〜侮辱〜
青威は朱音の後ろを歩いていた。
紺色に裾だけ黒のラインが入ったプリーツスカートが、歩くたびにふわふわと揺れている。
風よ吹け! と心で強く念じてみる青威であった。
「さあ、此処よ、春奈叔母様がこの家にいた頃、使っていた部屋なんですって」
朱音はそう言うと、障子を開け中へと入る。
中は今の今まで誰かが使用していたのではないかと思うほど、人の気配を残していた。
青威の母親がいなくなってからも、きちんと手入れされていた事が伺える。
部屋の隅には真新しい棚が作られ、その中にひっそりと小さな仏壇が納まっていた。
「この仏壇……まさか、わざわざ運んでくれたのか?」
「うん、そうよ! あに、あっ! わ、私がね、その方がいいんじゃないって言ったの」
朱音は、何かを言いかけ、その言葉を消すようにいい変えた。だが、その不自然さに、単純な青威は気付かず、朱音が言った言葉だと信じていた。
「朱音ちゃん、ありがとう!」
青威は紺碧の瞳を輝かせ、朱音の手を握りながらそう言う。
朱音は苦笑いを浮かべていた。
青威は持ってきたボストンバッグの中から、何重にも巻かれた布を開き、大事そうに位牌を出して、仏壇に二つ並べ手を合わせた。
朱音も隣で手を合わせる。
「ねえ、朱音ちゃんって、好きな人いるの?」
青威の突拍子も無い問いに、朱音は手を合わせたまま目を開ける。
「……そういう青威さんは?」
「う〜ん、今は……眼の前の黒髪の少女かな。従姉弟だって結婚できるでしょう?」
青威の答えに、朱音はクスクスと口に手を当て笑った。
「そうなんだ、私はね……な・い・しょ」
朱音はそう言って、大きな黒い瞳で青威の瞳を覗き込んだ。
青威は完全に朱音の掌の上で、転がらされているようである。だが、そんな状態を青威は楽しんでいるようであった。
「朱音ちゃん、俺の事、呼び捨てでいいよ。同い年なんだしさ」
「でもそんな事したら、青威さん、あ、違った、青威のクラスの女子に反感買いそう」
「ああ、それって、俺がモテルって認めてくれてるのおおおお」
青威は膝を曲げ、体制を低くすると朱音の瞳を覗き込んで悪戯っぽく言う。
「ちょっと安心した」
朱音は青威に笑顔を浮かべそう言った。
「何が?」
青威は不思議そうに紺碧の瞳を揺らしている。
「青威が……変なヤツで!」
朱音はそう言って、自分の言葉が可笑しかったのか、お腹を抱えてその場にしゃがみ込んで大笑いしている。
青威はその様子に、一瞬、鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべるが、次の瞬間、思い切り噴出し、腹の筋肉がピクピクと痙攣するぐらい大笑いをしていた。
青威が母親を亡くした後、こんなに声をたて本気で笑ったのは、これが初めてかもしれない。
この朱音という少女は、周りを和ませる雰囲気を持ち合わせているようだった。
「お嬢様、青威様、夕食の支度が調いました」
雪絵がそう言い、朱音と青威を迎えに来た。
雪絵の後について、朱音と青威が廊下を歩いていく。
外に剥き出しになった廊下を歩き、池を通り過ぎて、薄暗い廊下に入ると、雪絵は襖を開けた。
中には広い座敷が広がっていて、中央部に漆塗りの大きなテーブルが置いてあった。
上座には座布団だけが敷かれてあり、右横に時雨、隣にはきっちりと七三分けに整えられた黒髪に、四角い縁無しの眼鏡を掛けた三十歳くらいの男が座っていた。
その隣には茶髪で短い髪に軽くパーマを掛け、鋭いつり目の男が、青威の方を睨みながら座っている。
年齢にして二十六、七といった所だろうか。
襖をあけた入り口の所には、いつ呼ばれてもいいように雪絵が座っていた。
朱音は時雨の向かい側に座り、青威も眼の前の茶髪の男の事を気にかけながら座る。
そして紺碧の瞳で真っ直ぐに茶髪の男を見つめた。
