全部使い果たしちゃいましたけどね」
私は無表情のまま、軽く言い返す。
「なんと! それは何と痛ましい……!」
わざとらしく同情するルシファーの態度に、私はさらに苛立ちを覚えた。彼の一挙一動が癪に障る。私は心の中で、彼を黙らせたい気持ちでいっぱいだった。
「では、その力を取り戻すお手伝いのため、是非我がエルメールにお招き――」
「お断りします」
私は彼の言葉をピシャリと遮った。ルシファーも少し驚いたようだ。だが、動揺は一瞬で、すぐに冷静な顔に戻る。だから、私は言ってやった。
「そもそも、招くって……あなたの『プライベートメンバー』に、ですか?」
さすがに私の一言に少し眉をひそめたが、すぐに涼しい顔を取り戻す。
「はて、他校の何かとお間違いのようですが……もちろん、我が校が用意しておりますのは大賢者様をお迎えするための特等席ですよ」
彼の言葉は丁寧でありながら、その裏に含まれる自信と威圧を感じさせるものだった。私はその言葉に負けじと毅然とした表情を浮かべ、冷静に返す。
「御校には大賢者に最も近い方がおられるようですが?」
一瞬、ルシファーの瞳が閃き、彼は再び笑みを浮かべた。
「私のことをご存知いただけて光栄です。しかし、私はあくまで近いだけの未熟者。現実に世界を救った大賢者様とは比べられようもありません」
彼の口調は謙遜を含んでいたが、その瞳には自信が揺らぐ様子はなかった。周囲に漂う緊張感が、ふたりの会話にさらに重みを加えていた。
「私も大賢者様を見習い、日々精進いたしますので、是非とも我が校を導いていただけないでしょうか」
ルシファーは優雅に一礼し、まるで彼の言葉が絶対であるかのように、誰もが彼に従うことが当然だと思わせるような態度を示す。しかし、私の瞳に宿る決意は揺るぎない。まっすぐにルシファーを見つめ返し、毅然とした声で言った。
「お断りします。私はこの学園が大好きですから」
そして、あなたのことは大嫌いだ――心の中でそう付け加える。私には一切取り付く島も作るつもりはないのに、こいつは自分の誘いが断られるという発想がないのだろうか。
「まあまあ、そうおっしゃらずに。そうだ、では一ヶ月ほど体験入学でも――」
「いい加減にしろよ」
突然、静かにしていたカイルの声が部屋に響いた。私は驚いて振り返ると、カイルが上の段からひょいと飛び降りてきた。
「ライラが嫌がってんだろ。わかんねぇのか」
カイルの言葉に、私は胸がジーンと温かくなった。カイルが私のために声を上げてくれたことが嬉しかった。
「フォスターくん、来客の前ですよ……!」
ウィンドマン先生の冷静な声が、緊張した空気をさらに引き締める。ルシファーの出現は予想外だったし、何よりもその笑顔が私を苛立たせる。彼の態度からは、まるでこの状況すらも楽しんでいるかのような余裕が漂っていた。私はどうしてもこの男に対して腹が立つ。
カイルは腕を組み、視線をルシファーから外さない。私も同じように、目の前のこの男を見据えた。彼の微笑みはどこか軽薄で、その背後には確固たる自信が垣間見える。この状況は、どう考えても良い方向に進む気がしない。
「おや、キミは?」
ルシファーが、カイルに視線を移す。彼の言葉には、薄っすらとした侮蔑が感じられる。
「コイツの同室者だよ」
カイルは淡々と返す。だが、その目には怒りが宿っていた。
「なんと! 大賢者ともあろう方が異性と同室での生活を強いられているとは!」
ルシファーの声には、驚きの色を含みつつも、明らかに私たちを見下しているように聞こえた。
「お恥ずかしい限りですが、部屋数にも限りがありまして……」
ウィンドマン先生は申し訳なさそうに言う。彼はこの場の緊張を少しでも和らげようと、穏やかな口調を保とうとしていた。
しかし、ルシファーはそれを軽く受け流し、私に向けて優雅に微笑む。
「我がメルエールにお越しいただければ、そんな不愉快な生活は送らせませんよ」
その言葉に、私は強い反発を感じた。彼の視線が私を物のように扱っているかのようで、苛立ちが胸に広がる。
「いえ、彼とは十分愉快な生活を送っておりますので」
私は強い口調で言い返す。カイルとの生活がどれだけ愉快かはともかく、少なくともルシファーに勝手に評価される筋合いはない。
ルシファーは、私の反論にも動じた様子はなく、むしろその言葉を楽しんでいるように見えた。そして、今度はターゲットをカイルに定めたのがはっきりとわかる。ルシファーの厭らしい微笑みを前に、私は背筋が凍るような不安を覚えた。一体何を企んでいるのか。カイルもまた、鋭い眼差しでルシファーを睨み返している。
「なるほど……どうやら、キミがブラウン様の足枷になっているようですね」
ルシファーの言葉に、私は思わず息を呑んだ。カイルに対して、そんなことを言うなんて。足枷? そんなはずがない。カイルは私にとって大切な友人であり、共に戦ってきた仲間だ。それを、こんなに軽々しく侮辱するなんて……許せない。
「どういうことだよ」
カイルが低い声で問いかける。その眼光は、まるで獲物を狙う狼のように鋭い。彼の怒りが、ピリピリとした緊張感を空気に満ちさせる。
「よろしい、私はキミに決闘を申し込む」
その言葉がルシファーの口から出た瞬間、私は思わず声を上げた。
「はぁ!?」
驚いたのは私だけではない。カイルも一瞬目を見開いたが、すぐに冷静さを取り戻した。なんでカイルに決闘を申し込むの? 私たちの争いに巻き込む必要なんてないはずじゃない。
「ブラウン様がどちらの学校に相応しいか、勝負していただきましょう」
ルシファーの言葉に、私は再び反射的に叫んでしまった。
「勝手に決めんな!」
怒りが込み上げ、声が震える。私の進退を他人が決めるなんて許せるはずがない。カイルがどうであれ、私の人生は私が決めるべきものだ。
「何で私の進退を他人ふたりで決めてんの! 私の道は私が決める!」
私の叫びに対して、ルシファーは一瞬驚いたように見えた。けれど、その表情はすぐにいつもの冷酷で厭らしい微笑みに戻った。
「なるほどなるほど、これは大賢者様に対して失礼いたしました」
そう言って、彼はわざとらしく頭を下げた。表向きは敬意を示しているつもりなのだろうが、その態度は明らかに私を見下している。
「では、こういたしましょう。先ずは、私とそこの少年で決闘いたしまして、その勝者がブラウン様と戦う……これならよろしいか?」
ルシファーの提案に、私は再び驚き、言葉が詰まった。何を言ってるの? なんで私がカイルと戦わなくちゃいけないの? しかも、決闘に勝った者と……? いやいや、勝手に決めないで!
「いいぜ、受けてやる」
カイルの言葉に、私は耳を疑った。彼がそんな無茶な挑戦を受けるなんて、ありえない! ルシファー相手に勝つのは簡単なことじゃない。ルシファーは大賢者の称号を狙う実力者であり、その力は計り知れない。それに……カイルと戦うなんて、絶対に嫌だ。
「カイル!」
思わず声を出して止めようとしたけれど、彼の顔はすでに決意で固まっていた。カイルはルシファーの挑発を受け流すつもりなんてなかった。彼の頑固さを知っている私は、彼を引き止めることができなかった。
「はっはっは、よろしい! それでは、三日後にまた来ます。立会人のご用意はお任せしますよ」
ルシファーは満足そうに笑い、言うだけ言って去って行った。廊下には黄色い声援が響き渡り、彼の後ろ姿を追いかける女子生徒たちの姿がちらほら見える。外面だけは完璧に取り繕っているから、彼の本性を知る者は少ないのだろう。ああ、こんな男の本性を暴露してやりたい……。心の中でそう強く思ったが、どうすることもできなかった。
「大変なことになりましたね、ブラウンさん。私としては、メルエールの方が好待遇だと思うのですが……」
ウィンドマン先生の言葉に、私はピクリと眉を上げた。カイルとルシファーの決闘が迫る中で、先生がそんなことを言うなんて。けれど、私は強い口調で返す。
「いえ、私はここで学びたいのです」
メルエールなんかに行きたくない。私にはこの学園で、そしてここでカイルと学びたいという気持ちがある。それにルシファーのいる学校なんて、絶対にごめんだ。
ウィンドマン先生は少し困ったように頭を掻きながら、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「本当に申し訳ないのですが、この入門クラスは事実上ふたりだけの特別枠でして……学校側としてもどうにかしたいと考えている節があるのです」
先生の口ぶりにはどうにも切実なものを感じるけど、私は納得できない。ふたりだけのクラスなんて、確かに変わっているけど……それが私たちの居場所だと思っていたのに。
そのとき、カイルが割り込んできた。彼の声には冷たい怒りがこもっていた。
「つまりそれは、学校側に守るつもりはない、ってことですか?」
先生はさらに申し訳なさそうに、言葉を濁す。
「……言いにくいのですが」
ウィンドマン先生の言葉を聞いて、私の胸に不安が押し寄せてくる。多分、いつかこういう日がくるんじゃないかと思っていたから。
「とにかく、無茶だけはされませんよう。お父様からのお願いもありますので」
先生はそれだけ告げると、静かに部屋を去っていった。私はその言葉を噛み締めながら、カイルに目を向ける。
「カイル、その……言いにくかったら言わなくてもいいけど……」
私は恐る恐る口を開いた。カイルはため息をつきながら、私に冷静な目を向ける。
「親父の件か?」
「……うん」
「言いにくい」
彼はきっぱりと言い切った。それ以上話したくない、という強い意志が感じられたので、私はそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、聞かない」
それで終わりだ。無理に聞いても、彼を困らせるだけだろう。
ふたりの間に静寂が広がる。けれど、ふと私は恐ろしい現実に気づいた。
「カイル! あなた、ルシファーと決闘って……!」
その瞬間、身も凍るような不安が押し寄せた。ルシファーとカイルが決闘するなんて……正気の沙汰じゃない。相手はあのルシファーだ。勝てるわけがない。
カイルはそんな私を見下ろし、淡々と言った。
「もしかしたら、死ぬかもな」
その言葉を聞いた瞬間、私は顔が青ざめた。さすがにカイルも、ルシファーの実力を認識しているのだろう。片やエリート、片や入門クラス。勝ち目がないことは分かっているはずなのに。
「なのに……」
私は心の中で呟く。何で……カイルは諦めないの?
