祈り
ねえ、ザイン。
あなたがわたしのことを名前で呼ぶようになった日のことを覚えている?
クロエ様、と。
そう呼ぶようになった日のことを。
わたしはよく覚えているわ。
名前を呼んでもらえて、それこそ最初のうちは嬉しかった。
ずっと呼んで欲しかったから。
わたしを一人の人間として向き合ってくれているような気がして、とても嬉しかったの。
けれどそれがわたしの勘違いであることに気付くまでに、そう時間はかからなかった。
あなたがわたしを名前で呼ぶことが、二人の間に明確な線を引くことと同じであることを。
あなたは王宮騎士となり、わたしは他の人の妻となった。
あなたはその剣と命を聖王ただ一人に捧げ、わたしは操とこれからの人生を夫となる男に捧げた。
わたしたちの歩む道が二度と交わらない証拠に、あなたは私を名前で呼ぶようになったのね。
ねえ、ザイン。
わたしの声が聞こえる?
わたしがあなたの名前を呼ぶのが聞こえる?
わたしたちが再び出会ってから、あの頃に比べると短い間だったかもしれないけれど、寂しいと感じる気持ちは確かにあったけれど、それでもわたしはあなたの後姿を見つめることができて嬉しかったわ。
あなたはわたしを振り向きもしないで、大義と自分の意志の為、前を向き続けていたけれど、いつの間にか広くなったあなたの背中を眺めているのが好きだった。
たとえあなたがわたしを見て、名前で呼んだとしても。
あなたが前を向いて、自分の信じる道を突き進んでくれれば、それでよかったの。
あなたの思う道をしっかりと歩んでくれれば。
お願いよ、ザイン。
わたしの声が聞こえるなら、一瞬でもいい、声を聞かせて。
もうわたしの声を聞きたくなければ、拒絶でもいいから声を聞かせて。
わたしたちの間にあるこの一枚の扉がもどかしくてたまらないわ。
あなたに二度と会えなくなるのは分かっている。
あなたは逝ってしまうのね。
わたしがあの日あなたを残して行ったのと同じように、今度はわたしを残して逝ってしまう。
それを恨むわけではないの。
ただ最後にわたしの我侭を聞いて欲しいの。
それだけでわたしはもう何も言わないし、何も求めない。
あなたの元から静かに身を引くわ。
お願いよ、ザイン。
最後に一度だけでいい。
一度だけでいいから、名前ではなく、あの頃のようにわたしを呼んで欲しいの。
あなたのその声を、わたしの耳に焼き付かせて欲しい。
ねえ、ザイン。
お願いよ、ザイン。
あの頃のように、わたしを、呼んで。
わたしを、お嬢様と、ただそれだけでいいから、お願いよ、ザイン。
「ザイン、ザイン…… 答えて、……ザイン……」
10年前に書き殴ったものを推敲しながら上げていきます。