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学園生活編

 ルークの温もりに包まれて、私はいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。彼の腕に抱かれていると、すべての不安が溶けてゆき、すべてが幸せに感じられる。だけど――ふと、目が覚めた瞬間、その幸せは儚く消え去っていた。

 起き上がると、私が抱きしめていたのは、ルークの腕ではなく、彼のマント。まるで彼の代わりのように、私の身体をそっと包み込んでいた。それと一緒に、手紙が残されているのを見つけた。心の奥で予感していたことが、現実となって突きつけられた瞬間だった。

「やっぱり……」

 手紙を開く前から、何が書かれているかは大体わかっていた。彼はきっと、私を残して旅立ったのだろう。それでも、その文字を目にすることが必要だった。だから、震える指で封を開けて、手紙を広げる。

『愛するライラ・ブラウンへ』――その一文だけで、私の目から涙が止まらなくなる。けれども、次の行で、私は思わず息を飲んだ。

『このままキミといると、僕は勇者をやめてしまいそうになる』

 私の心の中で、静かな痛みが広がる。彼は私といることで、自分の使命を放棄してしまう――そんなふうに思ってたんだ。ルークは、いつも強くて、堂々としていて、何でも自分の思うままに進めているように見えた。でも、その裏ではきっと、私と過ごす時間が彼の心に葛藤を生んでいたんだろう。

『魔王は倒したが、勇者の力を必要としている民はまだまだいる』

 彼の使命感は揺るぎないものだった。それは、出会ったときからわかっていたことだ。ルークは、ただのひとりの男ではない。勇者として、たくさんの人々を救うために戦い続けなければならない。だから、私にいつまでも寄り添っているわけにはいかない――そんなことは理解していた。でも、それでも……寂しい。

『僕は勇者として旅を続けるが、たったひとりの愛した女性を忘れることは決してない』

 その言葉を読んだとき、胸がキュッと締め付けられた。彼は私を愛してくれていた――それだけで、再び涙が溢れる。ルークは私のことを、本当に大切に思ってくれていたんだ。そのことを知るだけで、心が温かくなる。だけど同時に、それがどれだけ切ないことかを実感した。彼は私を愛しながらも、私と一緒にいられないと決断したのだ。

『キミほどの大賢者なら世界のどこにいてもわかるだろう。僕は必ずキミを迎えるために戻ってくる。そのときまで壮健あれ』

 そう締めくくられた手紙は、まるで彼の声が聞こえてくるかのようだった。勇者としてのルークは、たくさんの人々を救い続けるだろう。けれど、その中で私を忘れることはないと言ってくれた。その言葉は、どれだけ私にとって救いになったか――

「ルーク……」

 私は、ふと呟いた。その名を呼ぶと、ますます彼の存在が遠く感じられる。彼がこの場にいないことが、こんなにも胸に響くなんて――。私は彼を奪いたいと思ったことがあった。彼を自分だけのものにして、どこにも行かせたくないと願ったことがあった。でも、そんなことはできないと理解している。ルークは勇者だ。たったひとりの女のために、その使命を放棄させるわけにはいかない。

 それでも……私は彼の側にいたかった。彼の温もりに、ずっと触れていたかった。

「私……大賢者にならなくちゃね」

 そう自分に言い聞かせる。ルークは、私が大賢者だと信じている。彼が戻ってくるまでに、私は本当にその期待に応えなければならない。もっと強く、もっと知恵をつけて、彼にふさわしい存在になりたい。だから、私は戻ろう。街へ。そして、ヴァルヴァディア魔術学園に――

 ……そう思って、意気込んだものの……どうやって帰るんだっけ? いまはルークもいないし、魔力もほとんど残っていない。大賢者の力を失った私に、どうやって帰るっていうのよー!

 途方に暮れかけたそのとき、ふとあることを思い出した。あ、そうだ……『テンポラリー・リセット』があるじゃない! それを使えば、一時的に魔力をリセットして、好きな魔法を使うことができる。リセット状態だから、服も消えるけど……ま、いっか。いまは誰も見てないし――と自分に言い聞かせて、私は両手で印を結んだ。

「ひゃっ!?」

 すると、ルークのマントまで消えてしまった。ってことは、ルーク……私のために、このマントを残していってくれたんだ……って、いまはそんな感謝してる場合じゃない。早くこの状況をどうにかしなくちゃ!

 テンポラリー・リセットを発動させると……わかる……私の中に一夜の夢――大賢者の力が戻ってきていることが……! とはいえ、起動できる魔術はひとつだけ。そこから先はフォローできないので慎重に。念のために屋根のない外に出て、そこで飛翔の魔術を起動する。ただし、このカッコでヴァルヴァディア学園に直接行くのは無理だから、まずは町外れの橋まで……。

 魔術のイメージを集中させて――

「おおおおっ!」

 私は思わず声を漏らした。これまで飛翔の魔術なんて、浮かぶことさえできなかったのに、いまはふわりと空を飛んでいる。一度は手放した力が戻ってきてくれるのがこんなに嬉しいなんて。

 空を切り、風が頬を撫でていく。全身が軽くて、まるで風そのものになったようだ。それでも現実はしっかりと意識している。私の手には、ルークのマントがしっかりと握りしめられていた。これだけは絶対に離さない。ルークの温もりがまだほんの少しだけ、このマントに残っている気がして。

 ――と、そんな感傷に浸っている場合じゃない。私は何とか目的地、町外れの橋まで飛んで到着した。着地もふわりと軽やかで、何の問題もない。けれど、周囲を見渡してまずは確認。だ、誰もいないよね? マントに包まってはいるものの、やっぱり恥ずかしさが込み上げてくる。全裸に近い状態で橋の上に立つというのは、いくら何でも落ち着かない。

 よし、今度こそちゃんと服を作らなくちゃ。私は慎重に橋の下へと移動する。ひっそりと隠れるように潜り込んだ。こんなところで服を作るのも、いちいちコソコソするのも、何だか情けなくなってくる。でも仕方がない。テンポラリー・リセットを使うと、魔力がみなぎる代わりに、着ているものはすべて消えてしまうのだから。

 さっきの印をもう一度切ると、瞬間――

「……また全裸か……」

 マントは再び一瞬のうちに消えてしまった。もう慣れたとはいえ、毎回この瞬間は何とも言えない恥ずかしさに襲われる。それでも、今回はすぐにヴァルヴァディア学園の制服を召喚することに成功。制服の布がふわりと私の体を包み、少しだけ安心感が戻ってくる。

「ふぅ、これで一安心……」

 リセット状態が解除されると、魔術で作り出した服が消えることはない。それにしても、本当に面倒くさい。毎回リセットのたびに全裸になって、いちいち人目を気にして隠れなきゃいけないなんて、どこの秘密ヒロインだっていうのよ。しかも、理由が間抜けすぎて……とほほー。


 それでも、ヴァルヴァディア学園への道を歩く私は、これから始まる新しい日々に少しだけ胸を躍らせていた。魔王を討伐して、ルークとともに過ごしたあの時間が嘘のように思えるけれど、確かに私たちは世界を救ったのだ。

 しかし、学園に着いて、報告を受けたウィンドマン先生は渋い顔。

「紫の雲が晴れたということは、魔王を討伐したことは確かなのでしょう。しかし……」

 その表情から察するに、彼には何か引っかかっていることがあるらしい。彼の視線は、私の体にまとわりつく魔力の気配を見抜こうとするように鋭いものだった。

「けれども、その魔力……まるで別人のように感じられます」

 その一言に、私はビクッと身体をこわばらせた。ウィンドマン先生は、この学園で最も優れた魔術師のひとりだ。誤魔化すのは至難の業だとわかっていたけれど、誤魔化すしかない状況である。

「これは……あの……その……魔王との戦いで、すべての魔力を使い果たしてしまいまして……ええ、そうなんです! えへえへえへ」

 とにかく、言い訳でも何でもいいから、それっぽい理由を作らなければ! と必死に弁解する私。

 けれど、先生の表情はまるで北風のように冷たかった。

「すべての魔力を使い果たした……? そんな事例は聞いたことがありませんが」

 彼の声に冷静さを欠いたところは微塵もなく、その鋭い目は私の言葉の真偽を確かめようとするかのようにじっと見つめている。しまった、と思った。ウィンドマン先生にはこんな嘘が通じるわけがない。さすがに、魔法の世界では知られたこともなく、前例のない現象だとまで言われると、自分でも無理があるとわかっていた。

 でも、私は冷静を装い、言葉を続けた。

「そ、そうなんですよ……私も聞いたことないんですけど、魔王との戦いはそれくらい壮絶だったんです……」

 焦りと共に、少しでも信じてもらえるように祈るしかなかった。ウィンドマン先生は、一瞬何かを考えるような仕草を見せたあと、ため息をついた。

「それでも、あなたが救国の英雄であることには変わりありません。魔王を倒した事実は間違いないのですから」

 彼の声に含まれた感情は冷たいものではなく、むしろ少しだけ柔らかさが含まれていた。それを聞いて、ようやく心の底からホッとすることができた。何とかこの場は乗り切れたのだ。胸の奥に溜まっていた不安が少しずつ溶けていく。あー、世界を救っておいて本当に良かったー。

「では、あなたの言葉を全面的に信用しましょう」

 そう言って、先生は私に視線を戻した。

「失われた魔力を取り戻すために、このヴァルヴァディア学園に入学するということでよろしいですね?」

 彼の言葉には、私がここで何をすべきかが明確に示されていた。私は思わず大きく頷いた。

「はい……!」

 その返事をした瞬間、心の中でやっと一息つくことができた。危なかったけれど、どうにか無事にこの学園に居場所を確保できた。いまの私は無力で、大賢者なんて夢のまた夢だけど……それでも、一歩でも近づきたかった。ルークが愛してくれた大賢者としての姿に。

 しかし、安心したのも束の間、すぐに現実が私を襲ってきた。

「ただし……」と、ウィンドマン先生は続ける。「この学園は全寮制ですから、当然ながら宿舎で生活することになりますが……」

「あ、あぁ、もちろんです!」

 私は無理に明るい声を出して応じたけれど、心の中ではドキドキしていた。実際、私はどこに住むあてもないし、この学園に住むことが唯一の選択肢だった。

「……それでも、何か問題があれば、そのときはきちんと対応しますからご安心を」

 その言葉には、少しだけ不穏な響きが含まれていた。もし私が問題を起こせば、すぐに追い出される可能性があるということだ。背筋がゾクッとする感覚が私を襲った。

 だけど――私は決めていたのだ。ルークが信じてくれたように、私も自分を信じて進むしかない。そして、彼に再び会える日まで、恥ずかしくない自分でいられるように。胸の中にあるその決意が、私を奮い立たせていた。簡単な道のりではないことはわかっているけど、だからこそ挑戦しがいがある。

 さあ、これからが本番! そう心に誓い、私は再び歩き出す。寮へと案内してくれるウィンドマン先生に続いて。

 校舎と寮は渡り廊下で繋がれている。その道中、私は少しだけ緊張していた。何せ、ここが私の新しい生活の始まり。ヴァルヴァディア学園という名門で、魔術を学び直すことになるなんて、思ってもみなかったことだ。

「実は、ブラウンさんが在籍される『入門クラス』は現在、ブラウンさんともうひとりしかおりませんので……」

 ウィンドマン先生がそう言うと、私は思わずほっとした。少人数の方が集中できるし、競争心も湧いてくるかもしれない。しかも、私の他にもうひとりいるという事実が、少し安心感を与えてくれた。

「部屋にも他に空きがなく、どちらかが進級されるまでは相部屋、ということでお願いいたします」

「はい」

 まさかの相部屋か、と思ったけど、早く進級すれば一人部屋をゲットできるのだから、これはもう頑張るしかない。

 ウィンドマン先生に案内されて寮の一番奥の部屋にたどり着いた。廊下は静かで、どこか薄暗い雰囲気だが、そんなことを気にしている場合じゃない。私は覚悟を決め、先生がドアをノックするのを見守っていた。

「失礼しますよ」

 先生が声をかけてドアを開けると――中にいたのは、感じの悪い男子だった。

「先生、どうしたんですか? 授業は明日のはずですが」

 男子は私の存在には一瞥もくれず、ウィンドマン先生にだけ話しかけていた。なんだか無愛想で冷たい印象を受けたけど、まさか……?

「こちら、今日から入門クラスで一緒になるライラ・ブラウン氏です」

 ええええええええ!?

 先生が私を紹介するが、私だけが驚いている。まさか本当に男子と相部屋!? 贅沢言える立場じゃないのはわかってるけど、男女が同じ部屋で寝泊まりするなんて普通あり得ないでしょ!?

「そういうことなら事前に言ってくださいよ。部屋の片付けもありますし」

 男子は渋々片付けを始めたものの、面倒くさそうな態度が目に見えていた。部屋は元々二人部屋らしく、ベッドが上下に二つあり、机もふたつ。下のベッドや机の片方は物置になっていて、それを彼は仕方なく片付けている様子だった。

「彼はカイル・フォスター氏です。仲良くしてくださいね」

 ウィンドマン先生は、私たちを幼児みたいに扱いながら去っていった。

 先生がいなくなると、カイルは無言。お前に興味は一切ない、と言わんばかりに。私も負けじと無言を貫いてみたものの、心の中は複雑だった。だって、こんなに無愛想な男子とこれから一緒に暮らさなきゃならないんだよ? 先生が去った後、部屋に漂う重苦しい沈黙が余計に気まずい。

 部屋の中は狭く、ベッドに加えて机がふたつもあるからさらにそこはかとなく圧迫感がある。扉から見て左側にベッド、右側に机。奥の方が物置になっていたから、私はその奥の机とベッドを使うことになりそうだった。

 カイルは無言で片付けを続けていたけど、私は何か言わないとこの空気に耐えられそうにない。仕方なく、思い切って声をかけた。

「あら、下を譲ってくれるの? ありがとう」

 嫌味にならない程度に感謝を伝えたつもりだったけど、カイルはむすっとした顔でこう返してきた。

「女から見下されるのはごめんだからな」

 え……ナニソレ? そんな理由で下のベッドを譲るとか、意味わかんない。男としてのプライドがあるんだろうけど、私にそんなプライドの押し付けいらないし。それに、さっきまで男子の下着が乗っていた布団で寝るのはちょっと……。

 でも、私は大人なので、そんな対抗意識を見せることはしない。ただ、ひとつ言っておかないと。

「……変なことしたら、噛み千切るからね」

 ナニを、とは言わなかったけど、十分に意味は伝わったはず。カイルは鼻で笑い、

「鏡見てから言えよ」

 と捨て台詞を吐いた。けれど、これに怒るほど私は子供じゃない。大人の対応を心がけている私には、彼の言葉など気にしない。なぜなら――私にはルークがいるのだから。


 ヴァルヴァディア魔術学園――その名を聞くだけで、誰もが畏敬の念を抱く名門。けれど、実際に通うとなると、その厳しさが骨身にしみる。特に『入門クラス』の生徒は、そのつらさを最初に味わうことになる。というのも、入門クラスは長く居座れるほど甘くはない。私とカイルのふたりしか残っていない、という事実がそれを物語っている。

