〜紫龍対希ララ〜
部屋の中には、開け放たれた縁側から優しい風が舞い込んでいた。
希ララはジーンズにTシャツといったラフな格好であったが、スタイルの良さと甘いマスクの相乗効果もあり、センス良く見えた。
「土地の中に離れもあって、そこに一人住まいとはね、やっぱり金持ちは違うね」
希ララは嫌味をこめてそう言い、部屋の中を見渡していた。
「意外に小さい人間なんだな」
紫龍がまるで小さな子供でも見るような目で希ララを見つめそう言うと、希ララは怒りを露にし紫龍に詰め寄る。
「希ララ、いや、あえて影崎和希と呼ばせてもらおうか、俺に用があるんだろう?」
希ララは、紫龍の口から出てきた名前に一瞬驚くが、すぐに目を伏せ鼻で笑った。
「凪紫龍、もしかしてお前って俺のファンか何か?」
希ララの言葉に紫龍は微かに笑い、いつものように柱を背にして縁側に腰を下ろした。
「なわけないか……さすが、もう俺の事は調べつくしたって事か」
希ララはそう言いながら紫龍の視界に入るように隣に腰を下ろし胡坐をかいた。
「凪家ね……リングワールドグループを仕切り、ホテル、遊園地、デパートにゴルフ場、色々な事やってるよな? それに裏社会でもかなりの力を持ってるんだろう? 凪広和は表の顔、俺も会った事がある、いけすかねえヤツだった。それで、あんたはどちらかって言うと、裏社会の方の受け持ちって感じか」
希ララの言葉に紫龍は睫毛を伏せ、微かに笑みを零す。
「この間の未来ちゃんとのスキャンダルもあんたが揉み消したのか?」
「さあな」
紫龍の短い返事に、希ララは苛立ちを感じたのか、舌打ちをして手を握り締めた。
「単刀直入に聞く」
「どうぞ」
「未来ちゃんと別れたのか?」
希ララの問いに、紫龍は一瞬間を開け、ゆっくりと空を眺めると口を開いた。
「まあ、そうだな」
「なぜだ? 未来ちゃんはあんたの事、本当に好きだったんだぞ。あの時の、もみ消された未来ちゃんとあんたのスキャンダルだって、内心は嬉しかったはずだ」
「影崎和希、お前は未来の事が好きか?」
希ララは自分がした質問の答えとは違う言葉が返ってきたことに、一瞬怒りを覚えたが、紫龍を包んでいる静かな雰囲気に、自分の怒りのはけ口を見出せず、大きく溜息をついた。
「何なんだよ、その質問は、質問をしたのは俺の方だぞ。未来ちゃんは元気だよ、いや元気すぎるんだ、仕事だって意欲的にやってる。でもそれは何かを忘れようとしてるからじゃないのか? 悔しいが俺じゃあ、あんたの代わりにはなれない」
「そんな事をわざわざ言いに此処まで来たのか?」
「そ、そんな事!? お前は未来ちゃんの事をどう思ってるんだ」
「俺の気持ちなんて関係なく、アイツが俺をどう思うが、それは個人の自由だ」
「なんだよそれ! 未来ちゃんの態度を見ていればわかるんだ、あの女は応えてくれないような恋に期待するような女じゃない、凪紫龍、お前だって未来ちゃんの事、大切に思っていたんじゃないのか?」
「お前達みたいな単純な人間ばかりじゃない、俺にとって今必要なのは、自分の居場所を確保する事だ、そのために邪魔な物は排除する」
紫龍の淡々とした口調に、ついに希ララは苛立ちが頂点に達し、怒りへと移行する。
希ララは紫龍の襟元を掴みあげていた。
「未来ちゃんは、あんたに対してベタ惚れだって言ったんだ。あんな風に淋しそうに女らしい未来ちゃんを見たのは初めてだったんだ、それなのに何だよお前は、まさか……金持ちの坊ちゃんのただの遊びだったなんて言わねえよな?」
