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         〜どう生きるか〜

 眠れない。

 朱音はゆっくりと目を開け、天井を見つめる。

 外からは柔らかい月明かりが、障子越しに部屋へと入り込み、薄暗い空間に物影を作っていた。

 ゆっくりと布団から出た朱音は障子を開ける。

「……青威」

 朱音は微かにそう呟き立ち上がると、夜空にぼんやりと浮かぶ月を見上げた。 

 青威の事を思うだけで、胸が締め付けられるように痛み、自分ではどうにもできない感情が胸いっぱいに膨らみ苦しい。

「おかしいの……人を好きなるのって、こいうゆう事なんだ……青威の事を考えるだけでドキドキして息苦しい……だけど、なんだか胸の奥の方が熱くて、嬉しい気持ちになる……ああ、でも、青威に振られちゃった……んだよね」

 朱音は艶やかな黒髪を揺らしながら柱にもたれかかり、なんとなく紫龍のいる離れへと目をやると、そこだけ冷ややかな雰囲気を漂わせ、静まり返っていた。

「あれ……ワタゲだ。なんで外にいるのかしら」

 玄関先にワタゲが座り込み朱音の方を見つめている。まるで朱音に何かを伝えようとしているようだった。

 朱音の心に一陣の風が吹く、なんとなく嫌な予感が走り、すぐさま離れへと向う。そしてできるだけ音を立てないように扉を開けた。

 朱音の足元でワタゲが、淋しそうな声で鳴いている。

 離れの中へ入って行くと、奥の方で何かが倒れたような物音が聞える。

「兄貴? 起きてるの?」

 朱音はそう声をかけながら足を進めるが、何の応答もなかった。

 自然と朱音の足取りが早くなり、細長い廊下を通り襖を開けると、縁側の障子が開けっ放しのせいか、部屋の中はひんやりとした空気が漂っていた。

 朱音は奥にある紫龍の寝室へと近付き、手を伸ばす。

「兄貴、開けるよ」

 小声で声をかけ襖を開けるが、紫龍の姿はそこにはなかった。

 その時だ、台所の奥にある風呂場の方から、何かがぶつかり崩れるような音がした。

 朱音は咄嗟に走り出す。台所を飛ぶように走りすぎると脱衣所に飛び込み、風呂場の戸を開けた。

「兄貴!?」

 そこには、苦しそうに胸を押さえ、倒れ込んでいる紫龍がいた。

 嘔吐したのか、風呂場にはツンとした鼻をつく匂いが漂っている。 

 朱音はすぐに紫龍を抱くようにして起こした。

「兄貴……兄貴!……兄貴ってば!!」

 朱音が必死の形相で声を張り上げ叫ぶ。その声に微かに反応し、紫龍はゆっくりと目を開けた。

「朱音……何やってる」

 紫龍はうつろな瞳をして、か細い声で朱音にそう聞いた。

「どうしたの? 体調悪い? 今、救急車呼ぶね」 

 そう言って、急いで立ち上がろうとした朱音の手を、紫龍は勢い良く握り締める。

「いい……呼ぶな」

「兄貴、何言ってるの?」

「原因はわかってるんだ、病院にいったからといって、これが改善されるわけじゃない。いいんだ……悪いが少しの間ここから出ててくれないか、シャワーあびるから」

 紫龍は弱々しくも微かに微笑み、ゆっくりと起き上がると、シャワーに手をかける。まだかなり体調が悪そうだ。

「だけど……」

 そう言い掛けた朱音の唇を紫龍の指が塞ぐ。

 朱音は真っ直ぐに自分の事を見つめる紫龍の瞳を見て、それ以上何も言えなかった。

 薄暗い空間に、風呂場の戸を閉める音が冷たく響き、中からはシャワーの音が響いてくる。

 水が放出し、流れる音に混じって、紫龍の苦しそうな声が微かに聞こえてきていた。

 朱音はその場にいる事が出来ず、紫龍の部屋へ行くと着替えを用意して脱衣所に置き、一人縁側に座って紫龍が来るのを待っていた。


 優しい風が吹く。

 朱音の心の中は不安で一杯だった。

 紫龍の寿命が短い事は重々承知していたはずだ、だがこうも間近で弱々しい姿を目にすると、一気にそれが現実となって襲ってくる。

 体が震えるほど、恐怖に近い不安だった。


 しばらくして、朱音の背後から、床を微かに軋ませ歩いて来る足音が聞えてきた。

 朱音は少しだけ儚い安心を感じながらゆっくりと振り返る。

 紫龍が血の気の無い顔色をし、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら立っていた。

 その姿を目にした朱音は、言葉を発する事ができない。苦しさで胸が潰れそうになりながら、静かに歩いて来る紫龍の姿を見つめるだけだった。

 紫龍はいつもの机の前に座り込むと、机に肘を付き、頭を手で支えながら朱音を見つめる。タオル越しに見える漆黒の瞳が冷ややかに揺れていた。

「……この事は他の誰にも言うな」

 静かに淡々と紫龍は言葉を紡ぐ。

「どういう事? もう……隠すのはやめて、お願いだから」

 朱音は大きな瞳に紫龍の姿を映し、震える声でそう言った。

 紫龍は静かに目を閉じ、何かを考えているようだ。朱音はそんな紫龍を黙ったまま見つめ、沈黙の時間が流れ二人を包み込んでいた。

「……見たとおり、俺の体はかなりガタがきてる……あまり時間が無いって事だけははっきりしてるな」

 静かに動き出した紫龍の唇から、淡々とした言葉が漏れ出した。

 朱音は一瞬、自分が耳にした言葉の意味がわからず、目を見開き何か問いかけたい様な表情で紫龍を見つめたが、次の瞬間その大きな瞳が涙で揺れ、ついには涙が溢れ、頬を伝って流れ出してしまう。