 ふたりだけの授業かー……と心の中で嘆きながらも、授業は十日に一回のみで、残りはひたすら自習。教師がわざわざ入門レベルふたりのために時間を割ける余裕もないし、正直、その程度の内容なら自分で頑張れっていう話だ。厚遇されていないのは明らかだけど、前の学校での冷遇っぷりを思い出すと、これくらいは大したことじゃない。むしろ、自由に勉強できる分だけマシかもしれない。

 とはいえ、同室のカイルとはギスギスした関係が続いている。彼のことを好きになれるかと言えば、正直無理がある。どうにも気に入らないのだ。改めて見ると、背はそれなりに高くてスタイルも悪くない。赤い髪が少し乱れているのも、自然体で気取らない感じがする。確かに、外見だけを見ればイケメンに分類されるのは納得できる。けれど、無愛想で冷めた目をしていて、「俺なら特別なことしなくてもモテるんで」とでも言わんばかりの自信過剰な態度が、どうにも許せない。

 私の心の中で、彼に対する苛立ちが少しずつ積み重なっていく。でも、不思議なことに、彼と一緒にいることがそれほど苦痛ではない。むしろ、こんなタイプの男子が同室で良かったかも、と思うことすらある。同じ部屋で過ごしているのに、彼はまったく私に干渉してこないし、勉強の邪魔にもならない。それどころか、カイルはとにかく勉強熱心。暇さえあれば魔術の研究や魔力を高めるための修練をしている。

 そんな彼の姿を見ていると、私も負けてられない、という気分になる。悔しいけど、少しだけ認めざるを得ない。彼のストイックな姿勢は、私にとっても刺激になっているのだ。この厳しい環境であれば、私も成長できる気がする。

 部屋では、お互いに無言で机に向かって勉強する時間が続く。私たちはまるで競い合うように、黙々と知識を吸収しようとしていた。それがカイルとの日常であり、私にとってもある意味、心地よいリズムになりつつある。

 にも関わらず、お互い目に見えるほどの成長はない。それでも、努力をやめることなく黙々と自習に励んでいた。無言の緊張感が漂う部屋。カイルはいつも通り四大属性の総復習をしているし、私もノートに向かって集中していた。だけど、その日、珍しくカイルの方から話しかけてきた。

「ずっと気になってたんだけどよ」

 突然の声に、一瞬手が止まった。カイルが私に話しかけるなんて珍しい。何かと思って顔を上げると、彼はふと私のベッドの方を見ている。ベッド? 何を見てるの? 彼の視線の先には、畳まれたルークのマントが置かれていた。毎晩、そのマントに包まって寝ることが多いけど、それを彼が気にしているなんて思ってもみなかった。

「あのマント、ルークのじゃね?」とカイル。

「え? どうしてそれを知ってるの!?」

 私は思わず驚きの声を上げた。

「そりゃ知ってるだろ。救国の勇者なんだからよ」

 カイルの言葉に驚きと同時に安堵が湧いてきた。ルークのことを知っている人がいるなんて少し嬉しい。けど、その気持ちも束の間、カイルの冷淡な表情がそれを打ち砕いた。

「……フンッ」

 あ、鼻で笑った。マントを見てルークのだとわかるくらいなのだから、パートナーの大賢者の名前も知っているのだろう。多分、私と同姓同名の別人として。私を見ているカイルの顔には「名前負けもいいところだな」と書いてある。いまの自分の実力じゃ、彼がそう思うのも無理はない。なので、私のことは大して気にかけることなく。

「……お前、ルークのファンなのか?」

 とカイルがさらに問いかけてくる。

「もちろん、救国の勇者様なんだから!」

 そう答えたけど、心の中ではこう付け加えたかった。そして、私だけの勇者でもあるんだから。

 私の反応に、カイルは意外そうに眉をひそめる。

「意外だな、あの人、女子人気ねぇのに」

「え? そうなの?」

 確かに、ルークのヒゲはちょっとワイルドすぎるかもしれないけど、そんなことが原因なの? と思っていると、カイルは信じられないことを言い出した。

「世界各地で女子をナンパしようとしては失敗してるの、ルークの代名詞だぜ」

「はぁ!?」

 あのルークが……ナンパ? ないない、絶対にありえない! あの人がそんな軽いことをするわけがない。彼は鈍感だし、むしろ不器用なほど純粋で真面目な人だ。そんなこと、絶対に信じられない。でも、カイルは自信満々に言っている。

「ないない! あの人、すっごい奥手なんだから。何しろ……」

 言いかけて、私は口を閉ざした。これ以上言うと、私がルークのことを詳しく知りすぎていることがバレてしまう。いまの私は、彼のパートナーである大賢者の成れの果てだと知られてもいいことなんて何ひとつない。

「ルークとは一度会ったことがあって……あ、あのマントはそのときにもらったんだよ」と慌てて話を逸らした。

「……フンッ」

 また鼻で笑われた。完全に信用されてないな。ここで負けっぱなしなのも何か悔しい。

「私がここで嘘をつく理由、ある?」

 私は余裕を装って、冷静に言い返した。カイルは、複雑そうな顔をして「チッ」と舌打ちをしながら視線をそらす。勝ち誇った気持ちになったけど、正直、彼の反応が少し気にかかる。なぜだろう。彼が信じないのは仕方ないけど、もう少し信用されてもいいんじゃない? なんて、妙な感情が芽生えた。

 そして、再び静かな部屋に戻る。お互いに机に向かい合い、再び勉強に集中する。カイルも気まずそうにしているけど、きっとこのまま元のような競争心を保ちながら過ごすことになるんだろう。けれど――もし、あのマントがなくなったら、私は絶対にカイルを疑ってやるんだから! そんなことを心の中で呟きながら、再び水属性の基礎固めに戻った。


 カイルから聞いた妙な話がどうにも引っかかっていた。彼の言うことは普段から半分くらい聞き流しているけれど、今回ばかりは気になってしまったのだ。ルークが女の子にナンパしてる? あんなに長い間女子と共同生活していながら指一本出してこない男だよ? ……逆に、私から出してしまったくらいなのに。指じゃないけど。

 と、ともかく、彼がそんな軽薄なことをするわけがないじゃない。でも、どこかで不安になってしまったのも事実だ。

 結局、その疑念を払拭できず、私は街に出て少し新聞を探してみることにした。情報は新聞から得られることが多いし、もしかしたらカイルの言うことを否定する材料も見つかるかもしれない。店先の新聞スタンドでいくつか見出しをチェックする。だけど、どの新聞を見てもルークの名前がどこにもない。世界を救ったはずなのに……?

 今回の魔王討伐はあまりにも壮絶な出来事だった。紫の雲が広がり、街が滅びる寸前だったところ、ルークはそれを防いだのだ。けれど、その偉業に関する記事がほとんどない。唯一、目に留まったのはひとつの小さな見出し。

『勇者ルーク、紫の魔王を討伐後、失踪』

 えっ……失踪? 目を疑った。そんなはずはない。だって、ルークは勇者としての旅を続けるって手紙に書いてあったじゃないか。記事を読み進めると、大衆紙らしい曖昧な表現で、ルークが討伐後に姿を消したというゴシップ記事が書かれていた。魔王を討った後、どこにも現れず、消息が不明だと書かれているが、まるで噂話のような感じだ。大衆紙、大衆紙……ゴシップ記事、ゴシップ記事……そう自分に言い聞かせながらも、なぜか不安が押し寄せてくる。いい加減な新聞とはいえ、ルークが行方不明なんてありえないと思いたかった。そんなはずはない、彼は手紙に書いていた通り、きっとどこかで旅を続けているに違いないんだから。とはいえ、なんだかんだでその記事を買ってしまった。心のどこかで、その真偽を確かめたいという気持ちがあったのかもしれない。

 新聞を読んでいるうちに、魔王討伐が大きく報道されていない理由がわかってきた。紫の雲が広がりはしたけれど、街にはほとんど被害がなかったため、街の住人にとってはそれほど脅威として受け止められていないらしい。山の住人たちは毒の雨に怯えていたようだけれど、街の人々にとっては、遠い話にすぎなかったのだ。それでも、街に被害が及ばなかったのはルークのおかげである。それを思うと、彼の偉業が大きく扱われないことが悔しくてたまらない。

 さらに記事を読み進めると、討伐には王宮が関与していないことも報道されていた。普通なら、王宮から討伐の依頼が出るはずなのに、今回はそれもなく、ただ静かに終わった。紫の雨が街まで来たらさすがに王宮も動いただろうけれど、今回はその手前で事が済んでしまったため、あまり注目されなかったらしい。こうして、ルークの功績はほとんど知られないままになっているのだ。

 私は悔しさを噛み締める。ルークは勇者として自分の命を懸けて世界を救ったのに、誰もそのことを知らないなんて。そんな無名の英雄扱いなんて、納得できない。彼はもっと評価されるべきなんだ。

 そう思って、新聞をぎゅっと握りしめる。その記事にはもうひとつ驚きの情報が書かれていた。王宮がバタついているという話だ。どうやら第一王子であるラファエル王子の体調が思わしくないらしいという。王宮ではその対応に追われていて、討伐どころではない様子だ。しかも、その情報も医療関係者から漏れたというもの。こんな情報をリークするなんて、どう考えても問題じゃない?

 そして、ルークに関する記事は『今回は、勇者名物の失敗ナンパが見れなくて記者としても残念である』という一言で締められていた。……ふーん……へー……あ、そー……やっぱ名物なんだー……。この件については、今度会ったときにきちんと本人の口から弁明してもらわなきゃねー……? フフ……フフフ……。怒りに震える私の手の中で、哀れな新聞がクシャリと鳴った。

 入門クラスに入ってから、私とカイルはまるでどんぐりの背比べをしているかのようだった。私たちふたりともが、どれだけ頑張っても大きな成果を上げられず、ひたすらもがき続ける日々。でも、そんな状況も一ヶ月が過ぎた頃から、少しずつ変わり始めた。驚くべきことに、私の方が先に成長の兆しを見せ始めたのだ。自分でも信じられないくらい、魔術のコツが徐々につかめてきた気がする。もちろん、ウィンドマン先生の教え方がすごく上手だったのもある。でも、一番大きな理由はやっぱりルークの存在だと思う。次にルークに再会するときまでに、もっと強く、もっと立派な大賢者になっていたいという思いが、私を支えてくれているんだ。あと、正直カイルに負けたくないというプライドも少しはあるけれど。

 とはいえ……本当に最大の理由は「テンポラリー・リセット」に頼りたくないからだったりする。魔術を使うたびにリセット状態に戻り、毎回服が消えるなんて屈辱的なこと、もう絶対に繰り返したくない。リセットに頼らずに、ちゃんとした力で魔術を使いこなせるようになりたいと、その思いで猛勉強に励んだ。

 授業の度に行われる小テストもその成果の証である。最近では連勝中で、カイルに負けることはなかった。正直、彼に勝つたびに「ざまぁ」って思う自分がいたのも事実だ。まあ、そんなことを思ってしまうのも、カイルの無愛想さや自信過剰な態度が原因なんだけど。

 けれど、今回ばかりはさすがに……。

「…………」

 答案を受け取ったカイルは無言。きっと、よほどの自信があったのだろう。私もだけど。あまりのマジ凹みに、私も素直に喜べない。

「ま、まぁ……今回は私も調子良かったから……」

 少しでも励まそうと思って言ったつもりだったのに、それが完全に裏目に出た。

「チッ。女に憐れまれるとかおしまいだな」

 ……もう絶対同情しねぇ。

 吐き捨てるように憎まれ口を叩くカイルに、私もまた背を向ける。けれど、ウィンドマン先生はそんな私たちに微笑みかけた。

「ブラウンさん、油断されない方がいいですよ。フォスターくんは本番に強いタイプですからね」

 その一言に私はピリッとした。カイルが本番に強い? いままでの小テストでは私が連勝してきたけれど、本当に彼が実力を隠しているタイプだとしたら、次の試験では勝てないかもしれない。私は思わず、カイルの方をちらりと見た。彼は無表情だが、その奥に秘めた闘志が見え隠れしている。やっぱり、こんなところで負けていられない。

 望むところ! と思っていたけれど、先生は何か別のことを考えている様子。

「そういえば、魔王の影響も薄くなってきましたし……ふむ、これはちょうど良いかもしれませんね……」

 先生は何かを考え込むように一瞬黙り込んだ。そして、どうやら何かを思いついたようで、顔がパッと明るくさせる。

「フォスターくん、汚名返上の機会が必要ですか?」

 カイルの目が一瞬輝いたのを私は見逃さなかった。普段冷静で無愛想な彼が、まるで少年のような目をしているなんて……少し驚いた。

「是非とも!」

 その返事には迷いがなかった。先生が提案する「汚名返上」の機会に、カイルは本気で挑むつもりなのだ。その目には、負けたくない、何かを証明したいという強い意志が宿っていた。

「これは非公式の情報ですが、最近、王宮が少しバタついていて、魔獣討伐まで手が回っていない状況です」

 王宮が? 先生みたいな人でも大衆紙読むの? 少し意外に感じながらも、先生はあくまで冷静に話を続けた。

「そこで、フォスターくん。北の山に根城を構えている『グラン・ウルフ』という魔獣を討伐してみませんか?」

 グラン・ウルフ? どこかで聞いたような……と思い出し、私は思わず息を飲んだ。グラン・ウルフは数ヶ月前から北の山に現れた外来種で、そのたった一頭によって、山の住人たちは一斉に避難を余儀なくされたと噂されている。そんな危険な魔獣を討伐するなんて……さすがに無茶じゃないの?