カイルは無造作に肩をすくめながら、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「男には、退けない戦いってのもあるんだよ」
その一言に、私は堪え切れずに叫んだ。
「バカじゃないの!?」
私の切実な思いに、カイルは不服そうに睨み返す。
「バカとは何だ!」
「バカはバカよ!」
怒りが込み上げてくる。彼がどんなに頑張っても、ルシファーには勝てない。勝負なんて無謀だ。
「私たちが束になったって、あの男には勝ち目なんてない!」
ルシファーは強い。私だって、そのことはよくわかっている。仮にテンポラリー・リセットで大魔法を使ったとしても、相手はルシファー。彼はその一撃を凌ぎ、次の瞬間には反撃してくるだろう。
しかし、カイルはそんな私の不安を一蹴するように、ニヤリと笑った。その笑い方に、私は嫌な予感を覚えた。その笑みは、私が狼の群れの中で彼に初めて助けられたときの、あの笑顔だった。彼の強さを信じさせるもの――でも、それと同時に破滅的なまでの自己犠牲――
「お前が戦う必要はない。あのいけ好かない男は命に替えても俺が倒す。そうすれば――」
カイルの声には決意がこもっていた。けれど、その言葉が私の心をギュッと締めつける。彼のその強さはいつだって頼りになるけど……いまは違う。いま、私はカイルにそんなことをしてほしくない。
「やめて!」
思わず声が漏れた。彼は本気だ。カイルは、誰かのために命を投げ出せるような人だ。それがわかっているからこそ、私は彼を止めなきゃいけない。
カイルは驚いたように私を見つめているけれど、その目にはまだ決意が残っている。
「命はかけないで……本当に、それだけはやめて……」
私は必死だった。カイルが命を賭けるなんて、そんなことを許してはいけない。カイルがいなくなるなんて……私はそんなこと考えたくもない。
「約束はできない。何しろ、相手はあのルシファー・ファウストだからな」
カイルは私の懇願を一蹴するように言い放つ。その強い口調に、私は思わず言葉を失った。確かに、ルシファーは強大な相手だ。そんな相手に勝つためには、命を賭ける覚悟が必要なのかもしれない。
でも、私はそんな覚悟をカイルにしてほしくない。
「ダメだよ……だって、カイルがいなくなったら、私、何のためにこの学園に残るのかわからないじゃない……」
思わず本音がこぼれてしまった。カイルがいなくなったら、私はどうしたらいいのだろう? そんな未来なんて、考えるだけで胸が痛くなる。
その瞬間、カイルの顔がみるみる赤くなっていった。
「あ……」
気づけば、私も顔が熱くなっている。心臓がバクバクと早鐘のように打っているのを感じた。まさか、こんなことを口にしてしまうなんて……。
「へっ、変な意味じゃなくて!」
私は慌てて取り繕う。これじゃまるで、カイルのことが特別な存在みたいに聞こえてしまう。いや、実際にそうなのかもしれないけど……でも、いまはそんなことを考える余裕なんてない。
「カイルとなら、魔術の勉強もやり甲斐がある、というか……!」
精一杯言い訳をしてみるが、心臓の鼓動は止まらない。カイルも同じように、顔を赤くして何かを言おうとしている。
「だ、だよな! 俺はお前のこと、ライバルだと思ってっから!」
その言葉に私は少しホッとした。カイルは私を仲間として、ライバルとして認めてくれているんだ。そう思うと、何故か安心感が広がった。
「私だって!」
自然と笑みがこぼれた。そう、私たちはライバルであり、仲間なんだ。カイルとの関係は特別だけど、だからこそこの時間が大切だ。カイルと過ごす時間が、私は本当に好きなんだ。
私たちはお互いに顔を見合わせて、笑い合う。緊張感が少し和らいだ瞬間だった。やっぱり、こういう時間が一番好きだ。カイルとの関係は複雑かもしれないけど、いまはこの一秒一秒がとても愛おしい。
「それじゃあ、朝食もらってくるよ」
「うん、いつもありがとう」
カイルが扉に手をかけ、出て行こうとしたそのとき、ふと彼が振り返った。
「ああ、そうだ。もし俺がヤツを倒して、お前と戦うことになったら……勝っても負けても結果が同じ、じゃつまんねーだろ?」
彼の突然の言葉に、私は一瞬耳を疑った。そんなありえない状況を、まるで当然のように語るカイル。だけど、彼の目は真剣だった。どこかからかいを含んだ言い方だけれど、本心からの提案のように思えた。
「……そうね」
私はその場しのぎで答える。だって、カイルと私が戦うなんて、本当に考えられないから。でも、次の瞬間、彼が口にした言葉が、そんな私の淡い考えを吹き飛ばす。
「だからさ、その……」
彼は視線を逸らし、少し俯いて、恥ずかしそうに呟く。
「負けた方は、勝った方の言うことをひとつだけ何でも聞く、ってのはどうだ」
その提案に、一瞬息を飲んだ。カイルがこんなことを言うなんて予想もしていなかった。けれど、彼の表情はいままで見たことのない真剣さを帯びていた。彼がこんなにも真剣に何かを賭けようとしているのだ。それに、私もただ流されるわけにはいかない。
「……うん」
私は静かに頷いた。それが、私にできる最大の返事だった。言葉でごまかすことも、冗談で笑い飛ばすこともできなかった。ただ、カイルの提案に心の奥底から応じるしかなかった。
「……約束だからな」
カイルはそう言って、今度こそ扉を閉め、部屋を出ていく。部屋の中には、私だけが取り残された。静かになった空間の中で、私はぼんやりと扉を見つめている。
――もし、カイルがルシファーに勝ったら? そして、その後、カイルが私にも勝ったら……カイルは何を願うのだろう? 何を私に望むのだろう?
けれど、もし私が勝ってしまったら、私はカイルに何を願うのか――その問いが私を苦しめる。それは、決して願ってはいけないことのような気がして……。
私はふらふらとした足取りでベッドへ向かい、そのまま突っ伏した。心の中で何かが揺れている。この気持ちはなんだろう? カイルのことをどう思っているのか、自分でもよくわからない。
だけど――。この約束が、今後の私たちの関係を大きく変えてしまうのではないか、という予感が消えなかった。
***
決闘の日がついにやってきた。迷いと不安が胸の奥で渦巻き、呼吸が浅くなる。ヴァルヴァディア魔術学園の広い校庭が決戦の舞台だ。ここには、私たちの運命が左右される決闘が待っている。ルシファーとカイル、未来を担うふたりの若き魔術師が対峙する瞬間を前に、私はどうしても落ち着かない。
「始まっちゃう……」
私の手が膝の上で不安そうに震えている。そんな私とは裏腹に、決闘の舞台は形式ばかりの儀式に彩られ、奇妙に静かな空気が漂っていた。決闘に参加する魔術師たちは、魔術の力を用いるはずなのに、なぜか全員が剣を帯びている。それが決闘の習わしだと言うけれど、まるで戦いが古い伝統に縛られているようで、なんだか奇妙だ。だが、形式は重要なのだと誰もが言う。形式を失ってしまったら、そこにはただの殺し合いしか残らない、とか物騒なことを。
両校から選出された立会人が見守る中、近所の住民たちも興味本位で集まってきた。彼らの間にも緊張が走り、ざわざわとした期待感が漂っている。でも、誰もが『決闘なんて危険すぎる』と思っているはずなのに、怖いもの見たさか、観客席はほぼ満席だ。校庭にはしっかりと魔術結界が張られているらしいから、安全だと説明されたけれど、それでも心配は拭えない。
そして、私は最前列の中央に座らされている。まるで景品扱い。この状況に心底納得がいかない。カイルは無謀だし、ルシファーは傲慢だ。こんな戦い、無駄としか思えない。でも、そんな私の意見など誰も気に留めていないようだった。
周囲を見渡すと、私の席の両隣が不自然に空いている。まるで私が何か特別な“腫れもの”であるかのように避けられている気がして、寂しさと不安が胸に渦巻く。ルシファーとカイルの決闘を見守る役割があるとはいえ、私の立場は本当に複雑だ。
そんな私の隣に、静かに歩み寄ってくる人がいた。視線を上げると、ウィンドマン先生が優しい笑顔で私に声をかけてくれる。
「ご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」
「ウィンドマン先生……」
彼の顔を見て、少しだけ心が軽くなる。先生は私の気持ちを察しているのか、落ち着いた声で続ける。
「一応、私は『入門』クラスを受け持っていましたからね。教え子の勇姿を共に見届けさせてください」
先生の言葉に、私は小さく頷いた。カイルも、ルシファーも、私にとってただの存在ではない。彼らの行く末を見届けることに意味があるはずだ、と自分に言い聞かせる。
「……はい!」
校庭の中央、ふたりの影がはっきりと見える。カイルの姿に、心からの応援を送りたい。一方、ルシファーに対しては抑えきれない憎しみが湧き上がる。何度も私を傷つけた相手が、こうして脚光を浴びていることがどうにも許せない。
ルシファーは、私に軽く視線を送りながらため息をついた。彼にとって、私の存在などどうでもいいのだろう。ただ、大賢者の力を取り戻すための器としてしか見ていないのだ。私の現在の力ではなく、かつての大賢者としての名声が欲しいだけなのだ。
立会人がルールの確認を始める。互いの剣を合わせた瞬間を合図に試合開始……ああ、剣はそこで使うの。基本的には何でもありで、勝敗は一方が戦意を喪失したと認められたときに決まる。故意でなければ死んでしまっても事故扱い――戦争と何が違うのか。こんな無意味な決闘で、命を賭ける価値などない。それでも、カイルはその戦地へと赴いている。
「やれやれ、女性にここまで嫌われたのは初めてのことですよ」
私からの憎しみが伝わたのか、ルシファーの冷笑が耳に届く。私は目をそらし、心の中で静かに祈った。
立会人が引き上げ、ふたりの男は互いに向き合う。そして、カイルが剣を抜く。だが、ルシファーは動かない。剣を抜く素振りすら見せない。
「さて、私と貴殿の力の差は歴然。これではただ勝利しても、我が校には得るものがない」
「何だと!?」
ルシファーの無礼な言葉にカイルの顔が一瞬で怒りに染まった。そして、悔しさに震えながら剣を構えている。目の前には、未来の大賢者候補筆頭――ルシファー・ファウスト。正直なところ、勝敗は明白だ。ルシファーの魔力と戦闘技術は、誰もが知るところであり、彼を倒せる者は限られている。観客席もその事実を理解していて、ルシファーを応援する女子たちがキャーキャーと黄色い声援を送っている。
ルシファーは余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、「一撃です」とカイルを人差し指で指し示す。
「一撃でも私に入れることができたなら、私は負けを認めましょう」
その言葉が発せられるやいなや、女子たちは一斉に歓声を上げた。私は思わず眉をひそめる。こんなにムカつく奴が脚光を浴びるなんて、悔しくてたまらない。ルシファーがどれだけ傲慢で鼻持ちならない男なのか、私は誰よりも知っている。
「ナメんな!」
カイルの叫び声が響き渡ったが――次の瞬間、カキンと鋭い音が打ち消す。ルシファーは剣を抜いた瞬間、カイルの剣を華麗に払っていた。まるで不意打ちのような軽い動作――あの男、卑怯すぎる!
