〜馬鹿な鶏〜
「紫龍、どういう事だ?」
薄暗い部屋の中に時雨の重々しい声が響き、顔に深く刻まれたしわが、機嫌の悪さを物語っていた。
「……芹沢女史から連絡でもきたか?」
紫龍は時雨からの言葉を予想していたのか、顔色一つ変えずに微かな笑みを浮かべそう言う。
「芹沢女史本人からじきじきに電話があった、お前が仕事を怠っているとな、このままだと凪家に災いとしてふりかかると言われた、あの女はやるといったら本当にやる。お前、ターゲットの男をどうした?」
時雨の問いに紫龍は愉快そうに微笑むだけで何も言わない。そんな紫龍を見ても時雨は表情を変える事はなかった。
「当主としてあるまじき行為、お前らしくない……冷ややかで冷淡で冷静なお前はどこへ行った」
時雨の重々しい声が響く。
「当主としてしてはいけない事、俺らしくない……そうだな、確かに今までの俺にはなかった行動だな。だが意外にも、凪家にとって大事な大事な竜神様は、そんな俺を面白がってるみたいだぞ」
紫龍はそう言って、切れ長の瞳を時雨に向け真っ直ぐに見つめた。
「凪家の当主として許されない事をお前はしているのだぞ! この長きに渡って続いた凪家を潰すつもりか?」
「あんたは、何が大事なんだ? 自分の愛した者を捨て、凪家を選んだそのクソみたいなプライドが、そんなに大事なのか!?」
紫龍の言葉は冷ややかに響き、時雨はその言葉に苦笑し、その笑いは徐々に大きくなり、高らかに声を立てた。
笑い声がやんだかと思うと、時雨は畳を蹴り紫龍の懐へと入り込み、紫龍の喉元を掴むとそのままの勢いで柱に紫龍の体を叩きつけた。
紫龍は顔を顰め、うめき声を上げる。
「この時雨をあまく見るでないぞ、現役を退いたとはいえ、まだまだお前には負けん」
「言いたい事はそれだけか、このクソババア……あんたがやりたかった事を俺がやってやるって言ってるんだ。凪家なんてクソくらえだ、誰かがどこかで止めなきゃいけないんだよ……そう思わねえのか?」
鋭い目を向ける時雨に対して、紫龍は静かな口調でそういい、悲しく瞳を揺らしていた。
途端に時雨の表情が厳しい物から悲哀のに満ちたものへと変わり、唇を噛み締め紫龍の襟元を掴みあげている手が震えていた。
「誰かの指図の元に生きなきゃいけない苦しさ、あんたが一番知っているだろう?」
「……お前は何年生きてそんな事を言ってる? 全てを知ってる風な言い方をするな、わしの心の内など誰にもわからぬわ」
「ああ、わからねえな。わかろうとも思わない。俺はただ……自分がそうしたいからやってるだけだ」
紫龍はそう言いながら、時雨の手を掴み力を入れる。時雨は顔を顰め、紫龍の首元から手を放さざるをえなかった。
「……月島涼二」
紫龍の口から漏れ出した名前に、一瞬、時雨の顔が強張り、紫龍の手を払い除ける。何か触れられたくない場所に触れられたような表情をしていた。
「月島組、最後の組長……あんたが唯一愛した男だ」
「お前……何を……いや、これは愚問だな」
時雨はそう呟くと静かに後ずさり、唇を噛み締め、紫龍から目を逸らす。
「古より凪家の全てを見てきた龍神を宿しているお前に、知らない事など無い……と言う事だな。まったく小賢しい」
「昔は自分の尊敬する主君のために働いていた凪家も、いつのまにか何の尊敬もできない政府の犬になり、自分の意思や命を犠牲にしてきた。流さなくてもいい血を流す、そんなのは俺の代で終わらせる」
「甘いな……その考えこそがお前の身の回りにいる愛する者を危険にさらす。愛する者を守るため、そんな理由で今の考えが生まれたのだとしたら、それはきっと間違っている」
「何が正解かなんてその事が過去になってみないとわからねえ……」
「もしもお前が歯向かうのだとしたら、わしは迷わずお前を抹殺する」
「安心しな、その時は俺があんたを抹殺してやるよ。長く生きる事にそろそろ疲れただろう」
時雨と紫龍は静かに顔を見合わせ、意味ありげに微笑んだ。
廊下を誰かが歩いて来る音がする。
時雨にも紫龍にもその人物が誰であるかすでにわかっていた。
「紫龍様、お客様です」
そう言って姿を現したのは雪絵だった。
雪絵はその場の雰囲気に一瞬表情を曇らせる。何年もこの家に仕えているのだ、時雨と紫龍の間に不穏な空気が流れている事に気付かないわけがなかった。
「誰だ?」
「それが……希ララ様と言う方です」