 私は不安を口にしようとしたが、カイルがそれを遮るように声を張り上げた。

「やります! やらせてください!」

 その決意に満ちた声に私は再び驚いた。カイルはいつも冷静で無愛想なタイプなのに、こんなにも情熱的に答えるなんて。本気で挑戦しようとしているのだ。彼にとって、これはただの試験ではなく、自分の力を証明するための大きなチャンスなのかもしれない。

「では、こちらを渡しておきましょう」

 と先生は教材入れからお守りのようなものを取り出した。

「これは……」

 カイルは眉をひそめる。よく知っているもののようだ。

「はい、飛翔の護符です。起動すれば、ただちに学園まで戻ってこれるでしょう」

 先生としても、生徒に無茶をさせるつもりはないらしい。

「こんなもの、必要――」とカイルは手を出さないが、ウィンドマン先生の瞳が厳しく光る。

「お守りです。必ず持っていきなさい」

「……はい」

 さすが先生だ。有無を言わさぬ威圧感。受け取らなければ討伐は認めない、ということなのだろう。

「これは、強敵と相対するところに意義があるのです。その緊張感を成長につなげてほしい、というのが私の願いです。決して討伐を依頼しているわけではありません」

「倒してきますよ」

 先生としても、カイルがここまで前のめりになるのは予想外だったのだろう。

「……ブラウンさん、フォスターくんに同行してもらえませんか?」

「女についてこられても邪魔なだけです」

「私も是非とも参加させてください」

 カイルの売り言葉を迷うことなく買う私。ここまで言われて引き下がれるか。

 このやり取りに先生はますます渋い顔を強める。

「……では、あなたにも護符を渡しておきましょう」

 と私にも渡してくれた。そして、そっと耳打ち。

「あなたの役割はフォスターくんの暴走を止めることです。くれぐれも揃って無茶はなさりませんよう」

「はい、わかっております」

 私は大人なので。

「……チッ」

 カイルには聞こえていなかっただろうけど、私を同行させた目的は察しているのだろう。直接先生に楯突くことはなかったが、舌打ちだけは聞き逃がせなかった。


 次の授業の代替として討伐の日が設定された。今度の私たちは、授業の代わりに討伐に全力を注ぐことになったわけだ。この十日間、私もカイルも、実践的な修練を徹底的に積んできた。相手はグラン・ウルフ、通称「一匹狼」。群れを作らずに単独で行動することからこの名がついたらしい。その分、個々の力が非常に強いことで知られている。ヤツらは信じられないほどの瞬発力で動き回るため、攻撃する際には、点で狙うのではなく、広い範囲で攻撃する必要がある。

 私の得意な水属性の魔法は、こうした面での攻撃に適している。水の流れを操り、広範囲に攻撃を仕掛けることができるからだ。

 一方、逃げるにしても、追うにしても、速さが鍵となる。その点、カイルの得意とする風属性の魔法は高速移動に適していて、彼が前衛となってくれれば勝機はあるはずだ。…いや、普通に考えればそうだが、問題はそのカイルだ。彼は絶対に私と組んで戦うなど了承しないに決まっている。

 当日が近づくにつれて、自ずと緊張も高まってくる。グラン・ウルフの討伐に挑むにあたって、写真付きの入山許可証まで発行されるとは、思った以上に徹底されている。これだけ厳重な対策が施されているということは、それだけ危険な相手に挑むということだろう。

 そして――討伐当日が訪れた。私たちは山の麓でウィンドマン先生からの最後の注意を受けていた。

「おふたりとも、繰り返しになりますが、今回の目的は強敵と対峙することで自身の成長を促すことです。絶対に無理はしないよう、深追いしたり、無茶をしないようにしてください」

「はい」と私とカイルは同時に答えた。私たちは表面上、冷静に返事をしたが、内心ではそれぞれ異なる感情を抱いていた。

 しばらく歩き出してから、カイルの様子が気になり始めた。黙々と前を進んでいた彼の鞄から、ひょいと飛翔の護符がポロリと落ちたのだ。

「ちょっとカイル、何考えてんの!?」

 私は思わず声を張り上げた。彼がわざと護符を捨てたことは明らかだった。

「こんなもんがあったら頼っちまう。それじゃ、俺は成長できない」

 カイルは捨てられた護符を見下ろしながら、冷たくそう言い放った。信じられない。彼の言い分に私は思わず声を荒げる。

「だからって、もしものことがあったらどうするのよ!」

 私は焦りながら問い詰めた。グラン・ウルフ相手に無防備で挑むなんて正気の沙汰じゃない。彼がどれだけ自信を持っていても、何が起こるかなんてわからない。

「そんときは護符でも何でも使って帰れよ。お前が使う分には止めねェから」

 カイルは素っ気なく答える。それだけ? そんな軽い考えで自分の命を賭けるつもりなの? 本当に無茶な人だ。

 ダメだ、この人……本当に無茶しかしない。だったら……! 私は思わず、自分の護符を手に取り、同じように捨てようとした。彼だけに無茶をさせるわけにはいかない。でも、それに気づいたカイルが慌てて叫んだ。

「お、おい! お前、ナニ考えてんだ!」

 その声には、驚きと焦りが混じっていた。彼の反応は私を少しだけ満足させた。私の言動に初めて真剣に反応してくれるなんて。

「見ての通りよ。というか、自分が先に捨てといて何言ってんの?」

 カイルが先に護符を捨てたんだから、私だって同じことをしてもいいはず。そう思ったけれど、彼は予想通り反論してきた。

「俺はいいけど、お前はダメだ!」

「何でよ!?」

 納得できない。何でカイルだけが自分の安全を無視して良くて、私が同じことをしちゃいけないの? 彼は短く息をつき、無表情のまま言い返した。

「俺は自分の身くらい守れるけど、お前は無理だからな」

 その言葉に、私はぐっと息を呑んだ。軽く見られたことが胸に刺さった。私だってやれる、そう思ったけど、すぐにカイルの言葉に反発した。

「バカにしないでくれる? 私に3連敗してるクセに!」

 口にした瞬間、その言葉がどれほど彼を傷つけたのか、すぐに理解した。カイルの表情が一瞬にして曇り、彼の瞳が冷たく光った。

 しまった、言い過ぎた――。

 カイルは無言のまま、私を見つめることなく早足でその場を去った。彼の背中が遠ざかっていくのを見ながら、私は胸の中に後悔が渦巻いていた。こんなつもりじゃなかったのに。

 ごめん……。心の中で謝罪の言葉が浮かんだけど、それを口にする勇気がなかった。言い過ぎたことはわかっていたが、いまさら謝ったところで彼をさらに傷つけるだけだろう。

 私は自分の護符を拾い上げ、少し距離を取ってカイルの後を追うことにした。彼との距離が物理的にも精神的にも広がっている気がして、胸が痛んだ。

 木々の間を抜ける風がざわめき、山道を進む私たちの耳に微かに届いていた。これまでカイルとは競い合いながらも協力する場面はほとんどなく、何かにつけて言い合いばかりしてきたけど、いまはそうしている余裕なんてない。この討伐で少しは協力できるかな、なんて思っていたけど、やっぱりそう簡単にはいかない。

 私は、どうにかカイルとの関係を修復できる方法を考えていた。あの失言のせいで、彼との間には取り返しのつかない緊張が漂っている。なんとかして謝りたいけど、あの意地っ張りな彼がそれを受け入れてくれるとは思えない。

 山道は思った以上に静かだった。魔王が討伐され、紫の雲も消え去ったから、魔物たちはこのあたりにいないのかも――そんな油断が一瞬、私の心をよぎった。そのとき、突然、空気が変わった。

 ――何、このすごい殺気……!

 瞬間的に全身の毛が逆立つほどの冷たい圧力が迫ってきた。体が一瞬にして固まる。冷や汗が背中を伝うのがわかった。視界が揺れたかと思うと、カイルの声が聞こえた。

 「お前も気づいたか」

 彼の声が震えている。カイルですら、この殺気を感じているのだ。彼だって、額にはびっしょりと汗をかいている。目を見張るほどの緊張感が彼を包んでいる。確実にいる――グラン・ウルフが、この先に。

「カイル、待って! 一緒に……」

 言い終わる前に、カイルが先に動いた。やっぱり! 勝手に先行して自分ひとりでやるつもりだ! 彼の姿が目にも止まらぬ速さで風魔法よって爆ぜるように飛び出し、糸を通すように木々の間を鋭く駆け抜けた。まるで流れるような動きだ。カイルの風魔法の精度には感心せざるを得ない。障害物を軽々と避けながら、驚異的な速度で前進している。あれだけの速さで動くには、周囲の空気の流れを正確に読み取らなければならない。

「くぅ……やるわね、カイル」

 思わず独り言が漏れる。私も遅れてはいけない。せいぜい、走るスピードを上げるくらいしかできないけど、彼に追いつかないと。カイルがすでに戦闘を開始している音が遠くから聞こえてくる。風の音と、魔物の咆哮が交錯している。彼の戦いはもう始まっている!

 私が戦闘の場に到着すると、そこには息を切らしながらも、まだグラン・ウルフと向き合っているカイルの姿があった。彼の周りには倒れた木々と、削られた地面が広がっている。まるで嵐が通り過ぎた後のようだ。

「お前は手を出すな!」

 カイルの声が荒々しく響く。だが、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 彼はすでに消耗していて、対峙するグラン・ウルフはいままさに勢いに乗っている。私はカイルの無謀さに腹が立った。なんでこんな無茶をするの? 先生が飛翔の護符を渡してくれた理由を、ちゃんと理解しているの?

「俺は……こいつを倒して強くなる!」

 彼の決意は固い。でも、それじゃ命を落とすかもしれない。そんな意地を張る前に、現実を見てほしい。

「そういうことは倒してから言いなさい!」

 私はカイルの自分勝手な言葉を無視し、水礫(みずつぶて)を放った。水の魔力を込めた無数の小さな礫が、グラン・ウルフの巨大な体に打ち込まれる。一つひとつの威力はそれほどでもないけれど、確実に奴の体力を削っていく。だが、カイルは私の助けに不満そうだ。

「チッ、余計なことしやがって……」

 カイルは先に戦っていた分、明らかに魔力が落ちてきているのが私にもわかった。そして、野生の魔物は弱った相手に敏感だ。力が落ちたカイルに狙いを定めて、グラン・ウルフが再び動き出す。

「危ない!」

 私は思わず叫んだ。全身全霊を込めてもう一度水礫を放つ。狼は一瞬ひるんだ。だが、狙いは私に向けられていた。これはもう、腹を括るしかない!

「ガファ!」

 グラン・ウルフが牙をむき出しにし、私に向かって突進してくる。私は懸命に水礫で迎撃するが、魔力はすでにほとんど尽きかけている。攻撃が弱まり、奴を倒すどころか、動きを鈍らせるのがやっとだった。

 その瞬間――


「うおおおおおおおッ!!」

 ズバァッ!


 カイルの渾身の咆哮と共にグラン・ウルフの首が突然宙を舞った。まるで鋭利な刃物に切り裂かれたように。その方向を見ると、カイルが私の方に手刀をかざしていた。

「……俺を無力だと思わせれば、相手にとって邪魔になるのはお前だけ。どこに動くかわかれば、あとは狙いを定めればいい」

 カイルの冷静な声が耳に届いた。なるほど、私が狼に襲われるのを待ってて……。

「って、私を囮にしたの!?」

 それも、勝手に! 私は怒りを抑えきれず、カイルを睨みつけた。彼はそんな私を涼しい顔で見返す。

「俺の手柄の邪魔をしたんだ。ならせめて俺の役に立て」

 信じられない。なんて自己中心的な考えなの! この男、ほんとにサイアクすぎる! けれど、彼の強さに圧倒されている自分がいるのも事実だった。

「……勝手に囮にするなんて、サイアクよ」

 私はそう言いつつも、彼の冷静な判断に感謝していた。

「とにかく、グラン・ウルフは倒したってことで……」

 そうつぶやきながら、帰るための飛翔の護符を取り出す。カイルの方をちらりと見やり、彼に一言「ありがとう」なり「悪かった」なり言ってくれたら一緒に帰ってもいいけれど……まあ、そんな簡単に頭を下げるやつじゃないか。私は呆れながら護符を握りしめる。あなたのような人は、疲れてる中徒歩で下山すればいい。

 けれども――その瞬間、

「危ねェ!!」

 カイルの必死の叫びが聞こえた。

「きゃっ!」

 私は思わず声を上げ、地面に転がり込む。頭上から何かが空気を切り裂く音を立て、危険が迫ってきたのを感じた瞬間、鋭い風が吹き抜けていった。

「ギャゥッ!」

 視線を上げると、そこにはまだ生きている狼がいた。グラン・ウルフは倒したはずなのに、その狼に私は襲われた……? 幸い、空中で吹き飛ばされたものの、すぐに立て直し、恐ろしいほどの速さでこちらを狙っている。

「嘘でしょ……まだ残ってるなんて……!」

 思わず息を呑む。どうしていままで気づかなかったんだろう。この狼たちは、単独ではなく群れで行動している――そう、グラン・ウルフは本来一匹狼のはずなのに、こいつらは群れを組んでいるのだ。周囲に漂う殺気がどんどん濃くなる。あちこちから視線が突き刺さる。これは、やばい……!

 カイルも立ち上がり、すでに警戒を強めている。彼の目も私と同じようにあちこちを見渡し、さらなる狼たちが迫ってくるのを察しているようだった。彼の額にはまだ汗がにじみ、疲労は隠せない。

「こ、これ……どういうこと……?」

 思わず声に出してしまう。狼の赤く光る瞳が私をじっと見据え、再び牙を剥き出しにしている。カイルも同様に警戒し、目を鋭く細めた。彼は木々の上の方をチラリと見つつ、悔しそうに呟く。

「なるほどなぁ、それで、一匹狼ってか」

「え? どういうこと?」

 混乱したままの私に、カイルは説明を始める。彼の声には怒りと焦りが混じっていた。

「コイツら、一匹を囮にして、他の連中は木の上とかを移動してるんだ。殺気を消しながら、静かに忍び寄ってくる。で、気づいたときには皆殺しにされるってわけだ。生存者がいなけりゃあ、他に知る者もいねぇ」

 ぞっとする。つまり、私たちはこの群れの策略に完全にハマっていたということだ。グラン・ウルフは、群れで行動しているにも関わらず、一匹狼のように見せかけていたのだ。

「よ、よくわからないけど……一匹狼のフリをして、本当は痕跡を残さず群れで行動していた……ってこと?」

「そうだ。狡猾な野郎どもだ。お前、飛翔の護符持ってんだろ。お前だけでもとっとと帰れ」

 カイルの声には苛立ちが含まれていた。彼はいますぐにでも私をここから逃がしたがっている。でも、私は――そんな彼をひとりにするわけにはいかない。彼がどう思っていようと、私は仲間を見捨てることなんてできない。

「それが……さっきので……ごめん!」

 私の手の内の護符はすでに無くなっていた。避けた拍子に飛ばされて、狼たちが控えている木の下に落ちてしまったのだ。

 カイルはため息をつき、呆れたように私を見た。

「ま、自分で捨てた俺が責められることじゃねーけどな」

「ごめん……」

 私が謝罪すると、カイルはそれ以上何も言わず、再び狼に目を向けた。狼たちは私たちを取り囲むように木の上を陣取っている。逃げ場は無い。このままでは、ふたりともやられてしまう。

「お前、魔力は残ってるか?」

 カイルが問いかけてくる。私もギリギリだが、まだ少しだけ魔力を使えるはずだ。

「少しだけなら……」

「それで十分だ。俺が突破口を開くから、お前はその隙に逃げろ」

「でも……!」

「いいから言うことを聞け!」

 カイルの声は普段よりも強く、まるで私を押し返すようだった。

「俺が突破口を切り開くからお前は突っ切れ」

 カイルがいつもの無駄に強気な口調で言い放った。言葉だけを聞くとシンプルな作戦だ。だけど、私は少し引っかかっていた。カイルが突破口を作ってくれるのはいいけど。

「そのあとカイルはどうするの?」

 私は問いかける。だって、魔力の消耗は激しいはずだ。

 カイルは待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑う。

「倒せはしねーけど、離脱できるくらいの余力はあるさ。フン、お前のために命をかけるほど、俺は間抜けじゃねーよ」

 そう言われて、私は思わず笑ってしまった。確かに、カイルはそういう奴だ。私を守るより、いつでも自分のことを優先するようなヤツだ。だからこそ、安心できる。

「走れ、ライラ・ブラウンッ!!」

 カイルが力強く叫んだ。次の瞬間、全力の風魔法が放たれる。その勢いは凄まじく、地表を削り、太い幹の木々がまるで柳のように揺れる。これには狼たちもバランスを崩しているようだ。カイルが作ってくれた脱出経路を、私は全速力で駆け抜ける。

 心臓が早鐘のように鳴り続ける。足元が崩れそうな感覚の中で、私は必死で足を動かし続けた。さすがのカイルだって、この状況から狼たちを倒そうとは思わないだろう。ちゃんと逃げてくれていればいいけれど――

 しかし、私はその期待を裏切られた。

 ふと振り返った瞬間、私の目に飛び込んできたのは、予想もしなかった光景。

 カイルが――棒立ちしていた。ニヤリと笑いながら、無防備なままそこに立っている。あたかも余裕があるように見えたけれど、いまならわかる。あの笑みは――彼はもう魔力を使い果たしていた。立っているのさえやっとなのだろう。

 ……カイル? その瞬間、私は声が出なかった。ただ、目の前で起きている出来事を理解することしかできない。周りに群れ集まっていた狼たちが、一斉に彼に飛びかかっていく。その牙が、爪が、次々とカイルに襲いかかって――

「……間抜けじゃん」

 足を止め、私は呆然としてつぶやいた。何が『俺は間抜けじゃない』よ。

 そのとき、ようやくすべてを理解した。最初の一頭を倒してから後付けで色々言っていたけれど、結局あの時点で魔力はほぼほぼ尽きていた。囮にした――狙い通り、みたいな顔をしていたけれど、私が狙われたのを必死で助けてくれたのでしょう?

