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迫り来る影 〜戦いの序章〜

 朱音は朝から元気がなかった。

 原因はたぶん青威の事というよりは、紫龍の事だろう。

 紫龍は何処に行ったのか、朝食にも顔を出さず、離れにも姿が無かった。

 昨夜の体調の悪そうな紫龍の姿、そしてまた朝には姿を消していた紫龍の事が心配でたまらなかったのだろう。

 青威もまた紫龍の姿が朝から見えない事を気にしてはいた。

 昨夜の一件が自分自身の朱音に対する気持ちを認めさせようとした行動だという事がわかっていたからだ。だがそれを素直に認めたくない気持ちも強かった。

「ねえ青威、今日の朝のお婆様の様子おかしかったわよね」

 朱音は今までのように、昨夜何も無かったような口調でそう言って、青威よりも少し前を歩いていた足を止める。

 青威は少し眉毛の端を動かすと朱音の横に並ぶように立ちどまり、朱音の黒髪の向こうにある長い睫毛を見つめた。

「紫龍と何かあったのか……いつも冷静な時雨ばあさんがイライラしてるんだから、よっぽどの事があったのかもな」

 そう言いながら、朱音の揺れる睫毛に鼓動が早くなるのを感じ、自分の中で今までとは少し違う何かを感じていた。

 できるだけ平静を装った。今まで通りの二人でいるために。

「そう……ね、でも兄貴ならきっと大丈夫。またひょっこり学校に顔を出すわよね?」

 朱音はそう言いながら、青威の方を見上げ優しく笑う。

 その笑顔に思い切り心臓を殴られたような衝撃を感じ、青威は思わず顔を背けてしまった。そんな自分の姿に幼さを感じたのか、何かを振り切るように、強く短い息を吐き出し、朱音の方に視線を戻した青威は、眼の前の大きく澄んだ黒い瞳に、大人びた雰囲気を感じ、自分の幼さを恥じた。

「……まったく、あいつはとことん俺達に心配をかけたいらしいな」

 青威はまるで大根役者のように、棒読みのセリフを吐き自分の気持ちを隠すように、ひきつった笑みを浮かべる。

 朱音はそんな青威の表情に一瞬悲しみを感じさせるように瞳を揺らしたが、次の瞬間、青威の栗色の髪の毛をクシャクシャと掻き揚げると満面の笑みを浮かべた。

 青威の心にチクリと痛みが走る。原因がなんであるかはわかっていたが、今の青威にはどうする事もできず、微かに唇を噛み締めていた。

 その時だった、腕に痛みが走る。昨夜龍緋刀が痣となって刻印された場所が、まるで裂かれた様に痛み、青威は手で押さえ眉間にしわを寄せた。

「……どうしたの?」

 そう言って朱音が青威に顔を近づけたその時、車のブレーキ音がけたたましく鳴り響き、二人は咄嗟に振り返って、目前に迫り来る車を目にして呼吸をするのを忘れてしまう。

 青威は朱音を咄嗟に抱きしめ固く目を閉じた。

 もう駄目だ! 心の中でそう叫ぶ。

 ……だが、何も起こらない。

 予想に反して衝撃がある訳でもなく、痛みがあるわけでもなかった。

 青威は静かに目を開いて見る。目の前に広がるのはいつものように穏かな朝の光景だった。目の前に迫り来る車の姿も無く、人々が通勤時間を忙しそうに行きかっているだけだった。

「どういう事?」

 ゆっくりと顔を上げた朱音も緊張のせいか、かすれた声でそう言う。

 青威は不意に傍にあったビルの上に目をやる。突き刺さるような視線を感じたからだ。

 屋上には逆光を浴びて一つの影が立っていた。見覚えのある雰囲気……

「春奈さ……ん」

 青威の口からそう声が漏れ出し、それと同時に影は後ずさるように静かに消えてしまった。

 そう確かに、それは青威の母親と同じ名前を名のった女であった。

 青威は髪の毛を掻き揚げ唇を噛み締める。

 何が起こったのかはわからない。ただなんとなく、現れた影の正体といい、龍緋刀の痣の痛みといい、また何かが自分達の周りで動き始めている事だけはわかっていた。

「青威、大丈夫?」

 下から見上げている黒い瞳を目にして、その清々しい雰囲気に青威は少し苦笑して、朱音の体から手を放した。

「平気」

 短くそう言って、青威は朱音の手を握り、優しく引っ張るように歩き始める。

 何がそうさせたのか、自然と朱音の手を握っていた。

 朱音は青威の揺れる栗色の髪の毛を見つめながら、はにかんだように微笑み、青威の手を優しく握り返したのだった。

 