希ララは紫龍の顔を自分の方に引き寄せるようにそう激しく言った。
「……放せ」
紫龍の低く威圧的な声が響く。
心の中にまで染み渡ってくるような威圧感に、希ララは思わず手を放した。
「……ベタ惚れ……ね。まったく、あの馬鹿は……」
紫龍は溜息を付きながら、顔を伏せ頭を抱えるように髪の毛を掻き揚げる。
「影崎和希、お前はなぜ俺に未来の事を頼みに来た? 惚れているなら奪えばいいじゃないか」
「未来ちゃんは俺の思い通りになるような女じゃない、そんな事、あんただって知ってると思ったけど、だから、せめて未来ちゃんには笑っていてもらいたい、そう思っただけだ」
希ララは俯き、小さな声でそう言うと切なそうに睫毛を伏せる。そんな希ララを見つめ、紫龍は鼻で笑った。
「笑顔になってもらいたい? 俺には偽善にしか聞えないな」
「偽善? 俺のこの気持ちを偽善だと思うお前は、打算でしか物事を考えられないヤツだよ。まああたりまえか、ここまで大きな家を背負ってるわけだから、自分個人の感情で動くわけにはいかないよな、可愛そうな境遇だな、同情するぜ」
紫龍の冷たい言葉に、希ララは負けないくらいの憎まれ口を叩くと、紫龍の顔を覗き込んで、小憎らしい笑みを零す。
紫龍はそんな希ララの勝ち誇ったような顔を見て、愉快そうに軽く笑っていた。
「凪紫龍、本音を出せよ。お前は本音を一度も出してないだろう」
希ララは紫龍の瞳を食い入るように見つめる。
「なぜそう思う」
紫龍は柱に体重を預けると、冷めた瞳で希ララを見つめ、低く心地のいい声でそう聞いた。
希ララは瞬き一つしないで、紫龍の顔に近付く。希ララの瞳には紫龍の顔が映っていた。
「……勘」
そしてそう一言、真顔で言い、満面の笑顔を浮かべた。
さすがの紫龍も希ララのこの態度には面食らい、少し驚いたような表情を見せる。
「その馬鹿さ加減が羨ましいよ」
紫龍は希ララから視線を外すと、微かに唇を動かしそう呟いた。
「未来の事が邪魔だから排除するなんてのは、嘘だな?」
希ララは紫龍の横顔を見つめ、確信と願いこめてそう聞く。
「誰が未来を排除するなんて言った?」
紫龍は希ララと目を合わせる事無く、静かで弱々しい口調でそう聞き返した。
「ついさっき、言っただろう?」
希ララにそう言われ、紫龍は大事な部分を省いて言葉を言ってしまった事に気付く。自分の中の本音を知られたくないと言う気持ちが、無意識にそうさせていたのかもしれない。
「あれは……意味が違う……違う意味で言ったんだ」
紫龍は溜息とともに言葉を吐き、縁側に手を付くと気だるそうに額に滲んだ汗を拭った。
「どういう事だよ」
希ララは眉間にしわを寄せ、紫龍の言った言葉の意味を考えながらそう聞いたが、紫龍は唐突に面倒そうな表情を浮かべる。
「……もう夜も遅い、子供は帰って寝る時間だぞ」
紫龍はそう言ってゆっくりと立ち上がると、部屋の中へと入り机に置いてあった煙草に手を伸ばし、一本咥えた。
「誰が子供だよ、お前の本心を聞くまで絶対に帰らないからな」
そう言った希ララに対して、紫龍は冷めた目をして煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
「俺が感情に流され、自分の気持ちに素直に行動する事、それがかならずしも正しいとは思わねえ、俺が排除するって言ったのは、俺の中の感情を排除するって言ったんだ」