 さらに、この最後の一撃――確かに、ウィンドマン先生の言っていた通りだった。カイルは本番に強い。土壇場で本当の力を発揮する。けど――こんなのはない――!

 涙が止まらなかった。私の頬を伝う涙が、自分でも驚くほど熱い。カイルはあんなに強がっていたけれど、いまはその強さが消えかけようとしている。彼が他人のために動くなんてありえないと思っていた。でも――すでに二度も助けてもらっていたのである。命を魔力に変えて。

「カイル……」

 私は泣きながら印を結んだ。

「お願い……!」

私は叫びながら、テンポラリー・リセットを発動させた。群れ相手には、広範囲の攻撃が最適解ではある。だが、私は一般的な魔術師の話であり、いまの私は大賢者だ。瞬時に魔物たちだけに標準を合わせ、両手から魔力の糸を放つ。それらは、木々の間を縫うように広がると、まるで蜘蛛の糸のように狼たちを絡め取り――切り刻んで粉砕した。

 山の中は急に静まり返り、耳に届くのは私の荒い息だけが残る。

「カイル!」

 私は走り寄った。彼はまだ息があった。良かった――まだ助けられる。私は急いでもう一度テンポラリー・リセットの印を刻む。

「どうして、こんなこと……」

 私の心は混乱していた。カイルがこんなにも私のために戦ってくれるなんて、想像もしていなかった。彼はいつも冷たく、無愛想で、私のことを疎ましく思っているとばかり思っていた。でも、いまこうして目の前で命をかけてくれた彼を目の当たりにして、私の心は大きく揺さぶられている。

 そして、完全治癒の魔術を施したとき――

「……天使が降りてきたってことは……俺、天国に行けるのか……?」

 突然、カイルがかすかに呟いた。目を開けた彼は、私を見てぼんやりとした表情を浮かべていたけれど――緊張が切れたのか意識を失い、安らかな寝息を立て始めた。

「あなたに天使が降りてくるのはまだ早いわ……」

 私は泣き笑いしながらカイルを抱きしめる。彼が無事で、本当に良かった。そして、彼の言葉が、私の胸に深く刺さっていた。


       ***


 学園に戻ってから、私は少しでも気を楽にしようと深呼吸した。カイルとともに無事に戻れたことが何よりの成果だと思いたいけれど、頭の中ではあの戦闘の緊迫感がまだ消えていない。とにかく先生に、カイルは私を守って戦い抜いたと伝えた。それが彼の名誉を守るために必要なことだったし、実際にカイルは私を守ってくれた。だからこそ、彼の戦いを過小評価するようなことはしたくなかった。

 しかし、何もかもがうまくいくとは限らない。私は先生の厳しい視線を受けながら、心の中で冷や汗をかいていた。ふたりとも外見的には無傷で帰ってきたし、私が使った治癒魔術で表面の傷は簡単に癒した。だから、先生も『今回の戦闘は大したことなかった』と軽く受け取ってくれるはずだと思っていた。ところが、先生の眉が深く寄り、いつもより険しい表情になっている。

「……これは……ずいぶん無茶をしたようですね」

 その一言に、私は焦りを押し殺す。一応、グラン・ウルフが本当は一匹狼じゃなかった、というカイルの推測については、私なりにそれっぽく説明して、少し戦闘したけどあっという間に魔力が尽きたから護符で帰ってきた、とは説明したんだけど。まさか先生が私たちに本当にあったことを詳細に察しているとは思わない。けれど……

「どうやら、ブラウンさんも本番に強いタイプのようで」

 私は思わず目を大きく開いた。先生の言葉は穏やかだが、その裏に何か鋭いものを感じた。もしかして、先生くらいになると魔力の痕跡でどんな魔術を施したかわかっちゃうもの……?

「魔王を討伐した大賢者の力を取り戻してもらえることを願っていますよ」

 完全にバレてる……! 先生はすべてを見抜いている。カイルを瀕死の状態から救うためにレストレーション・フェニックスをかけたのを。多分、テンポラリー・リセットまではわからないにせよ、どうにかして大賢者としての力を行使したところまではわかってるんだろうなぁ。

 それでも、先生は何も言わず、ただ静かに見守ってくれている。叱られることもなければ、褒められることもない。ただ、先生の期待が私に重くのしかかっているのは確かだ。

 私は軽く頭を下げて、その場を立ち去った。胸の奥には複雑な感情が渦巻いていた。私の秘密が少しずつ明らかになっていくことへの不安と同時に、先生が私を責めることなく、むしろ信頼を寄せてくれていることへの感謝。そして、そんな自分が本当に大賢者として成長しなければならないという責任感――。

 学園の廊下を歩きながら、私の心は不安定だった。これからどうなるんだろう。私の大賢者としての力は“外付け”で、こっちが本物だってことは知られたくない。それに、カイルだって――。彼が目を覚ましたとき、何を言うだろうか。きっと彼の口から「ありがとう」の一言が出るなんて期待できない。それでも、私は彼を助けた。彼のためでもあるけど、それ以上に自分のためだったのかもしれない。


 カイルはその晩には意識を取り戻した。ベッドに横たわる彼の姿は、もうほぼ元気そうに見える。魔術の効果で、表面上は何もなかったかのように見えるけど、あのときの戦闘のことを思い出すと、まだ胸がざわざわする。

「ギリギリのところで私が学園に運び込んだのよ」

 その言葉に、カイルはちらりと私を見て、「悪かったな」とぽつりと一言。それだけ。まるで普段のことのようにさらりと謝る彼に、私は少し拍子抜けしたような気持ちだった。一応、反省しているらしいけど……なんだか物足りない。もう少し感謝の言葉とかあってもいいんじゃないの?

「まあ、無事で良かったわ」

 私は軽く笑って、下の段の自分のベッドに潜り込んだ。


これで、私たちの日常は戻ってくる――はずだったのに――


 朝の光が窓から差し込む中、私は目を覚ました。ふかふかのベッドの感触に、思わずしばらく体を埋めていたい気分になる。だけど、この生活ももう慣れてきた。共同生活の不便さなんて、私にとっては大したことじゃない。カイルと同じ部屋に住むなんて、最初はどうしようかと思ったけど、あばら家での貧乏生活に比べればずっとマシだ。ベッドは柔らかいし、机もしっかりしている。食事も温かくて、お腹いっぱい食べられる。それに、カイルが変な気を起こす素振りもない。だから、共同生活くらいはどうってことない……と言いたいけど、本当はある。着替えについてだけは、どうしても困る。

 制服で寝るわけにもいかないから、いつも朝になるとパジャマから制服に着替えなきゃいけない。起きると私は、身支度のために寮の女子用洗面所に直行。けど、寮の廊下をパジャマのままウロウロするのも何だか恥ずかしい。それに引き換え、カイルは堂々と部屋の中で着替える。あれ、絶対納得いかない。せめて私が着替えてるときくらい気を遣ってほしいのに。でも、ここは集中できるし、勉強の環境としては悪くないから我慢している。

 そんな日々が続いていたけど、今朝はちょっと違った。目を開けたとき、カイルがいないことに気づく。ベッドは空っぽだし、部屋には彼の気配もない。こういう日は時々ある。カイルは朝早くから魔術の修練をしていることもあるから、そのときは私にとってチャンス。急がなきゃ。

 私はベッドから飛び起き、毛布をしっかりと準備しておく。万が一カイルが戻ってきても、すぐに隠せるようにガード用の毛布を用意しておくのが私の朝のルーティンだ。アイツ、こっちが着替えてても騒いでも「うるせぇ」の一言で無関心なのが本当にムカツク。

 ということで、スピード勝負で着替えを開始。制服にさえ着替えてしまえば、あとはどうにでもなる。カイルが戻ってくる前に済ませられれば、完璧だ。

 急げ急げ……! 自分に言い聞かせながら、ブラウスに袖を通し、スカートをさっと取り出し、急いで履く。部屋にいるのは私ひとり……そのはずだ。でも、やっぱり気になる。もし、もしもカイルが戻ってきたら――いや、そんなこと考えてる暇はない。とにかく着替えてしまえば大丈夫!

 心臓がバクバクするのを感じながらも、私は無理やりその不安を押し殺し、最後の仕上げにかかる。もう少しで全部着替え終わる。あと少しで――

 コンコンという控えめなノックの音が部屋に響いた瞬間、私は体がビクッと反応した。えっ、誰? ウィンドマン先生!? こんな朝早くに? 何で、いまこのタイミングで……! やっば、まだ着替え終わってないのに!

「すっ、すいません! いま着替えてますのでーっ!」

 と、慌てて声を出し、半ばパニック状態でスカートを急いで装着。普段の私なら、もう少し落ち着いて対処するはずなんだけど、そもそもこんな朝早くに先生が来ること自体尋常じゃない。

 と、とにかく、胸のリボンは後でいいとして……

「お待たせしましたー」

 と、表面上は何とか平静を装いながら扉を開けると、そこに立っていたのは――先生ではなく、カイルだった。

「……どけよ。入れねェだろ」

 不機嫌そうなカイルの一言に、私は思わず一瞬固まってしまった。えっ、まさかカイルがノックしたの? そんなこと一度もしたことないじゃん。頭の中で状況が整理できないまま、私は彼の視線に押されて部屋の中に引っ込んだ。

 そして気づいた。カイルが両手に持っているバスケット――しかも、ふたつ? 朝食のバスケットがふたつ。もしかして、私の分まで持ってきた……?

 カイルは無言で私の机の上にバスケットを置き、自分の分のサンドイッチを黙々とかじり始めた。なんだかこの光景があまりに普段と違っていて、私は混乱している。

「……食わねぇのか?」

 急にカイルが声をかけてきて、私は我に返った。

 「あっ、た、食べるよ」と慌てて応じ、隣の席に座った。だけど、心の中はますます混乱していく。いきなりこんなことされても、どう反応すればいいのか全然わからない。感謝の言葉を口にするタイミングすらつかめない。

「あ……ありがと」

 ようやくぎこちなく言葉を絞り出すと、カイルは一瞬だけこちらを見て、無表情で返事をした。

「気にすんな。自分の分のついでだ」

 普段ならついでであっても自分の分だけしか持ってこないくせに、今日に限ってどうしてわざわざ私の分まで……? ずっと、ついでに持ってきてくれればいいのに、とは思ってたけど、いざ本当にそうされると、妙に落ち着かない。この突然の親切に戸惑う自分が恥ずかしい。

 黙々とサンドイッチを食べるカイルを横目に、私も何とか気を落ち着けて食事を始めた。でも、心の中はまだざわついていた。

 カイルは、私の困惑に気づいたのか、少し苛立った様子で口を開く。

「……勘違いすんなよ。俺は、借りは返す主義なんだ」

 借り……? そうか、北の山のことか――と納得がいった。カイルなりに、あの一件の「借り」を返そうとしているのか。そうだよね、狼の群れに襲われたところまでは覚えてるだろうし、カイルはそういうのをそのままにしておけないタイプだ。ぶっきらぼうだけど、ちゃんと筋を通すところは通す。

「あ、そう」と短く返事をしたけど、その言葉にはどこかほっとした気持ちが混じっていた。これで少し安心できた。そういうことなら、しばらくこの親切に甘えてもいいのかもしれない。どうせ、2、3日もすれば元に戻るだろうし。

 ……そう思っていたのに、それから5日経った今朝も、カイルは普通に朝食を持ってきてくれた。それどころか、部屋に入るときはノックまでしてくれるし、さらには「お茶淹れてくるけど、お前もいるか?」なんて気遣いまでしてくれる。

 そんな日々が続いてしまったからか――何だかカイルがいないと落ち着かない。これまでなら彼がいないとせいせいするはずなのに、いざこうしてひとりで机に向かっていると、少し寂しささえ感じる。ま、まあ……私が命を救ったわけだし、1ヶ月くらいは貸しを返してもらってもいいよね、と自分に言い聞かせる。でも、ある日突然『これで借りは返し終えた』とか言われたら……なんだかそれはそれで嫌だなあ、なんて、いまから少し心配してしまう自分がいる。

 ノックの音が部屋に響いた。コンコン、と軽く控えめな音だったけど、私の集中は一気に途切れる。魔法の勉強をしていたけど、最近カイルと同じ部屋で生活することに慣れてきたせいか、どうにも集中力が持たない。というか、あのカイルがノックする時点で、すでに妙な感じがする。

 「はい」と返事をしてドアを開けると、やっぱりカイルだった。けど、いつもと様子が違う。なんか落ち着きがないような。

 カイルは買い物でもしてきたのか、大きめの鞄を持っている。そして無言のまま、その鞄から何か折りたたまれた布のようなものを取り出した。それを見て、私はさらに混乱する。

 何それ? って聞いても「うるせぇ」とか「関係ねぇ」とか教えてくれないものね。なので黙って見ていると、カイルはベッドの下段に布をピンで止め始めた。ちょうどベッドの高さに垂らすようにしている。それを見た瞬間、なんだか可愛い布だな、と思ってしまった。深い紺色に、星や月の模様が散りばめられている。男子のセンスにしては悪くないデザインだし、カイルがこれを選んだというのが不思議すぎる。

「それ、何?」

 怒られるとわかっていながら、私はつい口に出してしまう。カイルは黙ったまま作業を続け、布をピンでしっかりと固定すると、ようやく私の質問に答えた。

「インテリアだよ。俺の趣味だ」と言うカイル。だけど、その声はなんだか不自然で、目もこちらを見ないまま。

 本当に? 私は思わずカイルの表情を覗き込んだ。すると、彼は少し顔を赤くして視線を逸らした。

「お前が来たから、他にかけるところがねーんだよ。無様な寝相も隠せて、ちょうどいいだろ」

「無様で悪かったわね」

 と返す私も、どこか軽くいじられている気がして、なんとなく気不味い。それにしても、こんな風に布をかけてくれるなんて、カイルにしては珍しい気遣いだ。

 ベッドに垂らされた布を見て、なんだか部屋がちょっと居心地よくなった気がする。カイルが選んだとは思えないくらい、優しい色合いとデザイン。それが余計に気になって、私の頭の中で彼の意図を探り始める。

「……でも、ありがと」

 つい感謝の言葉が漏れてしまった。すると、頬を少し赤らめながら、カイルはさらに困ったような表情を浮かべる。

 き、気不味い……。と、とにかく会話を繋がなきゃ。

「ルークのマントと同じくらい大事にするね」

 何気なく言ってみたんだけど、その瞬間、カイルの顔色が急に変わる。

「だったら捨てちまえ」

 彼は低い声で呟き、急に不機嫌な表情を見せた。そして、何も言わずに部屋から出て行く。

 え……? 何で? 私は呆然としてその背中を見送った。何が気に入らなかったんだろう?カイルってルークのこと好きじゃなかったっけ?