しかし、カイルはすぐに体勢を立て直し、ルシファーに向かって剣を振り下ろしていた。だが――そこにはもうルシファーの姿はない。とっくに後ろへ立ち位置を移していたのである。そう、これが魔術師同士の戦い。瞬間移動や幻影を操るのは、我々にとっては基本的な技術だ。
「くそっ……!」
カイルは間髪を入れず憎き敵に飛びかかる。彼がどれだけこの勝負に賭けているかは、私には痛いほどわかっていた。それでも――勝つのは難しい。カイルの魔力とルシファーのそれでは、あまりにも差がありすぎる。
私の心は不安でいっぱいだった。カイルは確かに強いけど、ルシファー相手に勝てるとは思えない。それでも、彼は全力で戦おうとしている。お願い、無事でいて……! 私にはそう祈るしかできない。すると、自分の手が震えているのに気づく。こんなにも心配したのは初めてかもしれない。
ルシファーは再び悠然とカイルを見下ろしながら、冷たく微笑む。
「私はこちらですよ。まさか、それが全力というわけではないでしょう?」
挑発的なその言葉に、カイルは再び剣を握り直し、ルシファーに向かって突進する。だが、ルシファーは一瞬のうちに距離を取り、カイルの攻撃はまたしても空振りに終わる。ルシファーはあまりにも余裕で、まるで遊んでいるかのようだ。
「カイル……」
私は彼の名前を呟く。彼は決して諦めない。たとえ勝機がほとんどないとわかっていても、彼は最後まで戦い続けるだろう。
「カイルの勝機は少ないけど……でも……!」
私は祈り続けた。カイルがこの戦いを乗り越えられるように。勝ち負けなんてどうでもいい。彼が無事でいてくれればそれでいいのに。
「まだ終わりなわけねーだろ!」
カイルが再び吼える。彼の瞳は、まだ燃えている。彼は決して諦めない。その姿に、私は胸が熱くなる。カイル、あなたは本当に……強い。
ふらふらと逃げ回っていたルシファーだが、ヤツはついに剣を収めた。ということは――!
「では……貴殿の魔力は如何ほどか……軽く小手調べと参りましょうか!」
ついに魔術戦が始まる――! ルシファーが軽く頭上に手をかざしたその瞬間、空気が変わった。彼の指先から滲み出る膨大な魔力が、まるで空間全体を圧倒するかのように膨れ上がり、やがて巨大な火の玉がその手に宿る。私は息を飲んだ。あの火球――あれはかつて私が魔王城の前で放ったものよりも遥かに巨大で力強い……! ま、まあ、私がルークに浴びせたあれは本気じゃなかったけど? それでも、ルシファーの圧倒的な力に私の心臓は震える。まさか大賢者級の魔術を、それもやすやすとこんな規模で……! ルシファーの本気が伺える。
「さてカイルくん、どう躱しますかな?」
ルシファーの言葉には、余裕と冷酷さが滲み出ていた。彼の言葉を合図に、手に宿した火球が一瞬で膨張し、空を覆うかのごとく広がり、カイルへ向けて襲いかかる。目の前で見るその炎の奔流は、圧倒的で、恐怖を感じさせるものであった。逃げ場なんてない。カイルは一瞬にして焼き尽くされるかのように見えた。
観客席からは悲鳴が上がり、私はその場に釘付けになる。私の心の中も、カイルが無事であってほしいという祈りで満たされていた。しかし――
カイルは逃げない。ルシファーの火球はすでに目の前に迫っているのに。それでもカイルは、その場で堂々と立っていた。逃げる素振りさえ見せない。
「カイル……!」
私はつぶやき、彼を見つめる。
そして、その瞬間――
「おおおおおおおおッ!」
カイルが雄叫びを上げ、両手を素早く炎にかざす。魔力を練り終わったのだ。彼の手の先に宙に浮かぶ魔法陣が瞬時に描かれた。私はその光景に目を見張る。カイルがこんなにも速く、こんなにも精密な魔術を編むなんて――私には彼の成長が眩しいくらいに見えた。
そして、迫っていた火球がカイルのすぐ目の前で止まる。
「ぐ、ぐ……うおぉぉぉ……!」
カイルは全身を震わせながら、必死に火球を押し返している。彼の額には汗が滲み、苦痛に耐えている様子が伺える。それでも、カイルは諦めない。まさに魔術師としての我を張って、この戦いに挑んでいるように見えた。
「お願い、カイル……!」
私は祈る。祈ることしかできない。彼がこの恐ろしい火球に打ち勝つことを願って――。
「うりゃあああああッ!!」
カイルが叫びながら、ついに火球を弾いた。まさに信じられない光景だった。あの巨大な火球が、カイルの手によって弾き返され、さらにルシファーに向かって戻っていくのだ。観客席が一斉にどよめく。あの火球は――カイルの魔力によって書き換えられ、ルシファーを標的として定めたのだ。
ルシファーも一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。しかし、火球はもう彼に向かって全速力で飛んでいく。逃げ場のないほどの業火が、決闘場全体を埋め尽くしていた。
カイルは決して無謀ではなかった――。
この決闘まで、カイルはずっとカウンタ・マジックの練習を積み重ねていた。私もその様子をずっと見ていたからわかる。彼だって自分の実力を知っている。ルシファーとの魔力の差は明らかだ。まともにぶつかっても勝てるはずがない――そんなことは誰よりもカイルが理解している。それでも、諦めない理由が彼にはあった。
相手の力を利用するしかない――カイルが何度も呟いていた言葉を思い出す。カウンタ・マジック――それは相手の魔力を逆手に取り、術を跳ね返す技術。だが、相手は四大属性を極め、大賢者に最も近い男、ルシファー・ファウストだ。そもそもカウンタ・マジックの難易度はかなり高い。圧倒的な魔力差があれば強引に上書きもできるが、一般的には相手が放つ属性に対して、緻密な術式を瞬時に組まなければならない。ルシファーとの魔力差を考えれば相手が発動してからでは間に合わないだろう。しかも、ルシファーの魔術はどれも強力。どの属性で来るか、正解は四つにひとつ。外せば命に関わる大怪我を負うことになるだろう。
けれど、カイルが断言していたのを思い出す。『ヤツの属性は読める』と。なぜなら、ルシファーが私たちを徹底的に見下していることを理解していたからだ。ヤツは傲慢である。自分が最も不得手とする属性で勝利を収め、そして、その属性は最も苦手だったのですが、と慇懃無礼に自画自賛するつもりなのだと。だからこそ、カイルはその隙を見逃すつもりはなかった。
そして――ついにその瞬間が――!
――フッ。
ルシファーが片手を軽く振ると、カイルが撃ち返した炎の塊が、まるで冷水をかけられたかのようにかき消される。その光景に、私は呆然としていた。さっきまでのカイルの必死な一撃が、こんなにもあっさりと――。
「やれやれ、私としたことが甘く見すぎていましたかね。何しろ――」
ルシファーは軽い口調で呟くと、両手をゆっくりと天に向けて掲げた。まるで何か神聖な儀式を行うかのように。そして――
「火の魔術は苦手なのですよ。暑苦しいのは好きではなくてね」
彼が言うと同時に、空に三つの巨大な魔力球が現れた。土属性、風属性、そして水属性。それぞれがふわりと浮かび、決闘場全体を見守るようにゆっくりと回転している。その圧倒的な力を前に、私はゾッとした。カイルはあれにどうやって立ち向かえばいいの……?
「それでは、千本ノックとまいりましょうか! 見事打ち返してごらんなさい!」
三つの魔力球は、今度は直接迫ったりしない。ルシファーの声とともにカイルに向けて三方向から無数の小さな魔弾を撃ち出される。空の球体は砲台ってことか……! その圧倒的なスピードと数に私は絶望感を抱いた。これにどうやって勝つというの?
カイル、避けて……! 私は叫びたかった。けれど、声にならなかった。私の中で焦燥感と恐怖が入り混じり、ただその場に立ち尽くしているしかできない。
カイルは一生懸命に防ごうとしていた。けれど、彼の放つ魔術は砲台の射撃でことごとく撃墜され、直接飛び込んでいこうとすれば一斉射撃に押し返される。彼は――追い詰められている。
「はっはっは、どうしたのです? たった一撃でいいのですよ?」
ルシファーは楽しそうに笑いながら、攻撃の手を緩める気配はない。カイルの制服はボロボロで、彼の体中がアザだらけになっている。それでも、彼は絶対に退かない。そう、彼は私を守るために戦っている……絶対に負けたくない、というその思いだけで、立ち続けているのだ。
「先生! 止めてください! カイルはもう限界です!」
私は耐え切れず、ウィンドマン先生に助けを求める。
しかし、先生はただつらそうに頭を振った。
「いけません。これは決闘なのですから、フォスターくん自身が負けを認めない限り、止めることはできません。それに……ルシファーくんは降参する猶予を与えています。立会人が入る余地はありません」
私は唇を噛んだ。ルシファーは初めから、カイルを嬲るつもりだったのだ。勝ち目がないことを分かっていて、ただ彼を傷つけ、弱らせている。カイルがどれだけ頑張ろうとも、相手はその遥か上をいく存在だ。きっと、最初逃げ回っていたのも、カイルにあえて魔力を練らせる猶予を与えるためだったのだろう。カウンタ・マジックに頼るのを見越して。
すべてはルシファーの手の平の上だったのだ。それでも、カイルは決して降参しない。彼は――絶対に諦めない。
「お願い……もうやめて……カイルがいなくなったら、私……」
胸が痛い。涙があふれそうになる。カイルが命を賭けて戦う姿が目に焼きついて、どうしようもなくつらい。カイルがいなくなったら、私は……どうしても彼を失いたくない。
ふと、カイルと目が合った。その瞬間、私の祈りが通じたかのように、彼の瞳に一瞬の光が戻る。けれど、これは私が期待するものではない。怒りに燃えて――本当にもう、これ以上戦わないで……!
