~悲しい関係~
「……そうか……だよな」
何を納得したのか、紫龍はそう溜息混じりに言うと、目線を下へと移し、唇を噛み締めた。
紫龍の視界に入った相手、それは小さい頃から母親のように慕っていた雪絵であった。
母親を亡くしてから、紫龍の身の回りの世話を全てやってきてくれた女性、凪家の中で朱音以外に心を許している存在があるとすれば、この雪絵だけであろう。
「知って……」
知っていらっしゃったんですか? そう言おうとしたのか……
雪絵は何か言いたげだったが、その後の言葉を飲み込み、紫龍から目線をそらし白髪交じりの髪の毛を、まるで自分の意思を塗りつぶすかのように掻き揚げた。
「ずっと……ずっと知っていた、まあ、仕方がねえだろうな……お前は見張り番だからな、今はそいつ側の人間って事だよな」
紫龍は一言一言噛み締めるようにそう言い、深呼吸をすると顔を挙げ、顔をそむけている雪絵を真っ直ぐに凝視する。
少し疲れの残る雪絵の横顔を見て、紫龍は悲しい笑みを浮かべていた。
「そんな顔してんじゃねえよ、誰がどう生きるかは個人の自由だ、自分の感情を殺してでも他の意図に下従わなきゃなられえ事だってあるさ」
紫龍の言葉はいつものように淡々としていたが、優しい響きを含んでいるように思える。
雪絵は微かに頬を動かし反応を見せるが、紫龍の方を見ようとはしなかった。
「お前も可愛そうに、飼い犬は飼い犬らしくして価値がる。主人に噛み付いた時点で生きてる価値は皆無なんだよ。雪絵とは小さい頃から傍にいて信頼関係も成り立っていただろうに、さっきのお前の驚いた顔を見れただけでもこの場に居合わせたかいがあったってもんだ」
春奈はそう言い、真っ赤な唇を歪ませニヤリと笑った。
「おい、怪力女、お前の依頼主は誰だ? 芹沢女史じゃねえ事はわかってる、今回の件の前から俺を狙っていた、いや凪家を狙っていた、そうだよな?」
紫龍は冷ややかな視線で春奈を見つめそう聞いたが、春奈の方はその問いに答える事なく、鼻で笑い紫龍を蔑んだ目で見ているだけだった。
「なるほど、その存在を口にしただけで、自分の命が危ぶまれるって事か……やはり」
そこまで口にした時、紫龍の頬をかすめて何かが飛んでいき、頬には薄っすらと血が滲んでいた。
紫龍の頬をかすめて飛んでいった物、それは雪絵が投げた気刀であった。気を指先に溜めそれを風よりも早い速さで飛ばす術である。
「なるほど、芹沢女史は俺からそっちに乗り換えたってわけだな」
紫龍はそう言いながら俯き笑っていた。その笑い声は徐々に大きくなり、木々の葉を揺らすように響き渡り、今まで生きてきた自分の人生をあざ笑っているかのように聞えた。
紫龍の笑い声がおさまり、ふと上げた顔に浮かんでいた表情は、深い悲しみを湛え、瞳は迷える幼子のように震えていた。
「……まったく……面倒くせえ……雪絵……俺の命、お前にくれてやってもいいぜ」
冷ややかな雰囲気を漂わせ、優しい風のような声で紫龍はそう言う。
悲しみに支配された瞳には、何の光も映らず、深い闇のような色を湛えていた。
雪絵の表情が一瞬強張る。それはまぎれもなく迷いを表すもの、雪絵自身も自分の立場と、自分の中での紫龍の存在の大きさの狭間で苦しんでいたのだろう。
その時だった、凄まじい音を立て、紫龍の眼の前に落雷のように光りが落ちる。それは一瞬にして人間へと姿を変え、その場に威圧的な存在感と共に姿を現した。
「勝手に死ぬんじゃねえよ」
低く冷ややかな黒龍の声が響く。
雪絵と春奈は身構え、黒龍を真っ直ぐに凝視し、動かなかった。
「俺の意思を無視して勝手に死ぬのは契約違反だ」
黒龍は紫龍の方をゆっくりと向くと、ほんの少し嫌味をこめた笑みを浮かべてそう言う。そんな黒龍に紫龍は溜息混じりに笑いを吐き捨てるように目線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「死ぬ事すら自分の自由にならねえのかよ」
紫龍はボソリと言葉を地面に落とす。雪絵と春奈には聞えないであろう小さな声だった。
「……自由……ね、死を選ぶ事は自由じゃない、自由とは生きながらにして自らの手で握り締めるものだ」
黒龍の低く風の音と同化するような声が、紫龍の耳へと入り込んでくる。
黒龍の言葉に微かに反応し、紫龍は小さく顔を上げる、すると自分の前に立つ長身の男の瞳に悲しい影を感じた。
いつも高慢でどこか人間を見下している言動を発する黒龍から想像できない雰囲気を漂わせていたのだった。
「もっともらしい事を言ってくれるじゃねえか、俺の命を喰らってる分際でよくも言えたもんだ」
言葉は批判的であったが、そう言った紫龍の表情は、嫌味をこめながらも愉快そうに見え、さらに言葉を続ける。
「こんな死に損ないの命でも、自由にならない命でも大事にしろだって? 綺麗ごと並べてんじゃねえよ」
紫龍はそう言いながら、黒龍の瞳を真っ直ぐに見つめ、微かに何か含みを持った合図を送ったように見えた。それと同時に黒龍は身を翻し、稲光と化し雪絵へと向って電光石火の如く飛んでいく。
雪絵は突然の事に避けるのが精一杯で、草が縦横無尽に生えている地面に転ぶように転がった。