茶髪の男は、不機嫌そうに大きく溜息をつき、青威から目を逸らす。
この場の雰囲気が、まるで針の筵のように青威に襲い掛かっていた。
静かに目を伏せていた時雨が、顔を上げゆっくりと口を開いた。
「青威、わしの隣にいるのが、凪陽志、その隣が凪広和だ。陽志は今日はたまたま日本にいるが、仕事の拠点はニューヨークだ。広和はリングワールドグループの社長をしている。この家には今はこの者だけだ。あと紫龍は学園で会ったからいいな……では夕食を頂こう」
時雨の言葉に、陽志も広和も何も言わない。青威に挨拶の言葉さえ掛け様としなかった。
青威の眼の前には、見たことも無い豪華な料理が並んでいた、だが、その料理も食事を囲むこの険悪な雰囲気に色あせてしまっているようであった。
「いただきます!」
青威はそんな雰囲気を打ち砕くような大きな声でそう言い、料理に箸をつけ始めた。
見た事もない魚の煮付けを食べ、ご飯をワシワシと口に入れ、満面の笑顔を浮かべていた。
時雨はそんな青威を見ながら、愉快そうに笑みを浮かべる。
隣の朱音も楽しそうであった。
そんな中で不機嫌な表情を浮かべていたのは、陽志と広和である。
「さすが、あばずれの息子だけの事はある。食べ方も下品だな」
陽志は静かに箸を運びながら、冷たい口調でそう言った。
「お婆様、紫龍を当主にしたと思ったら、次はこんなガキをこの家に入れるなんて、何を考えているんです!」
広和は頬づえをつきながら、青威を睨みつけてそう言う。
今まで平然と箸を運んでいた青威の箸が止まり、目を伏せたまま口を開いた。
「陽志さんと広和さんとか言いましたっけ? 貴方達は正直な方ですね。じゃあ、俺の方も正直に反応させてもらってもいいですよね!!」
青威はそう言って、持っていた箸を広和に向け振り上げた! 咄嗟に陽志と広和は自分達の体を手で庇う仕草をみせる。その時だった、箸を持っている青威の手首を凄い力で握り、動きを止める手があった。
「紫龍……」
陽志と広和はそう呟き、青威の後ろに立ってる紫龍を見つめる。
「青威、その箸は雪絵がお前のために選んだ物だ、大切にしろ」
紫龍は淡々と言葉を紡ぐと、青威の手首から手を放し、そのまま廊下へと戻ろうとして、足を止めた。
「ああそうだ……陽志さん、広和さん、てめえらなあ、ごちゃごちゃぬかしてると、魂ごと食っちまうぞ!」
紫龍は振り向きながらそう言い、怒りを露にした瞳で、陽志と広和を突き刺すように睨みつける。
陽紫と広和は、一瞬にして凍り付いたように動けなくなり、呼吸も止まっているのではないかと錯覚するほどであった。
時雨はそんな紫龍達のやり取りを、愉快そうに目を細め、何も言わずに見ている。そんな時雨の姿を横目に、紫龍は目を伏せ前を向くと、絞り出すように言葉を漏らす。
「クソババア!」
時雨に向ってそう言葉を吐くと、廊下へと足を進めた。
「紫龍、食事は?」
時雨の淡々とした問いに、紫龍は何も答えず、廊下に出ると傍らに座っている雪絵に声を掛けた。
「雪絵、悪いが、食事は離れの方に持ってきてくれ。少し休んでから食べる」
紫龍はそう言うと、薄暗い廊下の向こうに消えていく。
雪絵はその後姿を、悲しい瞳で見つめていた。
青威は紫龍に手を止められた事よりも、言われた言葉にショックを受けていた。
「雪絵さん、すみません」
傍らに座っている雪絵に対して、青威は心から謝った。
この家に、自分のために箸を選んでくれるような人間が、いてくれる事が嬉しかった。
陽志も広和も、なぜ此処まで青威に対して敵対心をもっているのか、紫龍に対しては、このような大きな家にはありがちな相続問題があるのだろうが、青威に対しての敵対心の理由がまったくわからなかった。
この凪家には、何やら色々と謎があるらしい。
青威は眼の前に渦巻く嵐を予想しつつ、紺碧の瞳を凛と輝かせる。
揺らぐ事のない、真っ直ぐ未来を見つめる瞳であった。