 私の頭の中は混乱していた。いつも無愛想でぶっきらぼうなカイルが、突然こんなふうに布をかけて、少し優しい一面を見せたかと思えば、急に不機嫌になって出て行くなんて……本当に何が何だかわからない。

 ひとり部屋に取り残され、私はカイルが残していった布をぼんやりと眺めていた。


 そんなこんなで――涼し気な風が窓を揺らす朝、目を覚ますとベッドに取り付けられたカーテンが、微かに揺れているのが目に入った。これには、正直助かっている。部屋の中で着替えるときは、このカーテンのおかげで視線を気にせずに済むようになったのだから。

 まさか、こんなことでカイルに感謝する日が来るなんて。私は小さく笑いながら身を起こす。普段無愛想なカイルが、何を思ってこのカーテンを用意したのかはわからない。でも、確かに彼の気遣いがそこにある。それと同時に、何故か怒られたことも思い出す。

 カイルは暗くなる前には戻ってきたけれど、夕飯のことを聞いただけで、「自分で取りに行け」と吐き捨てるように言って、私を突き放した。少し寂しかったけど、次の日の朝には何事もなかったかのように朝食を持ってきてくれた。まるで昨夜の冷たい態度を帳消しにするかのように。機嫌が悪かったのはその一日だけだったようだ。

 彼の親切がいつまで続くのだろう……。そう思いながらも、私はすっかりカイルに頼り切っている自分に気付いた。まさか、こんな生活が当たり前になるとは。ルークに救われる前は、あばら家での貧しい暮らしが日常だった私にとって、この部屋の快適さは信じられないほどの贅沢だ。カーテン越しにひとりで着替えられる安心感さえ、いまでは私の小さな幸せになっていた。

 そんなことを考えているうちに、あっという間に時間が過ぎていく。そして、次のウィンドマン先生の授業の日が近づいていた。

 その日は、いつもより少し早めに準備を終え、机に向かう。ウィンドマン先生の授業はいつも楽しみで、特に魔術に関する話は私にとって興味深いものばかりだ。次の授業は何について学べるのだろう? そんな期待感に胸を膨らませながら、机の上の教科書に手を伸ばす。

「次の授業も、きっと面白いはず…」

 その日の授業は、いつもとは少し違う内容だった。ウィンドマン先生は私たちに「討伐お疲れ様でした」と軽く労いの言葉をかけてくれた後、今日のテーマに移った。それは『魔術の根源』について。神様の力を借りて魔術を行使するための基本的な作法や、神様と地上の人間の橋渡しをする天使の存在についてだった。これまで何度も聞いてきた基礎的な話だけど、天使のことを詳しく教えてもらうのはなんだか新鮮だ。

「天使様は目に見えないけれど、その存在はとても大切です。美術の世界でも天使は尊敬と畏怖を込めてよく描かれます。火の天使、水の天使といったように、それぞれの特性を持っているんですよ」

 先生は穏やかに話を進める。

 私は、ぼんやりと天使の姿を思い浮かべていた。天使様って、どんな感じだろう? 少年のような姿で、背中には羽が生えていて、優しそうな笑顔をしているんだろうな……なんて考えつつ、先生の話を聞いていた。

「フォスターくん、君は天使様がどのようなお姿だと思いますか?」

 先生が突然カイルに話を振った。

 その瞬間、カイルの態度が一変する。

「しっ、知りません!」

 突然大声を上げたカイルに、私はもちろん先生も驚いた。普段は無口な彼が、こんな風に感情をむき出しにすることは滅多にない。

「天使なんて見たことないんだから知りようもありません!」

 カイルは顔を真っ赤にしている。何かを必死で誤魔化そうとしているのは明らかだ。

「それはそうですけれど……」

 先生も困った様子で、歪な空気の中、授業は次の話題へと移っていったけれど、私は気になって仕方がなかった。カイルのあの反応、どう考えても普通じゃない。

 私はひそかに、心の中でひとつの可能性を思い浮かべていた。あの山の中で、私はカイルを助けるためにテンポラリー・リセットを使った。意識が朦朧としているカイルには、何も覚えていないはず……そう思っていたのに。まさか――『天使が降りてきたってことは俺、天国に行けるのか?』――まさかカイル、私のことを天使だと思っていたんじゃ……?

 そんなわけない……よね? 私は、そう思い込もうとする。でも、どうしてカイルがあんなに取り乱していたのか、その理由を説明できるのはそれくらいしか思いつかない。

 その夜、私はベッドの中で悶々と考えていた。どうにかしてカイルの記憶からあのシーンだけを消す方法はないものか……。でも、そんな都合のいい術式があるわけない。テンポラリー・リセットは確かに強力な魔法だけど、知らない術式は使えないし、万能ではない。

 はぁ……と、私は溜息をつく。記憶を消す魔術なんて繊細すぎて、成功する確率は低いし、下手に触れば他の記憶まで消えてしまうかもしれない。それに、失敗してカイルに何かあったら……そんなことは考えたくもない。

 思い出したのは、以前メルエールで会った知り合いたちのこと。顔見知りだったはずの人たちが、誰ひとりとして私を覚えていなかった。『ライラ・ブラウンにならないように』という訓示は、別の人の名前に変わっていたっぽい。やっぱあの学校、感じ悪いわ。

『オール・リセット』の魔術は確かにすごい。だって、彼らの記憶には私の存在が完全に消えていたのだから。でも……もし、カイルの優しさがあの一件の――リセットを含めた救出劇の所為だったら――

 いやいやいや! そんなの困るでしょ! 私は慌てて自分の顔を両手で覆う。だって、そんな風に女として意識されるなんて……ルークに申し訳ないし、困るに決まってる。

 カイルが私を天使と錯覚したことで女扱いされているとしたら、これは大問題だ。どうにかしなきゃいけないけど、そもそもどうやって?

 困る……困るんだってば! 困れ、私ーーーッ! 心の中で叫んで、私はまたベッドの中で頭を抱えた。

 ルークは私の唯一の勇者様であり、心の支え。それなのに、こんな風にカイルに優しくされて、揺らぐわけにはいかない。だけど、カイルの突然の変化にどう対応すればいいのか、私にはまったくわからなかった。


 それでも朝はやってくる。私はカイルが持ってきてくれたパンをいつものように一緒に食べていた。これで半月以上続いている朝食ルーティン。最初は少しぎこちなかったけれど、いまではカイルも何も言わずに私の分までパンを持ってきて、無言のまま食べる。私も無意識のうちにそれに甘えている。それにしても、こんな状態が続くなんて……これは、さすがに良くない気がしてきた。……このままじゃダメだよね、と心の中でつぶやく。

 カイルが私を女として見ていないのであれば、気にする必要はないかもしれない。でも、もし彼が私を女性として意識しているとしたら、ルークに対して申し訳が立たない。だって、私はルークに対して……。

 これは早く進級して、一人部屋をゲットしなくては! そんな決意を胸に秘めながら、その日は朝からいつもより集中して勉強に取り組んだ。でも、夜になると疲れもあって、やっぱり無意識にカイルの存在を気にしてしまう。そんなことを考えているうちに、私はいつの間にか眠りに落ちていた。


 夜中にふと目が覚めた。部屋の中は静かで、暗闇の中で私の心臓の鼓動だけが耳に響く。私は何故か、カイルのことが気になっていた。そういえば、彼って夜遅くまで修練していることが多いんだよね。最近、ベッドで寝ている姿を見たことがない。一体いつ寝ているんだろう? あまり無理をしすぎると、さすがに体調を崩すんじゃ……。

 気になって、私はそっとベッドから抜け出した。そして、一先ず修練場に向かってみる。もし、彼がまだそこにいるなら、少しは心配してるってことを伝えてもいいかもしれない……なんて、ちょっとだけ思ったりして。でも、修練場には彼の姿はなかった。

 じゃあ、どこだろう……? 私はロビーを横切ったところで、ふと視線を落とした。そして、そこで驚愕の光景を目にする。

 ……はぁ? ナニしてんの……?

 ロビーのソファーで横たわっていたのは……カイルだった。いつもは堂々としている彼が、今日は何だか違って見える。ぐったりとソファーで眠っているカイル。その姿はとても儚げで、寝苦しそうにうなされている。

 なんでこんなところで……? 私は無意識にカイルの側に近づき、額に手を当てた。すると、ひどく熱い。驚いて手を引っ込めた。

 これは……『風邪』……!

 風邪とは、病気と呼ばれる生体侵食の一種である。これまでは呪いや魔術の一種だと考えられてきたが、近年の研究により、目に見えないほどの微生物が体内に侵入し、身体の器官に悪影響を及ぼすものだと判明した。相手が魔術であれば魔術で対抗できる。しかし、微生物となると、それを退治したり消滅させたり――体内に攻撃の術式を打ち込むことは極めて危険な行為である。結局、治癒能力を高める術式を用いて、自然に備わった人間の力で対抗しなくてはならない。結局、できることはせいぜい体力を活性化させる術式を用いて人間の自然治癒力に頼るくらいしかないのだ。

「こんなになるまで……」そう呟きながら、私はカイルの顔を見つめる。彼がこんな状態になるなんて……疲労で身体が弱っていたのかもしれない。でも、彼は強がって無理をしていたんだろう。もしかして、私に遠慮して、自分の限界を超えて頑張っていたんじゃないか……?

 カイルが部屋で眠らず、ずっと修練に打ち込んでいた理由がわからなかったけど、もしかしたら彼は、私との同室生活に気を遣っていたのかもしれない。私に遠慮して、外で修練を続けて……そして、その所為で無理をして体調を崩してしまったんじゃないか……。

 そんな……バカみたい……。私は自分の無神経さに唖然とする。もしカイルがそんな理由で無理をしていたのだとしたら、私は一体何をしていたんだろう。彼に甘えてばかりで、自分のことばかり考えていた。ルークに対してどうこう思う前に、目の前で苦しんでいるカイルのことをもっと気にかけるべきだった。

 ごめんね……。心の中で謝りながら、私は彼を部屋まで運ぶことにした。ひとりの男の子を部屋まで運ぶなんて、普通の女子には難しいかもしれないけれど、私は魔術師。風のマントの術式を使えば、カイルを軽々と運べる。マントの風の力でカイルの体を包み込み、滑るように引っ張っていく。

 部屋に着いたけれど、魔力の細やかな調整はできないから、ベッドの上の段に寝かせるのは無理だろう。私は少し迷ったけれど、カイルを自分のベッドの下の段にそっと寝かせることにした。様子を見るのにもちょうどいいし、何よりすぐに手当てできる場所に置いておきたかった。

 この時間に誰かに頼るのは難しい。宿直の先生を呼ぶのも、魔術ではなく病気では頼みにくい。だからこそ、私がここで何とかしなければ――そう、テンポラリー・リセットの出番だ。カーテンのおかげで見られることもないし、いまならカイルに直接魔力を送り込める。リセットした後に、私が知りうる最大の回復の術式をかけた。レストレーション・フェニックスのような直接的な魔術ではなく、ただ体力を漲らせるだけだけど。

「人に宿りし命の根源、魂の息吹、其を蝕むすべてに打ち勝つ安らぎを……」

 カーテン越しに、魔力が輝く光が透けて見える。術式を発動したことで、衣服も元に戻ってくれた。いま、カイルの体内で微生物と戦う力が活性化している。私にできることは、この精一杯の術式でカイルを支えることだけだった。

 だが、それでも安心はできない。頭が熱いと寝苦しいという話を思い出し、私は水で冷やしたタオルを用意し、彼の額に乗せた。タオルが冷たく触れた瞬間、カイルの寝顔が少しだけ安らいだ気がする。

「まったく……カイル、いつも無理しすぎだよ……」

 その姿を見て少しだけ安心したものの、私は彼のことが心配で仕方がなかった。風邪にかかるまで無理をするなんて。

 私はそっとカイルの顔を覗き込んだ。寝苦しそうに眉をひそめたその表情が、どこか可愛らしくも見える。だが、それと同時に胸が締め付けられるような罪悪感が広がっていった。カイルが無理をしなくて済むように、もっと気を配るべきだったのではないか――そんな考えが頭をよぎる。

 ああ、もう……カイル、つらいときはつらいと言って……! 私は自分に言い聞かせるように呟き、彼の額のタオルをそっと押さえた。少しでも早く回復してくれるように願う気持ちでいっぱいだった。

 そして……そして、ふと自分のことに思いが及ぶ。もし、ここで私が徹夜してしまったら、カイルに対して無茶するな、なんて言えなくなる。だから、私は断固として休みたいところなのだけど……下は、カイルが寝てるからねぇ……。じゃあ、上の段? 試しに制服のままちょっと布団に入ってみたけれど……無理! これ無理! ここで寝るなんて! だって……男の子の匂いだもん、これ! 寝れるわけないって! かといって、学園の外で過ごすにはカイルのことが心配だし……!

 今日は徹夜で勉強する! あくまで今日だけ! 私は無理しないから! そう自分に言い聞かせながら、私は上の段のベッドから下りて、机に向かった。明かりを灯し、参考書を開く。しかし、心ここにあらずというのが自分でもわかる。カイルの寝顔が気になって、ページをめくる手が止まってしまう。

「……ったく、カイルのバカ……」

 そうつぶやきながら、私は彼の寝顔を見守る夜を過ごした。明日はきっと今後の話をしなければならない――こんなに無理をさせているのは私のせいかもしれないと、心の奥底でそう思いながら。


 夜更かしして机に突っ伏していた私が目を覚ましたのは、朝の光が窓から差し込む頃だった。あれだけ「徹夜する!」と気合を入れていたのに、結局寝てしまっていたとは、我ながら情けない。体を起こしながら、ぼんやりと昨晩のことを思い出す。カイルが熱を出して倒れたとき、私は彼を下のベッドに寝かせ、微生物と戦うために魔術を使った。彼のためにできることはしたけれど、カイルが完全に回復するかどうかはまだわからない。

 気がかりなことを抱えたまま、私は早速ウィンドマン先生に相談しに行った。「回復の魔術を施したのなら、今日一日は様子を見てください」と、先生は少し困った表情をしながら言った。魔術に関しては一流だけれど、生物学は専門外らしい。さらに、微生物は空中を浮遊して他の人に感染するかもしれないので、なるべく今日は部屋に戻らず、私にも休養を取るように言われた。

 先生の忠告を受け、少し不安になりながら部屋に戻ることにした。「カイルが寝ている間に、何とか今日一日過ごせれば…」と思いながら、ぼんやりと歩く。やっぱり、一晩中カイルのそばにいたことで、私も微生物に感染されてしまったのかもしれない。これは、私の体内の免疫に頑張ってもらうしかない! そう自分に言い聞かせつつ、ドアの前に立った。

 しかし、部屋に戻った私は早速やらかす。無神経なことに、ノックを忘れてドアを開けてしまったのだ。

「おっ、おい!」

 カイルの怒鳴り声が飛んできた。視線を上げると、そこにいたのは……下着姿のカイル。ご、ごめーん!! 思わず目を覆い、顔が真っ赤に染まるのを感じる。けど……ん?