「俺が……泣かせたのか……?」
カイルの呟きは、私の心に重く響く。彼の瞳に宿る怒りが、私の胸に突き刺さる。目の前の彼が、震えている。ルシファーの攻撃は一時止んでいたが、それは彼が興味を惹かれたからだろう。カイルの苦しむ顔に、彼は楽しみを見出しているかのようだった。
「俺が……俺がライラを一生守るって決めたのに……」
カイルの声は弱々しく、心の底からの叫びのようだった。私は胸が痛くなるような思いで彼の背中を見つめる。こんなに痛々しい姿を、私は見たくなかった。だけど、私が彼に何かを言う前に――
「そうかそうか、彼女を守れなくて悔しいか……では、私もあなたの誓いにわずかながらの手助けしてあげましょう」
ルシファーが残酷な笑みを浮かべ、魔力球を再び動かし始めた。空に浮かぶみっつの巨大な魔力球――土、風、水――それらがゆっくりと、しかし確実に、カイルに向かって下りていく。
「ここであなたの一生を終わらせて差し上げますよ。さすればあなたの騎士ごっこもおしまいです。ゆっくりお休みなさい!」
その冷たい言葉は、私を一層焦らせた。カイルがこのまま立ち尽くしていれば、確実に命を奪われる――!
「先生!」
私は必死に叫んだ。
「立会人! カイルが……もう無理です!」
先生も立ち上がり、立会人席へと視線を送るが、誰も動こうとしない。立会人たちは、まだカイルが降参する猶予があると判断しているようだ。でも、カイルがこのまま降参するなんて、そんなことは絶対にない。彼は意地でも最後まで戦うに違いない。
「誰か! 誰かカイルを……!」
私は叫びながら涙をこぼしそうになる。彼が命を懸けるほどの戦いなんて……いらない。私は彼が生きていてくれればそれだけで――!
でも、私の声は届かない。カイルはただ、無言のまま三色の美しい光の中に立っている。まるで、それが彼の運命であるかのように。私が彼にどれだけ叫んでも、彼の決意を揺るがすことはできないのだろうか。
「カイル……お願い……」
私は祈るように彼の名前を呟く。けれど――カイルは動かない。何も言わない。
みっつの魔力球が、彼の頭上に近づく。その瞬間、私は目を瞑り、どうか奇跡が起きて、と願うしかなかった。
――ゴゴゴゴ……ッ!!!
轟音が響き、光が辺りを包む。目を開けると、世界は白い光に満たされていた。まるで湖が真っ白に染まったかのように、すべてが一瞬で消え去っていく。客席の方は結界が防いでくれているけど、それでも恐ろしい威力だ。だが――
カイルは――?
視界が徐々に戻る。私の目の前には、カイルの姿がない。まるで一瞬で消し飛んでしまったかのような……不安が私を襲う。
……これは……?
そのとき、聞こえたのは、かすかなカイルの声だった。彼の姿は見えない。けれど、確かに彼の声が――私の心に響いてくる。
「……母さんとの約束だった……」
私は息を呑んだ。何が起きているの? 私には理解できなかった。だって、カイルの姿は見えないのに、彼の声が聞こえてくるなんて――。
「この封印は、長く耐え続けるほど俺の魔力も成長していく……だから、解くのは本当に守りたい人のために……」
それは、カイルの過去の記憶なの? 母親との約束……。私の中で不安が膨れ上がる。
「だったら――」
――私の目が見開かれる。信じられない光景が目の前に広がっていた。
――カイル……?
彼が、黄金色の光に包まれている。あの白い光の中から、彼の体が浮かび上がってきたのだ。まるで彼自身が光そのものになったかのように、彼は立っている。
「――いましかないだろ!」
カイルの叫び声が響くと同時に、彼の体を包む黄金の光がさらに強く輝いた。力強く、そして美しく――彼は、再び立ち上がった。
私の胸はドキドキと高鳴る。彼は――生きている!
「先生……あれは……!」
私の声は震えていた。目の前で起こっていることが信じられなかった。カイルの体を包む金色の光、そしてそこから放たれる圧倒的な魔力。彼の周囲には、まるで神々の翼のように強大な力が漂っている。それは私がいままで見たどの魔術とも違う、凄まじい存在感だった。
「そうですか……フォスターくんは、ついに……刻限封鎖を……」
先生は何かを悟ったように呟く。その声には、驚きよりも理解がこもっていた。どうやら先生は、カイルがこの力を持っていることを知っていたらしい。
「先生……カイルに何が……?」
尋ねずにはいられなかった。だって、カイルは――あの圧倒的なみっつの魔力球に押し潰されかけていた。それなのに、どうして……?
「彼はずっと魔力を抑えられていました。自身を成長させるために」
「成長……?」
「筋力トレーニングのためのウェイトのようなもの、と考えてください。けれど、あの封印は二度と施せない」
「じゃあ……」
カイルは、私のために一生に一度の……。
「あれこそが、彼がずっと鍛えてきた本当の魔力です」
「これが……カイルの本当の力……」
まさに、彼がずっと自分の中に押し込めていた何かを解放したのだ。その魔力は、まるで怒りや悲しみ、そして強い決意が混ざり合ったように重く、鋭い。思わずその光景から目を背けたくなるほど、強烈なエネルギーが空気を震わせている。
「ほう……? これでようやく互角の戦いができますかね……?」
ルシファーの声が少し上ずっていた。あの自信に満ちた表情が、微かに揺らいでいる。彼にとっても、カイルのこの力は予想外だったのだろう。しかし、ルシファーは動じない。彼は大賢者に最も近いとされる男。瞬間移動を繰り返し、四方八方からカイルを攻撃し続ける。
火属性、水属性、土属性、風属性――次々と繰り出される魔法の猛攻。その一撃一撃は、私が魔王の森で魔物たちを粉砕し続けた術式の威力にも匹敵する。しかし――カイルは微動だにしなかった。まるでその攻撃が、彼の金の鎧に触れることすら許されていないかのように、すべてが掻き消されていく。
「カイル……」
その姿は、これまでの彼とはまったく違って見えた。いつもは少し不器用で、私と張り合うことに必死な少年だった彼が、いまは圧倒的な力を持つ存在として立っている。
そして――
カイルが軽く腕を振った。それだけで――
ドォォン!
ルシファーが一瞬のうちに後ろへ飛び退く。カイルの一撃が地面を抉り、深く大きな穴が空いたのだ。もしルシファーが避けなければ、彼はその場で粉々にされていたことだろう。あの攻撃は、ほんの軽い一振りだったというのに……。
「一撃……で、いいんだよな……?」
カイルの低く静かな声が響く。その声には、冷酷さすら感じられる。そして私は、恐怖とも言えぬ感情が胸に押し寄せてきた。
彼は本気だ。あのカイルが、いまは私の知る彼ではないように感じられる。彼は……本当にルシファーを倒そうとしている。その一撃は、相手が誰であっても確実に仕留めるだろう。
ルシファーはジリジリとカイルとの距離を取り、次の一手を模索している。その顔には微かな焦りが見える。彼も気づいているのだろう。いまのカイルは、並の魔法では止められない存在に変わってしまったことを。
「やれやれ……私としたことが、これは少々手を焼きそうですね……」
ルシファーは微かに苦笑した。しかし、その目は決して諦めていない。彼は最後の賭けに出るつもりだ。
「だが……これならどうかな?」
ルシファーの手が、バッと私の方に向けられた。――わ、私……?
「野郎ッ!!」
カイルがすかさずその間に入り込む。彼は私を守るために動いた。しかし――。
「なっ……ああああああああッ!?」
紫色のツタが突然カイルを縛り上げ、彼の動きを封じ込める。その光景に、私は思わず息を呑んだ。どうして? 彼があれほど圧倒的な力を見せつけていたのに、なぜ……?
「ハハッ、愚か者め! 客席には防御結界が敷かれているであろうに!」
ルシファーの高笑いが響く。私は何が起きているかわからず、思わず隣のウィンドマン先生を見る。
「トラップですね」
「それはそうですけど!」
私が知りたいのはそういうことではない。
「ルシファーくんはフォスターくんに攻撃を仕掛けつつ、密かに埋め込んでいたのでしょう」
「けど、さっきまで効かなかったのに!」
あの金の魔力で防がれていたのに!
「一般的に魔術は術者の手から離れると極端に威力が損なわれます。おそらくあのトラップは地中で術者であるルシファーくんとつながっているのでしょう。さすがの王者の尊厳であっても、大賢者に最も近いといわれるルシファーくんの魔力に直接縛られては……」
そして、そこに誘導されてしまったなんて……!
「バカ……! あなたは本当に、バカなんだから……!」
思わず叫んだ。彼の優しさが、いまはあまりにも重く胸に響く。私が彼の弱点になってしまった。それが、カイルにとって致命的な失策となってしまったのだ。
ルシファーはクククと笑いを零しながら剣を抜く。
「何より、彼女は腐っても世界を救った大賢者……私の魔術程度でそう簡単に傷つくものですか」
いやいや、いまの私、一般人魔力なんですけど!
「結局、魔術の力を信じ、理解していた私が一枚上手だったということです!」
ルシファーは抜いた剣をカイルに向けて――?
「如何に魔力が強大であろうと、術者自身は生身の人間。それを物理防御に回す技量はない、と私は値踏みしました」
ルシファーの余裕たっぷりな声が響く。その動きはまるで彼の運命を決めるかのように静かだった。
「私の最大の風の魔力を注ぎ込むことで、一振りの剣は光の刃に――ッ!?」
その瞬間、何かが変わった。ルシファーの自信に満ちた表情が、一瞬歪んだ。彼が何かを察したのだろうか? 次の瞬間――
「痛ェじゃねーかよーーーーーーーーッ!!」
カイルの咆哮が大地を震わせる。すると――
「ぎゃああああああああ!!?」
その光景に、私は目を見開いた。何が起こったのか? カイルが――まさか……!