 薄暗い空間に真っ黒い塊のような黒い影が浮かび上がっていた。時たまそれは微かに動き、溜息のような息づかいをこぼす。

 どうやら人間らしい事がわかる。

 微かに足音が近づいてくるの音が聞え、その黒い影は顔を上げ、ドアが開かれる事を予想しているのか、重苦しかったその場の空気がいくぶんか和らいだような気がした。

 足音は目の前のドアの向こうで止まり、鍵穴を回す音と同時にドアが開き、光りの中に一つの影を映す。

 いきなり差し込んできた日差しに部屋の中の男は、顔を顰めた。

「神楽さん、申し訳ありませんがもう一度、場所を移ってもらいます」

 光りの中に現れた影はそう言い、部屋の中へと入って来きた。身長が高く、真夏の日差しの中で鬱陶しそうに長袖を着ている。

 それはまぎれもなく紫龍であった。

「……凪君、私はいつまでこんな生活をしてればいいのかね? まったくとんだ事に巻き込まれてしまったものだ。はやく元の生活にもどしてくれ」

「それは、もう無理でしょう」

「何だと!?」

「貴方はもう死んでいるんですから、今日、貴方の死体が東京湾に上がります」

 紫龍の冷ややかな言葉に、男は驚愕の表情を浮かべた。

 男は年齢にして40代後半、高そうな背広を身に着けている。ただ人相はその背広とは相反し痩せていて貧相な印象を与えていた。

 差し込んできた光りに反射して、胸元のバッジが光る。弁護士のバッジをつけていた。

「……なぜだ!? もう少しの所まで来ていたのに」

 男はそう言いながら俯き、深いため気を吐く。

「まあ気持ちはわからなくも無いが、あの女を裏切ったのは失敗だったな、芹沢女史の弁護士についてもう二十年近くか」

「それは違うな、私はあの女の弁護士をやってきたわけではない、私は、私は」  

「まあ、あの男も無二の友人より女を選んだ、それだけの男って事さ、あの狸オヤジも、あのメス豚も同じような物だろう」

「あの人も変わられた……もうそろそろ終わりにしなければ」

「まあ、あんたの都合はどうでもいいや、俺は芹沢女史からあんたの殺害を依頼された、だがあんたは此処にこうして生きている」

「まさか……凪家が裏切ったのか?」

「凪家が裏切ったんじゃない、俺がそうしたいからそうしただけの話だ」

 紫龍の言葉に男は悲しく笑い、徐々に笑い声が大きくなっていった。

「凪真雪ではありえなかった行動だな。凪家がつぶれるぞ、いいのか?」

 男は紫龍の手を掴むと、顔を覗き込み鋭い口調でそう言う。

 紫龍は微かに微笑み、男の背広の胸ポケットに入っていた手帳を抜き取った。咄嗟に男はその手帳を取り返そうとする。

「あんたにはもう必要のない物だろう? 俺があんたのやりたかった事を受け継いでやる。全てをリセットしてやるよ」

 紫龍の言葉に男は動きを止め、腕を力なく下げた。

「私の都合と凪紫龍の都合にはいささかズレがあるな、だがやりたいことは同じというわけか……いいだろう、今後の事は君に任せて、私は消えることにするよ。全てをなくしてしまうのには未練はあるが、これも今まで私が見て見ぬ振りをしてきた事への報いだと思えば、仕方がない事だろう」

 男はそう言って、光りの中へと歩き出す。

 それは三日ぶりの外の世界だった。

 男は日差しを手で遮りながら、自分がいた場所を後にする。

 階段を下り、下に止めてあった紫龍の車に乗り込むと、深々と後部座席に沈み込み静かに目を閉じた。

 紫龍はバックミラーに映る男の顔を一瞬見て、エンジンをかけ車を発進させ、熱を含んだ朝の日差しの中を、空港へと向って車を走らせたのだった。

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