「な、なにしてんの!? いまは、寝てなきゃダメじゃん!」

 私は逃げることなく言葉を並べたが、カイルは制服に着替えながら冷めた目でこちらを見てきた。まるで「大丈夫だ」と言いたげな表情をしているけれど、その様子はどう見ても元気そうには見えない。制服のボタンは半分も留まっていないし、言葉にも覇気がない。

「もう良くなったから、大丈夫だってば」

 そんなこと言いながらも、明らかにフラフラしているカイルを私はグイッとベッドに押し込んだ。普段ならこんなに簡単に押し倒されることはないはずなのに、いまのカイルは弱りきっている。これは、さすがに無理をさせたらダメだ。

 けれど、ここでカイルの最後の抵抗。

「わ、わかったから! 寝るよ! でも、自分の布団で寝かせてくれ!」

 カイルは慌てた様子でベッドの梯子を登り、上段へと向かう。そういえば、昨晩は彼が私の布団で寝ていたんだった……。カイルが、私の布団に――。

 その考えが頭をよぎると、急に顔が熱くなってきた。私の布団に男の子が寝ていたなんて……あまりにも意識しすぎて、心臓がバクバクしてくる。

 そして、それはカイルも同じらしい。

「下の布団、お前が使う前に洗ってくれ。頼む……」

 カイルは梯子を登りながら、少し深刻な口調で言った。そういえば、かなり寝汗をかいたものね。それを聞いて、再び私は顔が熱くなる。わ、私……ちょっとだけ上の段で寝ちゃったけど、大丈夫かな……?

 とにかく、カイルがちゃんと休めるようにしなくては。私はカイルが脱いだ制服をハンガーにかけ、自分の布団をまとめて洗濯の準備をした。

 そんなことをしていると、なぜかまたカイルがベッドから下りてくる。

「どうしたの? 必要なものがあるなら渡すけど」

「なら、炎学応用編の3巻を――」

「寝てろって言ったじゃん!」

 私は思わずツッコミを入れた。どこまで勉強熱心なの!?

 私はカイルのお尻をぐいぐいと押し上げながら、まるで自分が看護師にでもなったかのような気分だった。ベッドに戻してやらなきゃ、彼はまた何か無理をしでかす。頑固で強がりなところが本当に面倒なんだから。

「ほら、ちゃんと寝て!」

 私は強めに言った。ベッドに収まるカイルは、普段の鋭い眼差しがどこか弱々しく見える。それにしても、彼の勉強熱心さはすごい。たとえ風邪を引いても、頭の中はまだ学術書や魔術の理論でいっぱいなのだろう。

「このままだと、カイルはいつ休めるんだろう……?」

 私は心の中でため息をついた。この学園にいる限り、カイルの頭は勉強から離れられないのではないだろうか。

「ねえ、一旦家に戻ったらどう? 体調悪いんだし、こういうときくらい先生だって飛翔の護符を出してくれるでしょ」

 体調を整えるためなら片道分くらい出してくれるよ、きっと。

 しかし、私の提案には返事がない。カイルはただ天井を見つめている。返答を待っていると、彼の顔に一瞬、影が差すのが見えた。やっとのことでカイルが口を開いた。

「……家は、もうねェよ」

 その一言に、私は落ち込む。悪いことを言ってしまった、と気づいたのはその瞬間だった。

「親父は、物心ついたときにはもう出て行ってた。母さんは……俺を守ろうとして、魔物に……」

 カイルの声は抑揚のない、淡々としたものだったが、その内容は深い悲しみを含んでいる。

「そうなんだ……」

 私は彼の話を受け止めながら、言葉を失っていた。魔物に家族を奪われた人は、この時代では珍しくない。けれど、カイルの話を聞いていると、自分自身の過去と重なる部分があることに気付く。私も似たような状況で親を失い、孤独の中で生きてきた。

「母さんは……無茶をしたんだ。女なのに、俺を守ろうとして……でも、本当は俺が母さんを守るべきだったんだ。男だから、男は女を守るもんだから……!」

 カイルの拳がぎゅっと握り締められる。彼がずっと抱えてきた後悔と、自分に対する苛立ちがにじみ出ていた。

「そんな……」

 私は彼の言葉に何か反論したくなったが、どうすれば彼の心に届くのかがわからない。ただひとつ、彼が父親不在の中で『男は強くあり、女を守らなくてはならない』という考えに固執してきたことは理解できた。おそらく、母親が女手ひとつで無理をしながら働いているのを、彼は何度も見てきたのだろう。その度に『無理するな、俺が守る』と言い聞かせていたに違いない。

「だから、俺は強くならなきゃならねェ。母さんを守れなかった俺の責任だ」

 その言葉を聞いた瞬間、私は彼が倒れた理由が理解できた。カイルはその強い責任感に押し潰されそうになっていたのだ。私は、そんな彼にどう声をかけていいのか、しばらく黙って考えていた。そして、意を決して口を開く。

「あのね……男とか女とか、関係ないんだよ。つらいときは、誰かに頼ってもいいんだから」

 それは、孤独に耐えながらも生きてきた私自身がようやく学んだことだった。誰もが強くあるべきではない。ときには、助けを求めてもいい。けれど、カイルは固く首を横に振る。

「でも……俺は男だ……男なんだから、俺が守らなきゃならねェ」

 その言葉に、私はついに我慢ができなくなった。

「もう! そんなことばかり言ってると天使が降りてくるよ?」

 その言葉にカイルはピタリと黙り込んだ。……もしかして、言ってはいけなかったのかもしれない。彼が天使を目の当たりにしたあの日の出来事は、彼にとってトラウマになっているのだろう。後悔の色を浮かべる私の横で、カイルは何も言わずに目を閉じた。少しして、迷いながら。

「……授業で習っただろう? 実力に見合わない魔術には、代償が伴うって」

 カイルの声は弱々しく、まるで独り言のようだった。私はただ頷く。確かに、オール・リセットやテンポラリー・リセットのような強力な魔術は、必ず代償を伴う。それをカイルも理解しているのだ。

「もう二度と、お前にあんな術式は使わせねェ。俺が、お前を一生守ってやる」

 それは、カイルの独り言のような呟きだった。彼はそのまま、再び深い眠りに落ちていく。

 カイルの言葉は、まるで遠くから聞こえる風のような独り言だったのかもしれない。それは私に言ったものなのか、それとも自分に言い聞かせたのか、分からないまま彼は静かに寝入ってしまった。やれやれ、本当にこの人は弱ってまで誰かを守ろうとする筋金入りの男だ。けれど、強くなるにしても、まずはしっかり体を治さなきゃどうしようもないでしょ。

 私は小さく息をついて、自分の布団に視線をやる。カイルも言っていたし、そのままにしておくわけにはいかない。軽く畳んで、両腕でよっこらしょと抱え上げる。そして廊下に出て、洗濯場に向かおうとしたところで――ふと、さっきのカイルの言葉が頭をよぎった。


『――お前を一生守ってやる――』


 私は立ち止まり、呆然とその言葉を反芻する。カイルの真剣な表情が浮かび、心臓がドキリと鳴った。

「……い……一生って……?」

 一生なんて……何を言っているのよ!? カイルが私を一生守るって? そんな大げさな……そもそも、私はルークがいるし! ルークのことをずっと想っているんだから、カイルにそんなことを言われて動揺する理由なんてないはず……。なのに、どうしてこんなに胸がドキドキしてるんだろう……?

 毛布を抱えたまま、その場でしばらく立ち尽くす。心の中では必死に冷静になろうとしているのに、胸の鼓動はカイルの言葉に動揺しているのが悔しい。どうしていいかわからず、私は思わず、持っていた毛布に顔を埋めていた。

 ……カイルの匂いがする……。


        ***


 色々あったけれど――今日もふたり並んで自習中。カイルがふいに話しかけてきた。

「なぁ、この術式なんだけど……治癒系はお前のが得意だろ」

 私は一瞬、驚いて顔を上げた。カイルが術式のことを私に訊くなんて、いままででは考えられないことだったから。けれど、いまの彼の変化を思うと、なんだか自然に受け入れられた。カイルが心を開いてくれているような気がして、ちょっと嬉しかった。

「うん、そのサインは……こうじゃない?」

 ふたりして参考書に目を落としながら、あれこれと意見を交わす。以前はひとりで黙々とやっていたカイルが、いまでは私に相談してくるなんて。彼が少し柔らかくなったのを感じると、私も自然と協力する気になってくる。


 さてあの日、カイルが体調を崩して倒れた翌日、彼は安静にしたおかげで見違えるように元気を取り戻していた。私は心配だったけど、彼の回復力にホッと胸をなでおろした。自分のことをほとんど顧みない彼が、少しだけ素直になってくれた気がする。

 私はその晩、外の宿に泊まった。久しぶりのひとりの時間に、少しだけ複雑な気持ちが浮かんだ。貧乏暮らしをしていた頃には、外泊なんてできようもなかったけれど……ヒントは、テンポラリー・リセットと内職。……いつかは自分の力で完全に生活を立て直したいと思うけど、そのためにもお金は必要なわけで。

 ともあれ、それからカイルは意地を張ることもなく、少しだけ素直で……なんだか可愛らしくなった気がする。以前はひとりで黙々とやっていたのに、いまでは私と一緒に参考書を広げて、分からないところを訊いてくる。

「いや、ここじゃなくて……こっちの記号が重要じゃないか?」

「え、でもこっちの符号の方が……」

 ふたりで参考書のページをあれこれ指差しながら、真剣に議論を交わしていた。すると、ふいに私の指がカイルの手に触れてしまった。瞬間、心臓が跳ねる。

「……すまん」

「……こっちこそ、ごめん」

 カイルが軽く謝り、私は慌てて応じた。

 どうしてこんなにドキドキしてるの? ただの手が触れただけじゃない。なのに、心臓が痛いくらいに早くなっている。自分でも意味が分からない。カイルが変わったから、その影響が私にも感染してしまったのだろうか?

 あの日から、何かが変わった。もちろん、私はその後ちゃんとシーツを洗ったし、カイルにはもうロビーで寝るなと約束させた。けど……なんでカイルがあんな無茶をしたのか、その理由がちょっと分かった気がする。それまでの私は普通に眠れていたはずなのに……最近はカイルが上のベッドで寝返りを打つたびに、どうしようもなく心臓が跳ねる。彼がいま、私のすぐ上で寝ているんだと思うと、気持ちが落ち着かなくなる。どうして? 以前はこんなことを気にもしなかったのに。

 でも……かといって、「別の部屋にしてほしい」なんて言えない。言いたくない。こうして一緒に勉強していると、集中できるし、何よりカイルと話すのが楽しい。彼と一緒にいる時間が、私にとって大切になってきているのかもしれない。

「ところで、魔薬学なんだけど……」

 カイルがふいに話を振ってきた。ああ、やっぱり私もその科目には引っかかっていた。魔薬学はどうも苦手で、いままで何度も試行錯誤してきたけれど、成果は散々だった。

「あ、私も引っかかってるところがあって……」

 魔薬学は単に知識だけではなく、感覚と技術の融合が必要だ。複数の属性を混ぜ合わせるとき、そのバランスが絶妙で、わずかな違いが大失敗を引き起こす。私たちにとって、その調整を見極めるのが本当に難しい。毎回慎重に確認しているつもりでも、掛け合わせを間違えてしまうのだ。

「明日、第二実験室が空くらしいんだが」

 カイルの言葉に一瞬期待が膨らむ。実験室が使えるなんて好条件だ。でも……そのときは既に予約で埋まっているかもしれない。

「使わせてもらえないかなぁ……」

 ため息混じりにそうつぶやくと、カイルはにやりと自慢げな笑みを浮かべて、私の期待を軽く超える答えを返してきた。

「そう言うと思って、三の刻半に予約入れておいたぞ」

「わっ、ありがとう!」

 思わず感謝の言葉が口をついて出た。こういうとき、カイルって本当に頼りになる。心の中でちょっと嬉しい気持ちが広がる。でもその嬉しさは、カイルの予想外の反応でさらに増した。彼は少し照れた様子で、いつもの不器用なカイルに戻ってしまった。

「べっ、別に……俺が使うついでだよ……」

 その頬を赤らめた姿がまたなんとも可愛らしい。照れて素直に受け取れないその態度、まるで弟みたいだな、と心の中で微笑んだ。カイルがこうして照れると、私は自然と優しくなってしまう。

 可愛い――その言葉が頭の中をぐるぐる回る。彼の不器用なところ、照れくさそうに素直じゃないところ、全部が愛おしい。でも、これは兄弟愛のようなものだ。多分、私にとってカイルは弟みたいな存在なのだろう。きっと、そういう感情だ。だって、私はルークがいるんだから。

 ルーク。彼の名前を思い浮かべると、胸に少しだけ重たさがよぎる。最近、ルークのことを思い出すたびに、何かが引っかかる。もちろん、ルークは私にとって大切な人。でも……カイルと過ごすこの時間も特別に感じるのはどうしてだろう?

「ありがとね、本当に助かったよ」

 もう一度カイルにお礼を言いながら、私は心の中でその感情を整理しようとした。けれど、カイルの素直じゃない反応に……私は一先ず、その疑問を一旦忘れることにした。彼と一緒に勉強をするこの時間が楽しい――それだけでいまは十分ってことで。

 カイルに浮気するなんてことは絶対にない。そう、私はルークを思い続ける。カイルは弟みたいな存在なんだ……と思い込もうとしている自分に、ふと気づいてしまった。でも、いまはそれでいい。


 その翌日、私は朝から緊張していた。カイルが少し遅れると聞いていたから、実験室でひとり、静かに準備を進めていたものの……私は苦手な魔薬学を克服するため、こっそりとある術式に挑戦していたのだ。

「我はすべてを見透かす者、混沌の霧を払い真実を顕せ……!」

 そう唱えながら、両手をこめかみに当てて集中した。この術式は、物の性質を識別するためのもので、薬品の混ぜ合わせを失敗しないために役立つ。この『識別の術式』はこれまで食べ物探しで活用してきたけど、これを応用すれば薬品の特性も見抜けるはずだ。

 カイルの前で失敗したくない。苦手な分野でも、術式でカバーできれば自信もつく。そんな思いで始めたのだけど――。

「よし、これで完璧!」

 そう思って手元に視線を落としたとき、急な違和感に私は動きを止めた。

「……ん?」

 何かが変だった。袖が……ない? いや、触れているはずの制服が、まるで消えたかのように見えない。しかも、胸のあたりも……いや、待って、待って、待って!

「また全裸!?」

 私は一瞬、心臓が止まりそうになった。テンポラリー・リセットなんて使っていないのにどうしてこんなことに!? すぐに冷静になって自分の体を確認した。手で袖や裾、そして胸元のリボンに触れる。服は確かに着ている。視覚が混乱しているだけで、実際には制服はちゃんと着ているのだ。

「これ、全裸じゃない……よね。透けて見えてるだけ?」

 どうやら、識別の術式が間違って透視の術式になってしまったらしい。まさかこんなことになるなんて! 慌てて解除しようとするが、解除の術式なんて覚えていない。どうしよう、いまカイルが来たら……!