「ああ、面倒だな! どっちにしても同じじゃねえか! 結局、惚れてるって気持ちを押さえ込んで未来ちゃんを振ったって事だろう? 好きなら好きで一緒にいりゃあいいじゃねえか」
「勝手な事ばかり言ってんじゃねえよ……」
紫龍の言葉が途切れる。
手に持っていた煙草が畳の上に落ち転がった。
「おい! 煙草……」
希ララが落ちた煙草に視線を奪われたその時、紫龍の体がいきなり崩れ、その場に膝を付いた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
希ララは慌てて畳の上に落ちた煙草を拾い上げ、灰皿に入れると、紫龍の体に手をかける。
「……影崎和希」
押し潰されたような声が紫龍の唇から漏れ出す。
紫龍は手で頭を抑え、顔の線に沿って流れて落ちる汗を拭いながら、希ララを見つめるように顔を上げた。
「お前、どこか悪いのか?」
希ララの問いに紫龍は弱々しく微笑み、希ララの襟元を掴むと自分の方に引き寄せる。
希ララは一瞬、その寒々とした瞳に、吸い込まれるような感覚を感じていた。
「よく聞け……俺が未来に近付けばいやおうなく未来も危険に巻き込まれる。影崎、未来を大切に思うなら、俺という存在を未来に近づけては駄目なんだよ……それが未来を守るための唯一の方法だ」
紫龍の言葉が、希ララの頭の中をゆっくりと回っていた。
凍てつくような寒々とした瞳の中に深い悲しみが漂い、希ララは目を逸らす事も言葉を発する事もできなかった。
「未来を大切に思うなら、お前はお前のやり方で未来を守ってやって欲しい……」
紫龍はそう言って、静かに希ララの首元から手を放した。
希ララはゆっくりと畳の上に尻餅を付くと、少しの間何も言わずに宙を眺め、やがてゆっくりと口を開く。
「なあ、それはどうにもならないのか?」
希ララは頭を抑え俯いている紫龍に視線を移し、そう聞いた。
紫龍はゆっくりと顔を上げる。深い漆黒の瞳が微かに揺れていた。
何も言わず微かに皮肉っぽく笑うだけ。
希ララは、この沈黙の中に全ての答えがあるような気がした。
「最後に一つだけ聞かせてくれ、凪紫龍、お前は月島未来の事を愛してるのか?」
希ララは紫龍の瞳を射抜くように見つめ、真っ直ぐに質問をぶつける。
紫龍は漆黒の瞳を一瞬見開き、そして静かに優しく睫毛を伏せ、少しの間、無言になる。
何かを考えているのか、思っているのか、それは紫龍本人にしかわからない。
紫龍は髪の毛を掻き揚げると、視線を上げ希ララを見つめた。
「……たぶんな」
紫龍の言葉が凛とした響きを持ち、空気を揺らす。
「そうか……わかった」
希ララはそれだけ言うと立ち上がり、座り込んでる紫龍の横を通り過ぎ部屋から出て行った。
紫龍は深く息を吐き出すと、その場に倒れるように横になる。外から入り込んでくる風が髪の毛を揺らし、汗で濡れた頬を冷やして通り過ぎて行く。
「……未来」
微かにそう呟き、優しく微笑むと静かに目を閉じた。
希ララは離れを後にして芝生の上を歩きながら髪の毛を掻き毟る。
何とも言えぬ敗北感を感じていた。
「たぶんな……か、まったく素直じゃねえ」
希ララは溜息を一つつき、離れの方を振り返る。
「体調、悪そうだったな……あんな目で見られたら何も言えねえ、背後にある物がでっかすぎて、想像する事もできねえ……」
希ララも紫龍の雰囲気に、何かを感じていた。だがそれは確実な物ではなく、おおざっぱな形にならない絵のような物。
ゆっくりと夜空を見上げると、淡い月明かりの中に星が瞬いている。
希ララは重い足取りで凪家を後にしたのだった。