「これはまさか……カウンタ・マジック!?」
私がその場で呟いた言葉に、ウィンドマン先生が頷く。
「その通りです。しかし、それだけではありません。カウンターの際に込めた自分の魔力をも上乗せして……おそらく、本人さえ自覚していないのでしょう」
「まだ、自分でも制御できていないから……!」
カウンタ・マジックは本来、相手の魔力を反射するための術だ。しかし、魔力の制御ができていないカイルは、怒りに任せて自分の魔力までトラップ・マジックを通じて逆流させているのだ。
「おのれええええええッ! 我らがメルエールは決して貴様らヴァルヴァディアなどに屈しない!」
あんなに必死な表情のルシファーは初めて見る。というか、想像さえできなかった。
「大賢者様……ッ! あなたが我が校にいらしていただければ……我が校は……我が愛しきメルエールは――」
ルシファーは大粒の涙を流しながら――ついに意識を失った。ルシファーの髪は白煙を上げ、漆黒だったはずの髪が真っ白に変わっていた。彼の力が尽き、魔力が枯渇してしまった証拠だ。
「なんということでしょう……」
先生が目を覆う。ルシファー・ファウスト――かつて大賢者に最も近いとされ、ファウスト家の星だった彼が、こんなにも無残な姿に――。
「彼はこの街の……いえ、この時代における世界の希望でした。それが喪われてしまうなんて……」
「いえ、これで良かったんですよ」
私はそう言い切る。
「大きな力は、それを扱う人が大切ですから。それに……カイルならきっと、新たな希望になってくれますよ」
先生は私の言葉に少し驚いたようだったが、やがて嬉しそうな微笑を浮かべた。
「そのためには、多大な訓練が必要でしょうね。ルシファーくんの指摘通り、彼には力だけあっても、それに見合う技量が圧倒的に足りません」
先生の言葉に、私は小さく頷いた。カイルはまだ、その力を完全には制御できていない。だが、彼なら乗り越えられる。
「やれやれ、これは『入門』クラスを『特級』に名を変えねばなりませんかね」
ウィンドマン先生が、まるで冗談のように笑いながら言った。私は一瞬その言葉の意味が掴めず、呆気に取られてしまう。
「え? カイルを進級させるんじゃなくて?」
どう考えても、あの圧倒的な力を見せたカイルなら、中級をすっ飛ばして上級クラスまで進級してもおかしくないと思ったのに……。私の素朴な質問に、先生は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと答えてくれた。
「『入門』クラスという名は建前ですよ」
建前……? どういうこと? 先生のその言葉が、頭の中で反芻される。確かに、思い返してみればおかしなことが多かった。ヴァルヴァディアのような名門校が、わざわざ私たちのために特別なクラスを用意していること自体ありえない。カイルも私も劣等生と見なされていたのに、どうしてあのような環境が与えられていたのか。いまになって、その謎が解けるような気がした。
「ここは、何らかの理由で魔力を封印されている生徒を保護するクラスです。かつて、魔王を討ち滅ぼした大賢者のようにね」
私の場合、むしろオール・リセット中が特別だったんだけど。
「つまり、私たちは……例外だったってことですか?」
「ええ。君たちはただの入門生ではない。大きな可能性を秘めた存在だった。だからこそ、このクラスで守られてきたのです」
ウィンドマン先生の言葉を聞きながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。カイルは、劣等生なんかじゃなかった。私とともにずっと、この場所で特別な存在として保護され、育まれていたのだ。先生ずっとそれを承知の上で。だからこそ、私たちにあの厳しくも優しい指導をしてくれた。
私はふと、校庭のカイルを見る。彼はあの決闘で信じられないほどの力を解放した。いまも疲れ切った表情で座り込んでいるけれど、その背中にはかつて見たことのない輝きが宿っている。……アザが……光ってる……? それは、透視魔術の際にちょっとだけ見たもの。それが光を帯びている、ということは……それが封印だったのだろう。それを引き出したのは、彼自身の強い意志――私を守りたいという想いが、あの封印を解いたのだ。
カイルは気づいていないかもしれないけど、彼は私の中で特別な存在になっている。ルークがずっと私の支えだったように、いまではカイルもまた私にとってかけがえのない存在だ。彼がいるからこそ、私はここで頑張ることができる。
「だからきっと、私たちはこれからも同じクラスで学んでいくことになるんですね」
私は先生に向かって微笑んだ。これからも、カイルと一緒に……。お互いに支え合いながら、例外として成長していく。そんな未来が待っているのだ。
先生は静かに頷き、私の言葉を肯定してくれた。
「ええ。君たちはこれからもお互いに学び合い、支え合いながら、さらなる力を引き出していくことでしょう。フォスターくんだけでなく、ブラウンさんもまた大きな力を秘めています。それを忘れないでください」
そう言われたとき、私はほんの少しだけ自信が湧いた。私にはカイルみたいな特別な力はないけれど、一緒に学び続けていれば、いつかその答えにたどり着けるはずだ。
「……わかりました。これからも、頑張ります」
そう答えて、私は再びカイルの横顔を見つめた。彼は、きっとどんな困難にも立ち向かい、乗り越えていく。私はそんな彼を信じているし、彼と一緒に成長していきたい。これからも、ずっと。
ルシファーが倒れたまま動かず、戦意喪失と見なされたことで、ついに決闘が終わった。会場のあちこちから安堵の声が漏れるが、ルシファーのファンである女子たちは涙に暮れ、魔術の重鎮たちも何やらざわついている。ファウスト家の後継者として、そして次期大賢者として期待されていたルシファーがこのような形で魔力を喪うとは誰もが予想していなかったのだろう。ファウスト家の星が喪われた――これは、この街の力関係が大きく変わるかもしれない。周囲のそんな不安が渦巻く中で、私はどうにも居心地が悪かった。というのも、私にとって目下の問題はルシファーではなく、むしろ目の前に立っているカイルだったから。
「あのー……勝てる気しないんですけど」
いまにもぶつかりそうなプレッシャーの中、つい漏らしてしまった言葉。普段のカイルなら、きっと笑って「そんなことつまらねーこと言うなよ」と軽く受け流してくれただろう。だが、いまのカイルは違う。圧倒的な魔力を放ちながら、少し前の優しげなカイルではないように見える。先生も同じことを感じ取ったのか、私に向けて静かに微笑みながら、落ち着いた声で言った。
「ええ、力の調節ができない彼と戦うのは、教師としてもお勧めできませんね」
にっこりと微笑んでいるけれど、先生の瞳にはわずかな心配が宿っているのがわかる。いまのカイルは、ルシファーに勝利したその勢いのまま、誰にも止められないような存在になっている。先生は心配しながらも、あくまで私を促すように言う。
「さあ、行ってきなさい。そして、この決闘に幕を引きましょう」
あああああ! 先生、そんなにこやかに言わないで! 私たちが交えようとしているのはただの決闘じゃないの! 先生は知らない……この勝敗の本当の意味を! カイルと私は『負けた方が勝者の言うことをひとつだけ聞く』って約束をしているんだよ! そんな重大な約束を背負って、この状況でカイルと向き合うなんて!
私の心は焦りでいっぱいだったけれど、先生はその事実を知らないまま、穏やかに微笑んでいる。ああ、先生……そんなに未来を祝福するような顔をしないで!
私は何とか覚悟を決め、カイルの方に歩み寄った。彼はいつものカイルとは違い、どこか遠くを見つめるような目をしている。だけど、その目がふと私を見つめると、いままでのカイルが一瞬戻ってきたような気がした。両拳を強く握りしめ、私を見据えたまま、何かを言おうとしている。そう、その表情だ――何を言うか決めているときの、あの真剣な顔。
「戦う前に、言っておくことがある!」
カイルが観衆に向けて大きく言い放つ。その声に私はハッと息を飲んだ。言わないで、言わないで! 私の心はすでに混乱しているのに、これ以上何か言われたらどうなってしまうかわからない。でも……その言葉を聞きたい。カイルが何を言おうとしているのか、どうしても知りたい。だから私は、彼の次の言葉を待ってしまう。
「この戦いに俺が勝ったら……俺は……俺は、ライラに――」
その瞬間、私の心は大きく揺れ動いた。ダメ! カイル、そんなこと言わないで! 私にはルークがいる。でも、私もカイルのことが……いや、私は何を考えているんだろう。どうしてこんなに迷ってしまうの?
観衆の視線が私たちに集中している中、カイルの言葉が私の心を揺さぶり続ける。
しかし。
「ちょっと待ったーーーーーーーーッ!!!」
校庭に響き渡るその声。私は、その声をよく知っている。いや、知りすぎている。そして現れたのは――
「謎の仮面戦士・マスク・ド・ゼウス、ここに見参!」
……何やってんの、ルーク!? どこからともなく飛んできたその姿は、間違いなくルークだった。だけど、なぜか舞踏会の仮面をつけて目元を隠し、まるでどこかのヒーローを気取っている。ルークは私に向けて投げキッスを送り、その動作に会場中が唖然としていた。ああ、ルークの悪いところが全部出てる……。心の中でそう呟かずにはいられない。彼は確かに、あのルークだ。魔術師の決闘ってことで普段の甲冑を脱ぎ、ヒゲも剃り、髪もスッキリ整えているからか、普段とは印象が随分と違う。だけど、そんな仮装して登場するなんて……。
「オイ、オッサン。いま真面目な話してんだよ」
カイルが冷たく言い放つけど……気づいてない!? ルークって新聞にも載るくらい有名なんだよね!? でも、会場中がザワついているのを見ると、誰も彼がルークだとわかっていないみたいだ。確かにヒゲを剃ったことで印象が変わったけど、そこまで違う?