 そんな不安が胸をよぎった瞬間、ゴンゴン!と扉をノックする音が響いた。容赦のない、強烈なノック。つま先で蹴っているかのような勢いだ。

「すまん! 両手が塞がってんだ。開けてくれ!」

 カイルの声が聞こえた瞬間、私はさらにパニックに陥った。

「どうしよう!どうしよう!」

 頭の中で混乱が渦巻く。歩きながら袖や裾に触れ続け、ちゃんと服を着ていることを再確認する。大丈夫、見えていないだけで、私は服を着ている……はず。心を落ち着けて、扉に手をかける。

「ぶっ!?」

 私は思わず吹き出す。

 カイルが大きな箱を胸元に抱えていてくれたことが不幸中の幸いか。おかげで、お腹から下あたりはかろうじて見えない。けれど――袖も、足も制服が見えないんだよねー……。いや、現実にはズボンを穿いてるんだろうけど。穿いてるんだよね?

「な? すごい量だろ。オバチャンのヤツ、俺たちに入荷品の整理まで……って、どうした?」

 私が吹いたのは薬の量に驚いたから……だと思ってくれている。よし、いまなら誤魔化せそうだ。

「なっ、何でもないから! とにかく、早く始めましょっ!」

 私はとっさに背を向け、カイルが視界に入らないようにして、なんとか気持ちを落ち着けようとする。服はちゃんと着ているんだから、私が動揺しなければ大丈夫なはず。必死に冷静さを取り戻しながら、机に着いて目を閉じた。大丈夫……私は大丈夫……これくらいで動揺しない。私の心臓は強い。よし、これで実験に集中できる……!

「じゃあ始めるか」とカイルの声。

「ぶっ!」やっぱり無理だ――!

 カイルが……全裸で……! 本当に、どうしたらいいんだろう。やっぱり男の子だけあって、肩幅が広くて、腕や胸の筋肉もしっかりしていて、つい目がそっちに行ってしまう。でも、そんなわけにはいかない。とにかく、実験に集中しなきゃ……なのに、立って作業するこの状況、油断するとどうしてもカイルの全身が視界に入りかねない。

「ちょ……ちょっと、反対側に回ってもいいかなー……?」

 机越しに隠してもらえれば、少なくとも腰から下は見えないはずだし、もう少し冷静に作業できるかもしれない。そう思って、私は少しずつ身を引こうとしたけれど。

「それって、別々に実験するってことか?」

 カイルが少しさびしそうに言い返してくる。その言葉にハッとする。そうだよね、別々に作業したら共同作業にならないじゃない! 私は隣でカイルと一緒に薬品を混ぜながら、手順を確認しなきゃいけないのに。

「だよねー! それじゃ意味ないよねー!」

 心の中でパニック状態だ。隣り合って作業するんじゃ、もう視界を塞ぐ方法もないし、私の理性も崩壊寸前……!

 カイルが淡々と作業を続けているのに対し、私はもう完全に落ち着きを失っている。自分では何とか冷静を装っているつもりだけど、ことあるごとに全身の力が抜けていく。

「えーっと……次、何をやるんだっけ……?」

 口を開くと、声がうわずっていた。カイルはちらりと私を見るけど、気にせず薬品の準備を進めている。

「お前、何か様子がおかしくないか?」

 カイルが不審そうに尋ねる。

「そ、そんなことない! 全然平気だし!」

 必死に強がるけれど、自分でも分かる。いまにも視界に入ってしまいそうなカイルの姿を思い浮かべるだけで、頭がぐるぐるしている。どうしてこんなことになったんだろう。

「じゃあ、この薬品を混ぜるんだが……」

 カイルが私に手順を説明する声が耳に響くけど、内容は全然頭に入ってこない。

 本当にどうしようもなくて、私は机上の手元だけに集中して作業を続ける。でも、隣で全裸のカイルが動いていることを意識するたびに、心臓がバクバクして、冷や汗が出てくる。

「もう……無理……」

 私は心の中でつぶやきながら、それでも何とか作業を続けようと必死になる。でも、いつ崩壊するかわからない精神を支えながらの作業は、ただただ苦痛だ。

 とにかく、集中……! 自分に言い聞かせて、カイルを見ないように必死に手元に目を固定するけど、限界はもう目の前。

「どうしてこうなっちゃったんだろう……!」

 どうしても、隣にいるカイルの存在が気になってしまう。視線を机より下に落とさないように必死でこらえるけれど、その分、彼の胸の厚みや筋肉の感触がどうしても目に入る。カイルは何も気にしていないようだけど、私は違う。全裸の私と、その隣には全裸のカイル。裸の男女が隣り合って実験をしているというこの状況に、私の頭はいまにも沸騰しそうだ。

「落ち着いて……落ち着いて……」

 心の中で何度も自分に言い聞かせながら、とにかく薬品に集中することにした。薬品だけを見て、他には目を向けない。それだけだ。幸い、識別の術式のおかげでどれがどの薬品かはすぐにわかるから、作業自体はスムーズに進む。

「何かお前、調子いいのか悪いのかわかんねーな」

 カイルが呆れたように、けれど少し感心したように声をかけてくる。こっちは必死なの! 手元以外に焦点を合わせたら、カイルの裸が視界に入ってしまいそうだから、とにかく集中してるだけ。

 前回の授業で失敗したのは、炎の粉と風の晶石の合成。分量の調整が少しでも狂うと、爆発する危険性があるものだ。でも、今日の私は違う。炎の粉を30……風の晶石を10……分量まで完璧。絶対に成功させてみせる!

「集中……集中……」

 私は念じながら、火にかけた陶器の中で慎重に薬品を混ぜ合わせる。この作業に集中すれば、カイルのことなんて気にならない。そう自分に言い聞かせて、手元だけを見つめる。

 だけど、そんなときに――

「おい! やべぇぞ!」

 突然、カイルが私の前に割り込み、肩をぎゅっと抱きしめた。驚いて何が起きたのかわからないまま――次の瞬間、カイルの背中越しに「ポンッ!」と煙が吹き出した。

「お前……火力が強すぎるだろ。下手したら爆発してたぞ」

 カイルが真剣な表情で私を叱る。分量ばっかりに気を取られて、火力の調整を忘れていたみたい……。

 でも、そんなことよりも――カイルが肩を抱いてくるその感触に、私はもう限界。制服を着ているカイルにとっては何でもないことだろうけど――息がかかるくらいの距離で見つめ合い、私は裸のまま、裸の男の子に抱かれているわけで……。私の胸が……カイルの胸に……正確には服2枚くらいの隙間は空いてるんだろうけど、私には密着しているようにしか見えなくて――

「無理……無理……!」

 頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなり、私は力が抜けて床にペタンと尻餅を搗いた。すると最悪なことに、いままで絶対に目に入れないよう一番気をつけていたところが、座った私の目の前に――

 もう――ホントに無理! 全身から力が抜けて、私はその場でぐにゃりと崩れ落ちた。

「お、おい! 大丈夫か!?」

 カイルの心配そうな声が聞こえたけれど、私はそれどころじゃなかった。なりふり構わず床に突っ伏す。顔を伏せ、目をぎゅっと閉じて、何も見ないようにする。もう見たくない。見えていないはずなのに、さっき目にしたものが頭から離れない。何度も何度も思い返してしまう。暗闇の中で、カイルの全身が隅々まで思い出されて――恥ずかしすぎて、もう顔も上げられない。

「ご、ごめん……片付けは私がしとくから、カイルは先に帰ってて」

 どうにか声を振り絞って言うけれど、心臓はバクバク。まともにカイルの顔を見られない。

「けど俺、オバチャンから薬品の仕分け頼まれてて……」

「それも私がやっとく。ごめん、ホントごめん。今回だけは本当に私が悪かった。一生のお願いだから、先に戻ってて」

「一生のお願いをこんなところで使うのかよ……」

 カイルは呆れたように言ったが、その声からは事情の深刻さが伝わったのか、しばらくすると「わかったよ」と言って扉の方へ向かう音が聞こえた。ガラガラと扉が閉まる音がして、ようやくカイルが出て行ったことを確認できた。

 それで、私はようやく顔を上げる。見回すと、実験室には私ひとり。

「はーーーーー……」

深く息を吐き出す。大きく深呼吸をして、何とか落ち着こうとする。でも……まだ私の服は透けて見えたまま。鏡に映る自分の姿を確認すると、服が消えているようにしか見えないけれど、触るとちゃんとそこにある。制服は着てる。ただ見えないだけ――だけど、さっきのことを思い出すたびに、心臓が高鳴る。

 深呼吸、深呼吸……落ち着いて……。そう自分に言い聞かせながら、もう一度息を整える。でも、落ち着いたと思った矢先、カイルの太い腕と厚い胸板に抱きしめられた感触が蘇る。あの硬い筋肉に包まれた感覚が、どうしても頭から離れない。そして、その抱擁を受け入れてしまった自分が、ルークを裏切っているように感じてしまう。

「あああああ……!」

 私は両手で顔を覆いながら声を上げた。私にはルークがいるのに! カイルに抱きしめられて、こんな風にドキドキしてるなんて……ありえない! あっちゃいけない!

 けど、けど、けど……心臓の鼓動は収まらない。顔を真っ赤にしながら、パンパンと頬を強く叩いて自分に喝を入れる。

「集中……集中しなきゃ!」

 気を取り直し、片付けに取り掛かることにした。器具を丁寧に洗い、薬品を整理しながら、頭の中から余計なことを追い出す。いまは余計なことを一切考えずに、作業に集中するんだ。そうすれば、この感情も鎮まる……はず。

 それでも、作業を終えて実験室を出る頃には、頬がずきずきと痛んでいた。……腫れてないよね? 軽く触れてみるけれど、心配になるくらい痛い。そんな自分の姿がなんだか情けなくて、またため息をついた。


 今日一日があまりに濃密すぎて、どうしても気持ちの整理がつかない。透視の魔力が未だに消えないまま、私は寮の廊下を歩いていた。どうやら失敗術式の効果は不安定なようで、変に透けたり透けなかったりする。実験を始める前には見えていたはずの扉が帰りには見えなくなっていて、思いっきり衝突してしまった。ドアノブの位置もわからないから手探りで見つけて何とか脱出に成功したけど。……はぁ、いつまで続くんだろう、この状況。

 周りにいる人たちも全員全裸に見えるうえ、いまは扉さえ透けてしまっているのが本当に困る。……ここ、私たち以外は個室のはずだよね……? 男の子同士とかならともかく、男女でふたりきりって部屋もチラホラ見かけるんだけど……。うわっ!? あ、あー……あー……いまのは見なかったことにしよう。掛け布団が透けてなくて本当に助かった。

 ……わっ! あの人……あれ? ちょっとカッコイイ男子だと思ってたけど……まさか女子!? 胸が不自然に潰れてるから、包帯とかで強くぐるぐる巻きにして正体隠してるとか!? やばい、なんか別の物語が始まっちゃいそう。

 ジロジロ覗き見するのは悪いので、なるべく見ないようにはしつつ――ようやく私は自室に到着。カイルが留守なら助かるなー……とは思ったけど、あの人、勉強の虫だものねぇ。案の定部屋に戻っていた。けど……普段なら机に向かっている彼の様子がいつもと違う。ベッドのカーテンの方をじーっと見つめ、そして、ゆっくり手を伸ばして……え? カイル、まさか……? 手を伸ばしてカーテンに触れるかどうかのところで、急に手を引っ込めた。あ、よかった。ちょっとホッとする。だって、私がいない間に何かするのはダメでしょ? うん、よく思いとどまったね、カイル。

 しかし、安心したのも束の間、カイルは再びカーテンに手を伸ばそうとする。いや、いや、それはやめといて! 紳士的じゃないよ! と、心の中で叫びながら、私は見守る。すると、彼は再び、手を引っ込めた。どうやら本気で迷っている様子。カイルの行動に目が離せなくなる。彼が何かしようとしているのか、それとも……?

 手を出し……やめる。手を出そうとして……やめる。それを何度か繰り返した後……結局、カイルは何もせず背を向けた。それでいいんだよ、そうそう、と胸を撫で下ろしながら、私はふとカイルの後ろ姿が気になった。広くて締まった背中、そして……あれ? あんな大きなアザがあるんだ? 魔物に襲われた、というより、何か彫られたような綺麗な模様だったけど……

 そんなことを考えていたら、机に座ったカイルが再び動いた。勉強を始めるのかと思ったら胸元から何かを取り出している。何だろう……。透視のせいで、中身は透けて見えないけれど、それを大事そうに顔に近づける姿が印象的だった。

 ――すると、目の前にふわりと扉が現れた。透視の力がようやく消えたのだ。改めて、自分の身体を確認すると、ああ、制服がちゃんと見えるようになっている。感触はずっとあったけど、見えるって安心する。ほっと一息。これで、ようやく元通りだ。

 カイルには今回、迷惑をかけちゃったな。ちゃんと謝っておかないと。そう思いながら、私はノックする。中から「はい」という返事が聞こえたので、それを合図にして、私は部屋の中へと入った。

 カイルはいつものように机に向かっていたけれど、ふとこちらを見上げて言った。

「もう大丈夫なのか?」

「うん、薬剤に当てられちゃってただけだから……」

 そう言いながら、私は何気なく彼を見た。けれど、なんだか違和感がある。カイルの制服の胸元にあるはずの学園の紋章が、何か別のものに変わっている気がする……?

 あれ? まさか……あれって、私の……写真? ああ、こないだ北の山への入山証を発行するための……

 それで気付いた。制服のそこは胸ポケットがあったところ。つまりあの写真はそこに差し込まれたものだったんだ。私の写真を……胸ポケットに……。

 私は、自分の胸に手を当てる。そういうのがあったら、私も元気出そうな気がする。

「ねぇ、カイル。私も、カイルの写真が欲しいな」

 先生に言ったら、入山証のカイルの写真、もらえるのかな? そんなつもりで聞いたんだけど――

「はぁ!? ()って何だよ、()って!」

 その一言を聞いた瞬間、カイルは驚いたように顔を赤らめ声を上げた。彼の声はいつになく動揺している。その反応がなんだか可愛らしくて、私は思わず笑いそうになる。でも、次の瞬間に気づいた。しまった! 私、透視のことは秘密にしとかなきゃなのに。裸が見えなくなったことで、つい気が緩んでしまったようだ。

 私の視線から守るように、カイルは慌てて胸ポケットのあたりを手で隠した。だけど、私はもう見ちゃったし、しかも自分の写真を持っているのを知ってしまっている。

 ま、まぁ……透視じゃなくても、何かのキッカケで知ってた、って言い訳はできるし……そこまで恥ずかしがることでもないし……

「ま、まぁ……今度な」

 カイルは少し照れながら顔を背けた。その様子に、私も少し照れくさくなって小さく「うん」とだけ答えた。

 部屋に漂う熱っぽい空気を感じながら、私は自分の席に戻って座った。カイルの姿をチラッと見たけど、もう彼の胸の中は見えない。


 カイルとの生活も慣れてきた。最初は寝返りを打つたびに、その音が気になって全然眠れなかったけど、いまではもうそんなことはない。夜中にカイルの動く気配がしても、少しドキッとする程度だ。それでも、カーテン越しにカイルが歩いていると、どうしても動悸が激しくなる。何か悪いことをしているわけでもないのに、なんでこんなにドキドキするんだろう。

 カイルの仕草も、少しずつ気になるようになってきた。特に、何かに真剣に取り組んでいるときの眼差し。普段のやんちゃで生意気な態度が影を潜め、その真剣さに思わず見惚れてしまう。自分でもわかってる。これ、よくない感じだ。だって、私にはルークがいるんだから。

 カイルに惹かれていると自覚したときには、すぐにルークのことを思い出すようにしている。ルークは強くて優しくて、ずっと私を守ってくれてきた。カイルなんかに浮ついたりしちゃダメ。絶対に、ダメ!