身構えた春奈の視界からは紫龍の姿が消えおり、針の穴のような微かな一瞬の隙に、紫龍は春奈の背後へと回り込み羽交い絞めにしていた。
「さてどうしようか……」
紫龍の言葉に春奈は眉間に皺をよせ、苦悶の表情を浮かべている。
雪絵はすぐに立ち上がり、紫龍の元へと走りこもうとするが、行く手を黒龍にふさがれ、その鋭い眼光の前に動く事ができなかった。
「紫龍、コイツはどうするんだ? 俺が頂いてもいいのか?」
黒龍は雪絵を凝視したまま、なんの躊躇も感じさせない口調でそう言った。
紫龍は一瞬、眉の端を少し動かし雪絵を見つめる。雪絵もまた紫龍を見ていた。
数秒の間見詰め合っていたが、今おかれているお互いの状況を悔やむかのように、先に雪絵が目を伏せ
たかと思うと手を動かし始める。
雪絵は風のような声で呪文のような言葉を紡ぎ始めた。
すると木々達がざわざわと騒ぎ始め、風がまるで生き物のように黒龍を包み込んでいく。
「……呪縛の陣……か」
紫龍は舌打ちをしながらそう言うと、春奈は愉快そうに鼻で笑った。
激しい風ではない、緩やかだがその内面に強い力を宿した風の塊が、黒龍の体を包み込み動きを封じてしまう。
それは指の先すらも動かせないほどの強い圧力だった。
雪絵はそんな黒龍を横目にゆっくりと紫龍に近付いて行く。紫龍は何を考えているのか、ただ無表情に近づいてくる雪絵を見ているだけだった。
紫龍は動かず、漆黒の瞳が雪絵の姿を射抜くように見つめていた。
雪絵もまた今度は目を逸らす事無く、紫龍の瞳を真っ直ぐに見つめ一歩一歩ゆっくりと近付いて行く。
「紫龍様、その女を離して下さい」
雪絵の声は紫龍の知ってる声ではなく、冷たい響きを持ち感情を押し殺しているかのように聞えた。
紫龍はそんな雪絵の声に、少し悲しい笑みを浮かべると、静かに手の力を弱め、春奈を解放する。
春奈はほんの少し驚いたように目を見開いたが、次の瞬間口元を歪め皮肉っぽい笑みを浮かべると、飛ぶように紫龍から離れ雪絵の横を走り抜け、校舎の方へと全速力で走り始め姿を消してしまう。
春奈を黙って見逃した紫龍のその行動に、雪絵も予想外とばかりに一瞬驚きを見せていた。
「お前の黒幕があのブタで、春奈なんて名を語るあの怪力女の黒幕は……守人の一つ東の泉ってとこか」
紫龍のその言葉に雪絵は、一瞬頬を硬直させるが、すぐに緊張が揺るみ悲しげな笑みに変わる。
その笑みが全ての事柄を肯定していた。
「……日、いずる場所、東の守人か……」
紫龍は静かに唇を噛み締め微かな声でそう呟く。
「凪家はもう終わりです」
「お前達が潰さなくても、この俺が死ぬ時に道連れにするつもりだったよ……」
紫龍は優しい笑みを浮かべると雪絵を見つめそう言い、さらに言葉を続けた。
「雪絵や朱音、俺の親や青威、みんな自分の意思とは無関係に大きな歴史の波に呑まれ、流したくもない血を流し、大切な者を失っていく、そんな事はもう終わりにしなきゃな」
「いくら紫龍様であっても、それは無理です。芹沢女史は今や総理の意思そのもの、その存在に背ける者などいません、背けば自分の足元が危なくなるのを皆知っているのですから……そんな危険を冒してまで紫龍様に味方する者等いません」
紫龍の言葉に、静かな口調で雪絵は言葉を紡ぐ。
「……お前も……その一人って事だよな」
「……はい」
紫龍の問いに、少し躊躇しながらもしっかりとした口調で雪絵はそう頷いたのだった。
「呪縛の陣、見事だな、さすがの俺も隙を突かれた……だがな所詮風使い風情が俺に楯突くこと自体に無理があるんだよ!」
紫龍はそう言い放つと、大きく両手を開き素早い動きで拍手を一つ打った、耳が痛くなるような周波数の音が鳴り響き、一瞬にして目には見えない空気の波動が雪絵を襲いかかる、雪絵の体は弾かれたパチンコ玉のように吹っ飛び、木の幹に思い切り叩き付けられ地面に落ちた。
雪絵は苦しそうに呻き声を微かに上げ、そのまま気を失ってしまう、それと同時に黒龍の体が風の束縛から解き放たれ自由になった。
「黒龍、遊ぶのもいい加減にしろよ、お前の力ならそんな術、すぐに解く事ができただろう、俺に余計な力を使わせやがって」
紫龍はそう言いながら、地面に横たわる雪絵の傍にしゃがみ込んだ。
「安心したぞ、あの馬鹿力女を見逃した時は、そろそろお前も終わりなのかと思ったが、何か意図があっての事らしいな」
黒龍の言葉に紫龍はそれを楽しむように微かに笑っている。
さらに黒龍が言葉を続けた。
「古より凪家は国を支配する者に仕えてきた、その流れはそう簡単には変えられん、雪絵を生かしておいてはまた狙われるぞ、なぜ一発で仕留めなかった?」
黒龍は、静かに雪絵を見つめる紫龍を見ながらそう聞いた。
「……確かにな……面倒なことが起こるかもしれない、でもその面倒な事に死ぬ間際まで絡んでいたい……」
紫龍は気を失ってしまっている雪絵の頬を優しく撫でながら、消えてしまいそうな声でそう言った。
「まったく人間の感情ってのは厄介で面倒だ」
そう言いながら黒龍は、木々の間から見える空を眺め、遠い昔を思い出すように目を細めたのだった。