「少年よ、少女に剣を向けるとは、男子として如何なものかね?」
ルークは優雅に指を立て、カイルに向かってウィンクを飛ばす。もう、本当に恥ずかしい……! 私は顔を覆いたくなるほどだったが、カイルは眉をひそめてルークを睨み返していた。
「それが神聖なる決闘の場であれば、そこに賭ける誇りに男も女もねェ!」
カイルの言葉に、思わず「うん、カイルいいこと言った!」と心の中で応援してしまった。……いや、応援してどうするの! 私はカイルもルークもどちらも応援できない立場だ。
「しかし、紳士たるオレには見過ごせない。よって、提案なのだが……」
またルークがウィンクを飛ばす。もう、やめて……本当に恥ずかしい! 会場中がさらにざわめくのが耳に痛い。これ、どう収拾をつけたらいいのか。
「彼女に代わり、このオレが戦うというのは如何かな?」
「ええええええええ!? ナニ勝手に決めてんの!?」
私は驚きの声をあげた。この場はカイルとルシファーと、ついでに私との決闘であって、ルークが出る場面じゃないはず。なのに……。
「構わねェぜ。誰が相手だろうと、受けて立つ!」
カイルも同意してしまった!? もーーーーーっ!? と心の中で叫びつつも、カイルのそんなところが少しカッコいいと思ってしまう自分がいる。ときめいてる場合じゃないってば!
「ならば、決まりだな」
ルークは決定事項のように満足げに頷く。だが、私はなんとかこの状況を止めなきゃと思って、慌てて声を上げた。
「ちょ、ちょっ、勝手に決めないで!」
私は叫んだ。あーもう、何なのよ、この男たち! ルークとカイル、ふたりとも勝手に話を進めちゃって! まるで私の意思なんて存在しないみたいに!
「だが少年よ、忠告しておく。このオレに魔術の類はやめておけ。何故なら――」
「カイル気をつけて! その人、魔術自体が効かないの!」
ルークがドヤ顔で話し始めた瞬間、私は反射的に叫んでしまった。ああ……ルークの自信満々っぷりにムカついて、つい。だけど、その瞬間カイルがピクッと反応して、目に闘志が宿ったのがわかった。これは逆効果だって、どう考えても!
「なるほど……アンタ、ライラと知り合いらしいな」
カイルが挑発的な笑みを浮かべてルークに向き合う。ルークはと言えば、肩をすくめて、何か軽い感じで返答する。
「まあ、ちょっとした……な?」
ちょ、だから、こっちに目線を送らないでよ、ルーク! その視線を向けられるたび、何かバレそうでドキドキするんだから。ふたりの間の関係が余計にこじれそうで!
「それなら、誰であっても見過ごせねぇ。止めるなよ、ライラ」
カイルは不敵な笑みを浮かべ、私を見ないでそう言った。どういうつもりなの? カイル、私はこの決闘を止めた方がいいのか、止めない方がいいのか――どうしたらいいの?
戸惑いながらも何か言おうとしたその瞬間、突然肩に手が置かれた。
「ブラウンさん」
驚いて振り向くと、そこにはウィンドマン先生がいつもの穏やかな表情を浮かべてはいる。けれど、私を見つめる眼差しはどこか真剣だ。
「これは男と男の意地を賭けた戦いです。止めるものではありませんよ」
先生……。そうは言っても、私にはこの状況がただの男の意地の張り合いにしか見えない。いや、確かにそうなんだけど、だからこそ止めるべきじゃないの? どうして、先生までこんなに冷静でいられるの?
私はもう一度、ルークとカイルの背中を見つめた。ふたりとも引く気配はまったくない。どちらも真剣な表情で向かい合い、剣を握り締めている。ルークの余裕に満ちた微笑と、カイルの挑発的な笑み。その間に私の存在が薄れていくような気がして、何かが胸の中で引っかかる。
これでいいの? 私の意思はどこにあるの? それでも、先生の言葉が頭の中で響いて、私は結局何も言えず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
男の意地……か……。
「……バカ。バカばっか」
私は小さく呟いた。そして、彼らに背を向けながら「怪我だけはしないでね」と、これから決闘を交えようとするふたりに無理なお願いを託す。
ふたりの大好きな男たちが、目の前で戦おうとしている。私は、何もできない。ただ見守ることしかできない。
カイルとルークが向き合い、剣を抜く瞬間――剣と剣が触れ合い、金属音が激しい音楽を奏で始めた。私は息を呑んでその光景を見つめる。カイルの剣さばきが尋常ではない。剣がまるで二本、いや、三本にも見える――いや、もうその動きを目で追うことすらできない。思わず私は彼の狙いを感じ取った。
「なるほど、魔術が効かないなら、自分の身体能力を……」
と口にしてしまった私だったが、隣にいるウィンドマン先生がすぐさまそれを否定する。
「違いますよ、ブラウンさん。生体に変化を及ぼす魔術は繊細なものです。いまのフォスターくんが操れるようなレベルではありません」
「え……でも……」
私は、カイルの剣がルークを圧倒している様子に目を奪われながら呟く。
ルーク――勇者としてその剣技は私も何度も目にしてきた。彼の動きはいつも正確で無駄がない。あれほどの剣士を相手に、カイルがこれほど優勢になるとは思わなかった。カイルは一体どうやってこんな力を手に入れたの?
「紛れもありません、あれは――」
ウィンドマン先生が何か言いかけたところで会場がざわつく。カイルの剣が再び閃き――
「生憎だが、俺は――」
シュッと音を立てながらルークの頬を掠める。ほんのわずかな差だったが、ルークも同時に反撃を試みていた。両者の剣が一瞬交錯し、鋭い音を立てて距離を取った。
その瞬間、カイルは息を整えながら、静かに告げる。
「――魔術よりも、剣のほうが得意なんだよ」
「え……」
私は、驚きとともに彼の言葉を反芻する。剣のほうが得意? そうなの? 確かに、カイルの体はしっかり鍛え上げられているけど、これほどまでの剣技を隠していたなんて……。
ウィンドマン先生も感心した様子で、彼の動きを見つめながら続けた。
「フォスターくんの強さへの渇望は私も知っていましたが、ここまでのものだとは……」
先生の声が私の耳に届くけれど、私はカイルとルークに目が釘付けになっていた。カイルは真剣そのもので、まるでいままでの彼とは違う存在に見える。この戦い、カイルが勝てるんじゃないか――そんな考えが頭をよぎる。だけど、もしカイルが勝ったら……そのとき私は――
ルークが再び剣を構え、慎重に距離を詰める。カイルもそれを察して身構え、再び剣を振るう準備をしている。ふたりの間には緊張感が張り詰め、どちらも一歩も引かない。
でも私は気づいてしまった。カイルが勝てば、彼は私に――けれど、それはルークを――
私は胸が張り裂けそうな感覚を覚える。どちらも大切な存在なのに、この戦いが避けられないこともわかっている。どちらかが傷つき、どちらかが――
私の心は揺れ動いている。カイルが勝てば、私の気持ちに何かが変わるかもしれない。でも、それはルークとの関係にも影響する。どうして、こんなことに――
そしてルークが、静かに言葉を紡ぐ。
「そうか、そちらこそ生憎だったが、オレは――」
突然、ルークは足元に目をやり、次の瞬間、驚くべき体術を披露した。カイルの足を引っ掛けるようにルークの足が繰り出され――その動きはまるでつむじ風のようだった。
しかし、ただそれだけのことで――ドンッ――突然、爆発音が響き渡り、カイルの身体が宙を舞う。そのまま地面に叩きつけられたけれど、受け身を取っていたのか、カイルはすぐに立ち上がった。驚くカイルに、ルークは言葉を続ける。
「――剣よりも、魔術の方が得意でな」
嘘でしょ!? 私は驚き目を見開いた。カイルの頑丈さは私だって知っている。それが、いままさに打ちのめされているなんて……。私は心の中で叫びつつも、状況を見守るしかなかった。
「と言っても、オレが扱うのは四大属性の外にある規格外ってやつだが」
規格外の魔術――聞いたことはあったけれど、こんなにも強力だとは。確かに、研究室ではその手の魔術は大賢者よりも重宝されることがあると聞いたことがある。それだけ特異な可能性を秘めた力だ。けど、どうしてそれをルークが……?
「そもそも、俺の魔力無効化は、どうやってキャンセルしてると思う?」
そう言った瞬間、カイルの振り下ろされた剣を――ルークは躱しつつ、カイルの剣を持つ手の方に――まるで、軽くノックするように。けれど、今度もまた弾けて、カイルの剣が宙を舞う。
「俺の魔術技能は魔力操作。普通の魔術師は、そんなに魔力をだだ漏れにすることはないもんだが……」
そうか――! 私はハッとする。カイルは魔力を調整することができない。それが彼の弱点だった。彼の身体からは、無意識に魔力が漏れ出している。それは、ルークから見れば全身に爆薬を巻きつけたような状態――あまりにも危険すぎる。
「……チッ……クショウ……!」
カイルは悔しそうに腕を垂らしている。きっと、もう剣を握る力も残っていないのだろう。それを見て、ルークは自ら剣を収める。これは、相手に情をかけたのではなく、勝負を決めるため。きっとルークの魔力操作は直接触れる必要があるのだろう。けれども、そこに大きな力は必要ない。ただ触れるだけで――最初にやられた足が痛むのか、カイルの動きは鈍い。利き手も奪われている。ルークによって次から次へと繰り出される拳打蹴打によってカイルは全身の魔力を暴発させられて――
しかし、ウィンドマン先生は興味津々だ。
「……なるほど、我が校の研究室にも是非欲しい逸材ですね……」
言ってる場合じゃないでしょ! というか、ウィンドマン先生もルークだって気づいてない! 確かにルークはヒゲをトレードマークみたく思ってたみたいだけど……! もしかして、新聞に載ってたルークの失踪って、ヒゲ剃って存在感なくなっただけじゃない!?