雪絵の答えに紫龍はその睫毛の長い瞳を伏せ、微かに苦笑した。
「そうか、会いに行く手間が省けたな……離れへ通してくれ」
紫龍にそう言われた雪絵は一礼してその場をあとにする。
「龍神がお前を当主に選んだのは、何が目的だったのか……」
時雨は微かな声でそう呟き、紫龍を真っ直ぐに見た。紫龍は時雨の言葉に遠い目をして、ふっと笑うと時雨に背中を向け何も言わずに部屋を後にした。
そんな紫龍の後姿を時雨は静かに見つめ、一つ溜息を付き、乱れた髪の毛を手で押さえ直す。
「わしのしたかった事をやってやるだと……生意気なガキめが」
時雨はそう言うと、淋しそうに微笑み、部屋の奥にある仏壇の前に座る。
仏壇には時雨の夫であった男の写真が飾ってあった。
「紫龍……私は貴方と一緒になった事を後悔はしていません……貴方と同じ名前を受け継いだ紫龍のバカは貴方とは正反対の事をしようとしている。ですが、少しだけ応援したい気もするんですよ、貴方はそんな私を愚かだと笑いますか?」
時雨は微かにそう呟くと、仏壇の写真を手にして静かになぞり、また一つ溜息をついた。
縁側では青威と朱音が、飛び散ったガラスの破片を片付けている。包帯が巻かれた青威の足が痛々しかった。
誰かが歩いて来る足音が聞え、二人は音のするほうへと顔を向ける。そこには雪絵ともう一人、今、人気急上昇の希ララが歩いていた。
青威と朱音は雪絵の後をついて来る影を見つけ、顔を見合わせている。
「よく来たな」
紫龍の声がして、青威も朱音も紫龍の方を向く。
青威も朱音も訪れた人物が希ララだと言う事は知っていたが、なぜ紫龍を尋ねてきたまではわからなかった。
二人は紫龍と希ララのやりとりを静かに見つめていた。
「一度は会って話をしたいとは思っていたんだ。そっちから来てくれてありがたかったよ」
紫龍の言葉に希ララは失笑して唾を吐き捨てた。どうやら穏かな話ではなさそうだ。
「雪絵、ありがとう。もう戻っていいぞ」
紫龍はそう言うと離れへと向った。
青威は希ララと紫龍の様子を見ていて、二人の間ににわかに小波が立っているのを感じ、思わず声をかけた。
「紫龍!」
青威の声に紫龍は足を止め、迷惑そうな表情で振り返る。
「口出しするな。お前はお前らしく、自分のやらなきゃいけない事を考えろ」
静かな口調だった。だが青威の心にはその静けさがやけに浸み込み、心の奥深くまで突き刺さったのだった。
そんな複雑は心境が表情に表れたのか、紫龍は青威を見て微かに笑っていた。
紫龍は朱音と目を合わせる事無く、離れへと向う。希ララは不機嫌そうな顔でその後をついて行き、二人は離れの中へと姿を消した。
「何だよ……俺の心の中を全て見透かしたような目をしやがって……いけすかない」
青威は唇を尖らせ、柱を軽く叩く。
「痛い所をつかれたって感じ?」
朱音の可愛らしい声が頭の上から降ってきて、青威は苦笑いを浮かべた。
「……だな。非常に痛いね……でもまあ一つだけ本当に自分がやりたい事が見つかった」
「何?」
「……内緒」
「何よそれ!?」
青威の顔を覗き込んできた大きな黒い瞳に、青威は楽しそうに笑顔を見せていた。
「青威はやっぱり笑顔がいいわね」
「だろ? この青威様の笑顔があれば、どんな女でも落とせるぜ」
青威の言葉に、朱音は一瞬悲しみを帯びた瞳を揺らしたが、すぐにその瞳を隠すように満面の笑顔を浮かべた。
「うん、青威らしい!」
そう言って、青威の肩を軽く叩き、集めた硝子の破片をちりとりに集め、新聞紙で包んだ。その間、一度も青威と目を合わせようとはしない。
青威は柱を叩きつけた手を握り締め、目を合わせないようにしている朱音の揺れる黒髪を見つめていた。
「これは私が片付けておくね、じゃあ、私は部屋に戻るから」
そう言って背中を向けたまま青威から離れていく。
青威は離れていく足を見ながら静かに呼吸し、深い深い溜息をつき、傍にあった柱に軽く頭を打ち付けた。
「また余計な事言っちまった……大馬鹿な鶏君って所だな」
青威はそう呟き、その場に座り込むと、朱音が手当てしてくれた足を優しく見つめる。色濃く残っている龍緋刀の痣を手で押さえ、いつのまにかくっきりと姿を現していた月を見上げた。
「らしくねえ……いや、これは本来の俺なのか? 俺らしいって、いったい何なんだよ」
優しい風が栗色の髪の毛を揺らしていた。