 それでも、時々カイルの存在が頭の中をよぎる。カイル、ルーク、カイル、ルーク……ふたりの顔が、頭の中でぐるぐると回って離れない。何これ、まるで男のことばっかり考えてるみたい。ダメすぎる。もっとしっかりしなきゃ。

 街に出たときも、ルークのことが頭を占めているからか、ついつい周りの人がルークに見えてしまう。金髪の男性を見かけて、『あ、ルークっぽい』と思ったり、ヒゲを剃り忘れた誰かを見て『剃る前のルークみたいだな』と感じたり。ルークがいつも頭の中にいるから、似たような人を見かけるたびに目が行ってしまう。

 そんなときだった。いつものように街を歩いていて、また『ルークに似てる人』を見つけた。金髪で、鎧を着ていて、ヒゲもきちんと剃っている。まるで完璧なルークみたい。いや、きっとこの人もルークじゃないだろう。そう思って、何気なくすれ違おうとしたその瞬間――

「ライラ……キミは、ライラなのか?」

 その声が耳に届いた瞬間、私は足を止めた。鼓動が急に速くなって、まるで世界が止まったようだ。恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは――紛れもなく、ルークだった。

「え……ルーク……?」

 信じられない。まさかこんなところで再会するなんて。本物のルークが目の前にいる――まるで夢みたいだ。頭の中がぐるぐると混乱する中、ルークの優しい声がさらに私を包み込む。

「ずっと会いたかった……! キミのことを忘れた日などひとつもない」

 その言葉に、私は耐えきれず、思わず彼に抱きついてしまった。涙が溢れそうになるのを我慢して、ぎゅっと彼の背中に腕を回す。ルークも力強く私を抱きしめてくれる。そのぬくもりが、まさに本物で――ああ、本当に夢じゃないんだ。

「私も……! ルーク!」言葉が詰まってしまうほど、私は嬉しくてたまらなかった。

 ルークの顔を見上げて、いますぐ愛を交わしあいたい衝動に駆られるけれど、周りには人がたくさんいる。いまは街の真ん中だから、これ以上目立つ行動は控えなければ……。

「ライラ、いま少し時間はあるかい?」

 その一言で、私の心は決まった。

「……うん」

 やっと再会できたんだから、立ち話で終わるなんて嫌だ。もっとルークと一緒にいたい。ふたりで静かな場所に行きたい。


 私たちは、宿屋の一室に移動し、ようやくほっと一息つける空間を手に入れた。長い間感じていた緊張が解けて、ようやく心から安らげる。

 ルークの顔をじっと見つめながら、ずっと聞きたかったことを口にするタイミングが来たと思った。

「ねぇ、ルーク。ずっと聞きたいことがあったんだけど」

 ルークは優しく微笑んで答える。

「うん、何だい?」

 私は少し躊躇しながらも、意を決して訊く。こんないいムードだけど、訊かなくてはならない。


「ナンパの勝率、そんなに悪いの?」


 ルークはゲホゲホと少しむせ、そして気まずそうに視線を逸らしてから、真面目な顔で言った。

「もちろん、キミと出会ってから僕の女性はキミだけだ」

 ……まあ、そう言うでしょうね。予想通りの返答だけど、私は信じたい気持ちと半信半疑の気持ちが混じり合って、軽くため息をついた。

 ただ、ルークの表情が少し遠くを見つめるように変わる。「むしろ……キミがこうして僕を愛してくれていることが不思議だよ」

「なっ……!」

 私は思わず赤くなってしまった。愛してるとか、そんな真顔で言うなってば!

「確かに、まあ……僕のナンパがうまくいかないのは有名な話だったからな。キミが知るのも無理はない」

 そこ、否定しないんだ。私は呆れてしまったけど、ルークは真剣な顔で話し始めた。

「僕の両親はね、それはもうロマンチックな恋愛の末に結ばれたんだ。周囲の反対を押し切って」

「ふーん」

 身分違いの恋だったのかな? 私は少し興味が湧いたけれど、ルークはそのまま話を続ける。

「僕もそんな両親に憧れて……だから、運命の人を探しているんだよ」

 そういえば、真実の愛を探すために勇者をやっているとか言ってたっけ。彼の理想は崇高だけど、私は彼がどうやってそれを実現しようとしていたのか気になっていた。

「それで僕は、運命を感じた女性に声をかけ続けていたわけだけど」

「へぇ? なんて?」

 ルークはニヤリと笑みを浮かべた。

「そこの仔猫ちゃん、オレとホットでワイルドな夜を過ごさないかい?」

「ぶはっ!」

 私は噴き出してしまった。ちょ、ちょっと待って! 面白すぎる……。

 で。

「……それ、本気で言ってたの?」

 私は笑いを堪えながら、真顔で尋ねた。

「そ、そんなにダメかな……?」と、ルークは少し傷ついたような顔をしている。え、本気だったの? 私の中で笑いがこらえきれない。

「勝率は?」

 私は興味本位で尋ねてみた。私の隠しきれない笑みを見透かしてか、ルークは厚い胸を張る。

「それでも、何人かは付き合ってくれたんだぞ?」

 それ、勇者っていうステータスに興味を持っただけじゃない? と内心思ったけど、口には出さない。

「けど、長続きしなかったでしょ?」

「……ああ……みんな、食事をご馳走してあげたらさようなら、って……」

 ため息が漏れてしまった。何というか、この男、本気でダメだ。私が好きになった理由がわからなくなってきた。けれど、彼の素直さと不器用さに、つい微笑んでしまう。

 ルークも少し自覚しているようで、寂しげな笑みを浮かべた。

「だから……キミとの旅は緊張したよ」

「当たり前でしょ、魔王討伐なんだから」

「それだけじゃなく……キミにも嫌われたらどうしよう、とずっと不安で」

 その言葉に、私の心がちょっと揺れた。ルークがこんなに不安がっていたなんて、知らなかった。

「だから……少し休んでる最中に、突然キスされたとき……本当に驚いたな」

 え!? ちょ、ちょっと待って……!?

「も、もしかして……知ってたの?」

 私の声は少し震えていた。ルークに問い詰めるように視線を向けると、彼は眉を下げ、困ったように笑みを浮かべている。

「それは……まあ、勇者だし」

 意味がわからない! 勇者だからって何よ? そんな余裕のある感じが、逆に私の中でイライラを募らせる。

「だったら、なんで……なんで気づいてたのなら……!」

 私の声は感情に突き動かされて、次第に大きくなる。彼がもし、私の気持ちに最初から気づいていたなら……どうして、もっと早く何かアクションを取らなかったのか? もっと、何か言ってくれてもよかったじゃない。私をこんなに不安にさせたのに。そのクセ、別れ際には、あ、あ、あんなことを……。そ、そんなんだからモテないのよ!! と私は心の中で叫ぶ。

「ご、ごめん……あのときは何かの間違いかと……。まさか僕みたいな男を好きになる女性がいるなんて思わなかったし……」

 ルークの声は戸惑いに満ちている。彼の表情を見ると、いままで見たことのないほどか弱く見えた。勇者として堂々とした彼の姿はどこへやら、いま目の前にいるのは、ただの不器用で優しさのかけらを持った男の子。結局、彼は勇者として強く見られるために、変なキャラクターを自分にかぶせてきたんだろう。けれど、いまの彼の素直さが垣間見えた瞬間、私の心が少し緩んだ。むしろ、私はこういう素のルークの方がずっと好きだな、と思う。

 少し息を整えながら、私はそっと問いかけた。

「それで……私に会いに来てくれたの?」

 ルークはその問いかけに少し驚いたように目を見開き、しかしすぐに優しく微笑む。「もちろんさ! オレのことを唯一愛してくれる女性なのだからね」

 彼は少しキザな調子でウィンクをしてみせる。それはどこか、昔の軽いルークを思い出させるけど、同時にどこか真剣さが垣間見えた。

 なので。

「本当のこと言わないと……勇者辞めさせちゃうよ?」

 私は、えい! とルークに飛びついた。もちろん、冗談のつもりではある。だけど、内心、本気で考えている自分もいた。ルークがまた遠くへ行ってしまうのが怖かった。ずっと私のそばにいてくれたら……そんな淡い期待を込めた言葉だった。

 ルークは私の目をじっと見つめ、少し困ったような表情を浮かべていた。彼の瞳には優しさが宿っているけど、同時に何かを決断しなければならない重圧もある。もし私が本気で頼めば、彼は本当に勇者を辞めてしまうかもしれない――その可能性が怖かった。だから、私はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。彼に勇者を辞めさせるような重い責任を負わせたくなかったから。

 ルークもそれを汲み取ってくれたのか、ゆっくりとため息をついてから、観念したように話し始めた。

「最近、この国の王宮がマズイ状況のようでな」

「え……本当に……?」

私は目を見開く。王宮の混乱については、大衆紙でも噂されていたけれど、それが単なるデマや過剰報道ではないと聞いて、胸の奥がざわついた。

「王宮が乱れると、当然治世も乱れる。そして、そんなときこそ人々は勇者の力を必要とするんだ」

 ルークの声は真剣で、重々しい響きがあった。彼が持つ勇者としての責任が、いままさに私の前でリアルに感じられる。彼が戦い続けなければならない理由、それが彼の宿命であり、私にはどうすることもできないものだということが、ひしひしと伝わってくる。

 けれど。

「と、ということは……?」

 私は無意識のうちに問いかけていた。ルークが何を言いたいのかはわかっていたけど、はっきりと確認せずにはいられなかった。ルークは、私が望んでいた言葉をようやく口にする。

「ああ、しばらくはこの街に滞在するよ」

 その瞬間、私の胸は歓喜でいっぱいになった。目の前がぱっと明るくなり、まるで世界が輝きだしたかのような気持ちになった。私の心臓はドキドキと早鐘を打ち、頭の中が真っ白になる。

「ルーク……!」

 気づけば、私は勢いよく彼に飛びついていた。あまりにも嬉しくて、理性も何もかも吹き飛んでいた。気持ちのまま、私は強引にルークの唇を奪った。彼の唇は思ったよりも柔らかくて温かい。ずっと、夢にまで見てきた感触が、いまここにある。

 ルークは驚いたように目を見開いたが、やがてその目をゆっくりと閉じて、私のキスを受け入れた。彼の腕がそっと私の背中に回され、私たちはしばらくそのままの状態で動かずにいた。

 胸の中に溢れる喜びが止まらない。これから毎日、ルークと一緒に過ごせる――その考えが頭の中を駆け巡り、私の心を温かく包み込んだ。

唇を離した瞬間、ルークの顔がほんのりと赤くなっているのに気づいて、私は思わず笑ってしまった。私たちは、しばらく見つめ合ったまま、何も言葉を交わさずにいた。でも、言葉がいらないほど、私たちの気持ちは通じ合っていた。

「しばらく、ここにいてくれるんだね……」

「もちろんさ。キミのそばに、ね」

 ルークは笑顔を浮かべて、私の頬にそっと手を添えた。その優しい仕草に、胸がキュンと締め付けられる。

 これからどんな困難が待ち受けていようと、私はルークと一緒に乗り越えていける――そんな確信が、いまの私にはあった。


 私は暇さえあればルークが滞在している宿屋に通っていた。王宮の問題はいつ解決するかわからない。だから、その日その日を大切にするために。

 けれど一方で、心の中で渦巻く罪悪感に押しつぶされそうでもだった。カイルとの生活に慣れてきたことが、逆に重くのしかかってくる。このままでいいのか、という思いが頭を離れない。

「どうした? ライラ。ここんとこ元気ないみたいだけど」

 カイルが、私の顔を覗き込んで心配そうに聞いてくる。以前の冷たい態度だったら、こんな風に気遣われることはなかったはず。それがいまでは……彼の優しさが、私にさらなる罪悪感を抱かせる。

「う、うん……大丈夫」

 本当は全然大丈夫じゃない。心の中で、ルークのことを隠し続けることがどれほど重いことか、考えれば考えるほど苦しくなってくる。カイルは優しいし、一緒にいるのも居心地が良い。だからこそ、この関係を壊したくない――それが私の本音。でも、もしこの事実を打ち明けたら、カイルはどんな顔をするだろう? 『カイル、私には恋人がいるんだよ』……そう言ったとき、彼の顔が浮かんで、どうしても言い出せなかった。


 そんなことを考えながら、夜も浅い眠りについていた。すると、カチャリと扉が開く音がして目が覚めた。カイルが夜の修練から帰ってきたんだろう。けれど、彼がすぐ近くにいることを感じると、途端に胸の動悸が激しくなる。布一枚隔てただけで、彼がこんなに近くにいる――。

 けれど突然、カーテンがバッと開き、何かが私の上に飛びかかってきた。重くて、温かい肌の感触。そして――私のパジャマが、やすやすと引き裂かれる。

「きゃ――んん……ッ!」

 声を上げようとした瞬間、唇を塞がれてしまった。相手の正体がわかったのはその瞬間だった。

「知ってるんだぞ……!」

 唇を離し、カイルが苦しそうに呻く。「お前が……毎日ルークと会ってるって……!」

 私は驚いた。カイルが私とルークのことに気づいていたなんて――。でも、これはカイルじゃない! 私の知っているカイルは、こんなことをする人じゃない。

「俺だって……お前のこと……!」

 その言葉の先を聞くのが怖かった。でも、カイルの目を見ると、その瞳には苦しみが映っていた。

「お前のこと……愛してるのに……! ルークなんかに負けないくらい、愛してるのに……!」

 再び唇を塞がれ、私は涙が止まらなかった。カイルの腕は震えていて、必死に私を抱きしめている。彼の痛みと苦しみが、私の胸を震わせる。ごめんね、カイル。こんなにあなたを悲しませてしまって……。

 でも、その瞬間、ふっと目が覚めたように、私は現実に引き戻された。すると――カイルが目を見開いて飛び退いていた。

「ち、ちが……違うんだ! 俺……俺……!」

 彼は動揺し、言葉を失っていた。さっきまでのカイルとは別人のようだ。

「お前がうなされてるみたいで、何故か俺に謝ってたんだ。それで、心配して覗いてみたら……いきなりお前が起き上がってきて……」

 私は、ようやく自分の意識がはっきりしてきた。破かれたはずのパジャマは無傷だし、カイルもちゃんと服を着ている。もしかして……いまの、夢だったの……?

「と、とにかく……ごめん! こ、こんなつもりじゃ……!」

「私こそ、ごめん……」

「おっ、俺! 朝食持ってくるから……だから……」

「うん、ありがとう……」

 カイルは、まるで逃げるように部屋を出て行った。そして私は、静かに呟く。

「ごめんね……カイル……」

 あんなこと、カイルがするはずない。さっきの彼の狼狽えた様子を見ても、それは明らかだ。なのに、私はあんな夢を見てしまった……。それも……カイルの涙を見たとき、私は――。

 カイルはその後、ちゃんと朝食を持ってきてくれた。けれど、私たちはお互いに言葉を交わすことができなかった。

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