そうこうしているうちにカイルは一方的に攻められ続け――ついに倒れた。けれども、その目にはまだ闘志が宿っている。本当に……本当にもうやめて……! これ以上、カイルが傷つくのを見るのはつらすぎる。
「オレはさっきの男ほど品のないことはしないよ」
ルークの声が静かに響き、彼はカイルの後頭部にそっと手を当てた。その瞬間――
ドドドンッ――! 続けざまにカイルの身体が爆発するように震え、彼はついにガクリと意識を失った。
「立会人、戦意喪失……ってことでいいかな?」
ルークは淡々と問いかける。立会人が駆け寄り、カイルの状態を確認すると、彼は静かに頷いた。
私は息を飲んで、その光景を見つめていた。戦いは終わった――けれど、私の心には深い悲しみと無力感が広がっていた。
「この決闘の勝者は、マスク・ド・ゼウス。よって、彼を代理としたライラ・ブラウンといたします」
立会人がそう宣言すると、会場に何ともいい難い空気が漂った。拍手はまばらで、盛り上がりに欠ける。そりゃそうだ、そもそもこの決闘はルシファーのために用意されたものだったのだから、誰もが彼の勝利を期待していた。結果的に私が勝者として選ばれたけど、誰もそれを祝う気にならないのだろう。
どうでもいいけど――正直、私自身もこの結果に納得できていない。何が勝利だっていうの? 結局、ルークが戦っただけで、私は何もしていない。
そんな中、ルークはカイルの背中をじっと見つめていた。うつ伏せに倒れ、動かないカイル。その姿を見て、ルークは何かを感じ取ったようだった。
「……彼は……しかし、なるほど……」
その言葉に、私は反応せずにはいられなかった。
「ルーク?」
彼は私の呼びかけに振り返る。そして、少し微笑んで、
「ああ、いや、なんでもない。それと、ここではゼウスな。マスク・ド・ゼウス」
――本当に面倒くさい男だ。そう思わずにはいられないけど、少しだけホッとする。ルークのこんな軽い態度が、逆にいまの私を安心させてくれる。
「……で、あとはキミが自分の道を選ぶだけだが?」
ルークが真面目な顔でそう言うと、私の心は一瞬揺れた。
自分の道――ずっと、自分で選んで歩んできたつもりだった。でも、いまの私は本当に自分の意思でこの道を歩いているのだろうか? カイルと一緒に過ごした日々、そしてルークと再会してからの出来事が頭の中を巡る。こんな形で勝利を得たことに、私自身納得できない。カイルは、あの戦いの中でどれだけ傷つき、どれだけ頑張ったのか。自分の力で勝利を掴むために必死だった。なのに――私は、彼の戦いをただ見ていただけだ。
そしてルークに助けられて、何もせずに『勝者』としてここに立っている。それで、本当にいいの? 本当に――それで、いいの?
私は、静かに目を閉じて、自分の気持ちに向き合った。
ルーク――彼に再会してから、やっぱり私は彼が好きだと気づいた。ずっと想っていた、私の大切な人。彼がいると、私は安心する。けれど……カイルのことも、もう無視できない。彼も私を守るために、戦い続けてくれた。
そして、私は自分の言葉を思い出す――『私の道は私が決める!』――そうだ――私は――!
「ルー――」――ク、と彼を呼ぼうとした瞬間、彼はすかさず私の唇に指先を置く。
「おっと、オレの名はマスク・ド・ゼウスだ」
まだ言うか。けど、ここで『ルーク』と呼んではまずいとでも言いたいのだろうけど、いまはそんなことどうでもいい。私には、もっと大切なことがある。
「ゼウス、私はあなたに代理を許可した覚えはないわ」
「そうだっけか?」
彼は肩を竦めて軽く笑ってみせる。だが、その笑顔にかすかに戸惑いが混じっているように感じた。
「そうよ! 男ふたりで勝手に決めて!」
私は声を荒げる。だんだんと腹が立ってきた。ルークもカイルも、私の意思を置き去りにして自分たちだけで話を進めていた。私はずっと、自分の力で未来を切り開くと決めていたのに、ここにきて、他人に戦いを任せてしまっていた。
「私の道は私の手で掴み取る! 勝負よ、ゼウス!」
私は、ルークに向かって剣を突きつけた。その瞬間、校庭は一瞬にして静まり返る。風が吹き抜け、私の髪がふわりと舞い上がる。けれど、ルークは私の剣を見て少し困ったように微笑むだけだ。彼があまり乗り気でないのは明らかである。
「本気なのか、ライラ? オレに勝てると思っているのか?」
ルークのその言葉に、私は一瞬だけ躊躇する。彼が勇者であり、剣術も魔術も私とは比べ物にならないほどの実力を持っていることは分かっている。彼に勝てるはずがない。けれど、カイルは……カイルは勝ち目がない戦いにも全力で挑んでくれた。だから、私も……負けるかもしれなくても、挑まなければならない。
「勝ち目なんてどうでもいいの。私は……自分の力でこの戦いを終わらせたいだけよ!」
私の決意に満ちた声が校庭中に響き渡る。ルークは一瞬、驚いたように私を見つめた。彼の瞳に映るのは、かつて彼が守りたいと思った私ではない。いま、ここに立っているのは、誰の助けも必要としない、ひとりの戦士――ライラだ。
「……そうか」
ルークは静かに頷くと、剣を構える。その目には、いつもの軽薄さが消え、哀しそうな色が浮かんでいた。
私は必死に剣を構え、ルークに向けて突きつける。……重い。ルークたちは、こんな重い鉄の塊を片手であんなに軽々と……?
「ライラ、本気なんだな?」
ルークは静かに問いかける。
「もちろんよ!」
私は答える。だけど、内心は不安でいっぱいだった。例え大賢者の力を持っていたとしても、ルークに魔力は効かない。剣や拳で勝てる見込みもない。私の剣術は素人以下。実力で言えば、ルークとは到底比べものにならないことくらいわかっている。
立会人席からはざわつきが聞こえるが、特に止めに入る者はいなかった。ルークと私、そして観衆。皆がこの決戦の行方を見守っている。
「よし、行くわよ!」
私は思い切って剣を振り上げ、ルークに向かって突き進んだ。だけど――
「てやーっ!」
叫びながら繰り出した私の渾身の一撃は、ルークの剣に軽く弾かれただけ。むしろ、私自身が剣に振り回されているような感覚だった。力のない剣筋に、ギャラリーからは容赦ない罵声が飛んでくる。恥ずかしさがこみ上げてくる。そう、私はまるで子供が遊んでいるようにしか見えないのだ。
「ライラ……無理するなよ」
ルークは困った顔で私に呼びかける。
「うるさい! 無理でもなんでも、私は戦うの!」
私は言い返すが、内心では泣きたい気持ちでいっぱいだ。どうして私はこんなに情けないのか――でも、やめられない。このままじゃボロボロになるまで戦ってくれたカイルに顔向けできない。
すると、初めてルークの剣が軽く光を放ち、ススッと私の方に伸びてきた。
「え……?」
何が起こったのか、そのときはまったく理解できなかった。
そして――
ハラリ。
「ぎゃっ!?」
思わず私は叫んでしまった。
視線を落とすと、私の胸元の衣装が切り裂かれ、マズイ感じで露わになっていた。ルークの剣閃が、私の服だけを正確に断ち切ってしまったのだ。なんで……なんでこんなことに……?
「ちょっと! ふざけないで!」
私は思わず剣を捨て、両手で胸元を隠したままルークを睨みつける。けれど、彼の表情は緊張感が抜け、リラックスしたものになっていた。どうやら本気の勝負というよりは、これ以上私を傷つけないように気を使ってくれているらしい。
「悪かったよ。けど、これで戦意喪失……ってことでいいよな?」
ルークは優しく微笑みながら、剣を引いた。けれど、そんな挑発的な声が耳に残る。こんなバカにした勝ち方ってある? ルークのくせに、そんなことを……! 怒りが胸の奥で燃え上がる。
「ふ……ふふふ……」
笑いがこみ上げてくる。この状況で笑うなんて、自分でも信じられない。でも、抑えきれない。この怒りをどうすればいいのか、私はわかっている。
「こちとら……こちとら……」
「失うことには慣れとるんじゃああああいッ!!」
叫び声とともに、手を素早く形作り印を結ぶ。ルークの目が一瞬驚きで見開かれるけれど、もう止められない。私の中で溢れ出す魔力に身を任せる。
「テンポラリー・リセット!」
その瞬間、空気が一瞬にして凍りついたのがわかった。観衆の誰もが息を呑むのを感じた。いや、それも当然だろう。だって、私が、いきなり――マッパになっちゃったんだから。
大賢者は四大属性の達人と言われている。けれど、知ってさえいれば、どんな属性の魔術でも行使できる。ルークの魔力制御は何度も見てきたし、魔王城の前で一度触れている。だから、私は――ルークの魔力制御を、大賢者の魔力でさらに上から魔力操作して――解除! 私の魔術は成功しているはず。服が戻ってきたってことは、魔術の行使が成立したってことだから。
胸は少しはだけてしまっているけど、そんなの気にしてる場合じゃない。さっきまで全裸だったことを思えば、これくらいなんてことない!
ルークに――いまの私を――私にできるすべてをぶつける――!
ドンッ!
私は水の波動をルークに向けて放った。全身全霊の一撃。それを彼は真正面から、棒立ちのまま受け止めた。その勢いで、ルークの仮面が弾ける。そしてその身体はその場からふわりと浮かび、まるで風に吹かれるように後ろに飛んでいった。
――え? もしかして、わざと当たった? けれど、彼は起き上がってこない。思いの外効いてしまった……とかでもないと思う。
本当にどうしてしまったのか――私は胸を押さえながら、焦ってルークのもとへ駆け寄る。もしかして、本当に傷つけてしまったの? 彼は倒れて、動かないままだ。私が彼のそばに膝をつき、彼を覗き込むと――ルークは静かに顔を上げた。
「ライラ……」
ルークの目には、涙が溢れていた。
――え? 泣いてる……?