 紫龍は悲しく笑うと優しい瞳で朱音を見つめ、そっと手を伸ばし朱音を包み込むように抱きしめた。

 紫龍は胸の中で震えている朱音に、低く心地のいい声で言葉を投げかける。

「青威はお前を受け入れたか?」

 紫龍の言葉に朱音は何も答えずただ泣いていた。

「まったく、あの馬鹿は……せっかくけし掛けたのに、まだ気付かねえのか」

 紫龍はそう言い、朱音をより一層強く抱きしめていた。

 長い睫毛を伏せ、眉間にしわを寄せるその表情は、残していく者への愛おしさと心残りを現すものだった。

「兄貴、今は青威の事なんてどうだっていいよ……人の心配する前に自分の事をちゃんと見つめて大切にして」

 朱音はそう言いながら、紫龍の腕の中で体を起こすと、下から大きな瞳で紫龍の顔を見上げた。黒い瞳から止めどなく涙が流れている。

 紫龍は流れる涙を優しく拭い、フッと儚げに微笑んだ。

「これでも俺なりにちゃんと大切にしてるつもりだ」

「青威の事はもういいよ。確かに私の中で青威の存在は大きいけれど、兄貴の存在だって私には大切だもん」

 朱音の言葉に紫龍は何も言わない。

「……私の事より自分の事をちゃんと考えてよ」

 そう言った朱音から紫龍は目を逸らすと、ゆっくりと外の方に目をやる。頭にかけていたタオルが落ち、透けるような青白い顔色が浮きだって見えた。

「朱音、何が大切で何が大切じゃないのかは、人それぞれ違う……残された時間をどう使うか……俺の自由にさせてくれ」

 真っ直ぐな意志の強い瞳を揺らし、紫龍は朱音の顔を見つめると、涙で濡れた頬を優しく撫でながらそう言った。

「じゃあ聞くけど、いったい何がしたいっていうの? 自分の命よりも大事な事って何?」

 朱音の言葉に紫龍は目を伏せ、少しの間何かを考え、そしてゆっくりと口を開いた。

「いいのか悪いのか、青威が来てから俺は変わった……希望なんて言葉に縁がなかった俺が、いつの間にか何かに期待し、希望を持つようになっていた。諦めてた、いや、諦めようとしていた事に期待をしちまってる俺がいる……俺自身が一番驚いてるよ」

「……どういう事?」

「愛する者を失った時の悲しみは辛い物だ、だから俺はお前や全ての人間を拒絶した。俺は今まで死ぬための準備をしてきた、だが今は違う、死ぬ為じゃなく、どう生きるかって事に力を使いたいって思ってる俺がいるって事だよ」

「兄貴、いったい何をしようとしているの、危ない事をしようとしているじゃ……」

 朱音の問いに紫龍は弱々しく微笑むだけで、何も言葉にしない。

 そんな紫龍の様子に朱音は真意を聞きたい気持ちはあったが、それをぐっと自分の心に押し込めた。

 なぜか、紫龍を包む雰囲気に、それ以上は入り込めない空気を感じたのだった。

「おやすみ」

 紫龍はまるで秋の風のような、涼しく優しい音を響かせ朱音にそっと言うと、漆黒の髪の毛を掻き揚げ顔を伏せ、朱音を見ようとはしなかった。

 紫龍の気持ちを把握したわけではない、だが朱音は言葉をも出す事を許されない雰囲気を感じ、その場にいる事が出来ないような気がしていた。

「おやすみ」

 そう言うしかなかった。

 朱音は淋しそうに紫龍を見つめながらゆっくりと立ち上がり、不安と心配の渦巻く心を必死になだめながら、紫龍の部屋を後にする。

 朱音が離れを出ると同時に家の中の明かりが消え、かすかにワタゲの甘えたような可愛らしい声が聞こえていた。

「兄貴……どこまで、そうやって無理をし続けるの。少しでも長く穏かな時間を過ごしてほしいのに、長生きして欲しい」

 朱音はそう呟くと、一つ溜息をつき母屋へと向ったのだった。


 紫龍は微かな月明かりの中で、ワタゲを抱きながら空を眺めている。

「時間が無い……急がないと全てが無駄になる」

 紫龍はそう言いながらワタゲの柔らかな毛を優しく撫で、ワタゲは気持ち良さそうな顔をして喉を鳴らしていた。

「嘘はいつかばれる、いやもうばれてるか……守人か、くそくらえだな。根源を叩かなければ何も解決しないか、今の俺にそれだけの力が残っているか、一世一代の賭け、向こうが動き出すのも時間の問題、寿命で死ぬかされるか、どっちが先になるかな」

 紫龍はそう言うと静かに目を閉じ、微かに口元を歪め皮肉っぽい笑顔を浮かべたのだった。

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