「僕は……ライラ……」
震える声で彼は続けた。
彼は私の名前を呼び、涙をこらえようとしている。ルークが泣いているなんて……! 私の胸がぎゅっと締め付けられる。こんなにも彼が弱々しい姿を見せるなんて、想像もしていなかった。
「ルーク……」
私はそっとルークの髪に触れ、優しく撫でる。彼の涙が落ちる音が、静かな空気に響く。
「ライラ……僕は……僕は……」
ルークの声は、いつもの自信に満ちた勇者のそれとはまるで違っていた。彼の表情は茫然自失としていて、その瞳には深い悔恨が宿っている。
「僕は……キミのことを忘れたことなどひと時もない。なのに――」
その声は震えていた。懺悔のような、どこか自分を責める響きが胸に痛みを走らせる。
「一瞬、キミが誰だかわからなくなったんだ……」
「え……?」
さらに困惑が広がる。どういうこと? 彼が私をわからなかったなんて……。
「突然裸の女が目の前に現れて……それが、何者だかわからなかったんだ……!」
その瞬間、私はすべてを思い出した。テンポラリー・リセット――あの術は、ただ裸になるだけじゃない。私の存在そのものを、この世界から消してしまう禁断の秘術。大賢者の力を得ている間、私はこの世界から完全に消えた存在だったのだ。もちろん、その後すぐに魔力制御の術式を使って元に戻したけれど、その短い間、ルークに私は――まったくの『無知の他人』に映っていた。
「そっか……」
私はポツリと呟いた。自分の行動がどれほどルークに衝撃を与えたのか、ようやく理解できた。リセットしたあの瞬間、彼の前にいたのはただの見知らぬ女だった。愛する人が目の前から消え、そこに知らない人間が現れる恐怖――ルークが感じたのは、そんな混乱だったに違いない。
ルークはフラフラと身を起こすと、その瞳で私をじっと見つめた。
「ライラ……キミはライラなんだよな……?」
その声には、不安と戸惑いが滲んでいた。
「キミは、僕の愛した……ライラ、なんだよな……?」
彼の言葉は、まるで私を確かめるようだった。その一瞬、ルークは強き勇者ではなく、迷子になった子供のように見えた。彼の瞳には、深い喪失感と不安が漂っていて、私は胸に痛みを感じた。
「ルーク……」
私は小さく呟きながら彼を抱く。
ルークはまるで泣きじゃくる子供のように私に抱きついた。彼の身体が震えているのを感じながら、私は優しくその髪を撫でる。どうしてこんなに脆く、弱くなってしまったんだろう――そう思うと、彼が愛おしくてたまらなくなった。
「大丈夫だよ、ルーク。私はここにいるよ」
そう言いながら、私は彼の頬にそっと手を添えた。ルークは私の言葉に少し安心したのか、肩の力を抜いて私に身を委ねる。
「ライラ……」
彼が私を呼ぶその声は、どこか切なく、そして心からの想いがこもっていた。その瞬間、私は自分がどれほど彼を愛しているのかを再確認した。ルークはいつも私を守ってくれた。どんな困難なときでも、彼は私を支えてくれた。だからこそ、私は――
そのとき、私はふと立会人たちの視線を感じた。どうやら彼らも事の成り行きを見守っていたようだ。私はひとつ大きく息を吐き、立会人に向かって苦笑い。
「これって、戦意喪失……でしょ?」
立会人たちは少し戸惑いながらも、互いに頷き合って結論を出した。
「勝者……ライラ・ブラウン」
その言葉が告げられた瞬間、会場には……やっぱりほとんど拍手が起こらなかった。まばらな、形式ばかりの拍手が耳に届く。戦闘の緊張感がすべて消え去ったいま、私の優勝は誰にも歓迎されないものとなった。
でも、私にはもうどうでもよかった。ルークがこうして私の腕の中にいる。私が彼を必要とし、彼もまた私を必要としている――それだけで十分だった。
私は、ついに本当の意味で勝者となった。とはいえ、決闘の混乱とルークの突然の乱入で、心の中はなんだかスッキリしない。勝利を手にしたものの、喜びよりも疲労感が大きかった。
「……ブラウンさん、あなたは一体どうしたいのですか?」
立会人に混じってウィンドマン先生が、やれやれといった感じで私に問いかけてきた。その困り切った表情から察するに、彼も今回の騒動にすっかり疲れてしまったのだろう。ルークが突然現れて状況を引っ掻き回したせいで、私自身も何がなんだかわからなくなっている。先生がそう感じるのも無理はない。
でも、私の道はもう決まっている。
「ごめんなさい、先生。私……やっぱり、ルークと行きます」
そう答えると、ルークは一瞬驚いた表情を見せたあと、軽くため息をついた。
「いいのか? 長い旅路の終着駅だったのだろう?」
「それはルークが勝手に言ってただけでしょ」
「そうだったか?」
「そうよ」
思い返せば、ルークは何かと自分勝手に物事を決めてしまうところがある。愛嬌があるから許してしまうけど、それでも腹が立つときだってあるんだから。男って本当に勝手よね。私の意思を聞かずに、あれこれ決めようとするんだから。
「やっぱり、私はルークと一緒にいたい。連れて行って、なんて言わない。私があなたについていくの」
その言葉に、ルークが照れくさそうに微笑んだ。あんな勇者然とした表情をしていても、こういうときだけはやっぱり普通の男の子なんだなって思う。あの無敵な感じが少し崩れた姿を見ると、ちょっと愛おしく感じてしまう。
そんな中、視界の端にカイルの姿が入る。彼は黙ったまま、肩を落として項垂れている。その姿を見ると、胸がぎゅっと痛んだ。ずっと支えてくれたカイルに、どう声をかけていいかわからない。
「……ごめんね」
カイルに向かってそう呟くと、彼は俯いたまま、力なく笑ったようだった。
「……謝るなよ」
その声には、いつものカイルらしい強気な響きはなく、かすかに寂しさがにじんでいた。彼も、私がルークを選ぶことをわかっていたのかもしれない。でも、どんなに気丈に振る舞おうとしても、その感情は隠しきれないものだ。
そのやり取りを見ていたルークも、ただならぬ何かを感じ取ったのだろう。いつになく真剣な顔をして、カイルに向かって静かに頭を下げた。
「かの方の御子息だったとは、ご無礼をお許しください。学園で、彼女を守ってくれたことを感謝します」
その丁寧な言葉に、カイルも返す言葉がなかったようだ。しばらくして、彼は何も言わず、ただ静かに頷く。
「それじゃ、行きましょう」
私はルーク向かって手を差し伸べた。彼はその手を見つめ、少し迷いながらも、そっと握り返す。
「ああ」
私はルークの手を引き、私たちは新たな旅路へと歩み出した。
――と思ったのに!?
「戯れはそこまでにしていただこうか!」
突然響いた厳かな声に、思わず私は振り返る。誰!? その声にはどこか威厳があり、全身に緊張が走る。そこには、ひとりの男性がズカズカとこちらに向かって歩いてくる姿が見えた。彼は誰……? いや、顔には見覚えがあるような気もする。けれど、その後ろに掲げられた馬車の旗を見た瞬間、私は息を呑んだ。
――王家の紋章!
それは、誰もが一目でわかる王室の象徴。つまり、この人物は……!
「クリストファー王子……!」
私の口から自然にその名が漏れた。この国の政治を一手に担っている第二王子がこんなところに? どうして? いったい何が起こっているの? そんな疑問が次々と浮かんでくる中、ふと脳裏に浮かんだのは、カイルの背中に見たあのアザのことだった。そうだ……カイルの背中には、確かにこの王家の紋章と同じ形が浮かび上がっていた。まさか……そんなことって……!?
「城にも戻らず、こんなところで決闘とは……ご身分をわきまえてください、兄上!」
え、兄上……? 驚いて視線をカイルに向けると、彼もまた驚きルークの方を見ていた。一方、そのルークは少し気まずそうな表情で笑っている。そして、まるで悪びれもせずに軽い口調で言い放った。
「やぁ、すまん。愛しい女性のピンチとあれば、見過ごすなど男ではあるまい?」
……え、ルークがクリストファー王子の“兄上”? まさか、ルークが王子だなんて……! けど、第一王子のラファエル様はいままさに病状が悪くて――
「……またナンパですか。いい加減にしてください! 母様を探す旅だと言うので特別に認めておりましたが、魔王亡きいまであれば、捜索隊を組んでも……ゴホッ、ゴホッ」
クリストファー様が強い口調で叱責しているその途中で、突然むせ込んだ。咳き込む姿を見ると、明らかにお体の調子が悪そうだ。
「……悪かったよ。お前にばかり政務を押し付けて」
ルークが、少しばつが悪そうにそう謝る。その姿を見て、彼が本当に王族であることがようやく現実味を帯びてきた。けれど……私には何が何だかわからない! 突然ルークは王子になっちゃうし、その母親ってことは……王妃様でしょ? 王妃様はずっと昔に魔物に襲われて亡くなったって聞いていたのに、それを探す旅って……?
何もかもがわからないまま、弟王子の説教は続いていく。
「悪いと思っているのなら、戻ってきてください。私ももう、これまでのように無理はできないのですから」
クリストファー王子の言葉に、心の中に妙な不安が広がっていく。まさか……ルークが王宮に戻る? 私との旅はどうなるの!?
「ライラ・ブラウンと一緒に戻るならいいぞ」
――え? 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。ルークの言葉がまるで夢の中の出来事のように聞こえる。私を、王宮に連れて行く……? 私は、ただの平民だよ? いや、オール・リセットで存在を消してるから、平民どころか出生不明の謎の人だ。そんな私が王宮なんて、そんな場所に行っていいはずが……!?
私の頭の中はパニック状態。私が、王宮に!? そんなことが本当に許されるの?
「これは、ライラがどの学校に通うか、という戦いだったのだろう? 僕を選んだ、ということは、王宮で学ぶ、ということになるじゃないか」
ルークは当たり前のように言うけれど、そんな話をしていた覚えはない! 確かに私はルークを選んだけど、だからっていきなり王宮に行くなんて……そんなつもりじゃ……。
「そうですか。それではそちらの女性も一緒に」
ええええええええ!? クリストファー王子まであっさり認めてしまうなんて! あなた、この場における唯一の常識人じゃなかったの!?
「兄上のことです。どうせ、すぐに見限られて逃げられることでしょう。ここで意固地になって説得することに意味はありません」
その冷淡な言葉にムッとしてしまう。私のルークへの気持ちを見くびられた気がして、少しばかりの反発心が湧き上がってきた。
けれど、それもすぐに冷める。
「……ヘッ、王子様が相手じゃ仕方ねぇや」
カイルが、私に寂しそうな笑顔を向けて歩み寄ってくる。彼は私に手を差し出した。これが、別れの握手……。そう思うと、胸が苦しくなる。だけど、カイルの手を握り返すと――彼は私をぐいっと引き寄せ、小声で囁いた。
「親父のような王宮魔術師になって、必ずお前を迎えに行く」
カイルのその言葉に、思わず顔がにやけそうになる。どうして、こんなときに……。でも、彼の真剣な瞳を見つめると、何も言えなくなってしまう。
カイルが去っていく背中を見送りながら、今度はルークが手を差し伸べてきた。
「さ、行こうか、マイハニー」
「ハニーはやめて」
と言いつつも、私はルークの手を取る。彼の手も、あたたかい。
オール・リセット――すべてを捨てて、すべてを手に入れる究極の魔術。けれど、私はもう二度と使うことはできない。私の両手には、もう決して手放すことのできないものたちがあるのだから。