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         〜目を背けない〜

 紫龍は怒りを露にする青威の顔を横目にゆっくりと足を進め、朱音に近付いて行く。

 朱音は芝生の上に膝を付き、擦りむいた頬に手を当て、向かってくる紫龍を心配そうに見つめていた。

 力を放ち余韻の残る朱音の瞳は、いつもなら金色に輝いているはずだが、今は綺麗な黒い色をしていた。

「大丈夫か? 悪かったな」

 紫龍の言った言葉は優しく穏かな響きを持っている。

 青威はそんな紫龍に向って、龍緋刀を握り締めたまま近付いて行った。龍緋刀は青威の感情に共鳴しているのか、活き活きとした光りを放ち輝いる。

 黒龍の動きと青威の感情に反応して、龍緋刀が姿を現したのだろうか、紫龍はそれを知っていて意図的に黒龍を使った……何のために……

 それを知るものはいない。真意は深い深い紫龍の心の底にあり、時雨や朱音であっても計り知る事はできないだろう。

 紫龍は朱音の手を握ると引っ張り上げ立たせた、黒髪が微かに揺れる。

 熱をおびた視線を向けられている事を知りながら、紫龍はそれをかわすように知らんふりを決め込んでいた。

 青威は龍緋刀の切っ先を紫龍に向けると、紺碧の瞳を陽炎のように揺らし、ゆっくりと唇を開いた。

「龍緋刀の継承者が俺だと、龍神を押さえきれなくなった時、お前を殺せるかと聞いたな?」

 青威の怒りに満ちた口調に、紫龍は口元を歪ませポケットにねじり込んでいた煙草を取り出し、曲がり今にも折れそうになっている煙草を咥えるとライターで火をつける。

「お前が朱音ちゃんを殺すような事はしない、それはわかっている。だけど、今回のやり方は許せねえぞ……何のために朱音ちゃんを襲った。何のために龍緋刀の封印を解く様な事をしたんだ。なぜ俺を騙した!」

 青威の瞳は怒りに満ちていた。何もわからない状態で、朱音が襲われるのを見た時、母親の事を思い出した。

 それがどんなに痛く苦しい記憶だったか……

 朱音を失いたくないと、傷付けたくないと、強く強く思い、そこには打算も何も無く、無意識の中で湧き上がる強い意志に突き動かされ、走った青威が存在した。

「今なら、龍神がどうだとか関係なく、お前を刺せる! よくも朱音ちゃんを傷付けたな……よくも……今回は本当にぶち切れた!」

 青威は遠い記憶に朱音の姿を重ね、悲痛な痛みを追い払うように、龍緋刀を振りかざす。怒りなのか悲しみなのか、青威の声は震えていた。

 紫龍は涼しい瞳をして煙草の煙を吐き出す。

 朱音が咄嗟に紫龍を守るように青威との間に入ろうとした瞬間、何者かが素手で龍緋刀を掴みあげた。細く枯れ木のような腕を血が流れて伝う。龍緋刀にも血が流れていた。

「時雨ばあさん」

 青威の声は震えていた。

「お前達、いい加減にせぬか……まったくどいつもこいつも、凪家の長い歴史の中でも類を見ない愚か者ばかり、紫龍、当主であるお前までもが何をしている。遊んでいる場合ではないだぞ、判っておるのか」

 静かだが力のある威圧的な言葉を時雨は、青威、朱音、そして紫龍に投げかけた。

 青威は手が震えていた。怒りに支配されていたとはいえ、自ら刀を振り上げ、紫龍を切ろうとした自分、そして今、時雨の腕を血が伝い流れている。それを目にした途端、足は震え握っていた手には力が入らなくなり、柄を離していた。

 龍緋刀は芝生の上に落ち、血を浴び、なお鮮やかに光を放っているように見え、青威の心には寒気が走り、手足が冷たくなっていた。

「……青威、傍に近付く事で、相手を傷つけ、自分自身も傷つく事があるかもしれない。だが、それは本当に大切な者を失う痛さに比べれば、たかがしれている……お前ならその事を知っているはずだ。自分の本当の心に目を向けろ。お前は俺とは違う」

 紫龍の言葉は淡々としていた。それは何か自分自身の中にも言い聞かせているようにも聞えた。

「何だってんだよ……わからねえよ……俺はただ、ただ……もう二度と失いたくない、それだけだ」

 青威はそう言うと、芝生の上にガックリと膝から崩れ座り込み、肩を震わせていた。

 空気を微かに揺らして泣き声が響く。一瞬柔らかい風が吹いたような気がした。朱音がフワリと優しく青威を抱きしめた。それはそれは愛おしいそうに。

 紫龍はそんな朱音の姿に苦笑いをし、少しして溜息とともに表情を緩めたのだった。

「紫龍、ちょっと話がある」

 時雨は冷ややかに厳しい響きのある口調でそう言い、流れ出る血を手で押さえている。かなりの深手のはずだが、顔色ひとつかえず立っている姿は、さすがと言うべきものかもしれない。

 紫龍は黙って、時雨の後をついて母屋へと向った。 


 朱音の体温が青威を温める。

 青威は拒絶しながらも、心の奥底ではそれを望んでいる自分がいる事を、痛みが走るほど知っていた。

「朱音ちゃん、俺は……どうしたらいいのか、わからない」

「うん」

「朱音ちゃんの事、好きなんだ……大好きで、大好きで……何回言ってもたりないくらいなんだ」

 青威の震える声を静かに聞きならが、朱音はより一層力をこめて青威を抱きしめた。

「だけど……怖いんだよ……」

「うん」

 青威の言葉にそう言うのが精一杯な朱音だった。 

 小刻みに震える青威の内側から滲み出てくる、痛々しい不安という名の恐怖を朱音は体全体で感じていた。

「青威、ごめんね……私が弱いばかりに青威に重荷を背負わせてしまった」

 朱音はそう言うと、芝生の上に落ちていた龍緋刀に触ろうとした、途端にまるでそれを拒むかのように龍緋刀は光り輝いた。

 青威もその眩い光に驚き顔をあげる。

「私はお役御免って事なの……何なのよ……この刀を私が持っていたために父も母も亡くなったようなものなのに……やってられない。いったい何なのよ」

 朱音の心の中には幼い頃からずっと凪家に対してわだかまりがあったのだろう。だが、この家に引き取られ、この家の人間になった以上、凪家のやり方に従うほか選択肢がなかった。

 だが、青威という大切な存在が現われ、少しずつ変わろうとしていた。

「龍緋刀は青威を主人だと認めた、こんな古めかしい歴史に束縛された凪家なんかに連れてこられて、こんな事に巻き込んでしまった……本当にごめんなさい」

 朱音は切なそうに胸を押さえてそう言い、黒い瞳を揺らしながら青威の顔を覗き込んだ。

 青威は涙を拭い、大きく深呼吸をすると、龍緋刀に手を伸ばし柄を握る。朱音の時の様な光ではなく、活き活きとした力漲る光りを放っていた。

「紫龍の事だとか、この龍緋刀の事だとか、色々腹の立つことも多いけど、凪家にきて朱音ちゃんに会えた事は本当にラッキーだって思ってる。こんな気持ちになって、俺自身が一番驚いてるんだ……だけど、ごめん……俺は臆病で軽くて駄目人間なんだよ」

「もういいよ! それ以上言わなくもいい……遠まわしにふられたって事でしょう」

「いや、ちが……」

 青威は言葉を飲み込み、龍緋刀を力をこめて握り締めた。

「何も違わない……」

 朱音はほんの少し怒りの混ざった淋ししそうな口調でそう言い、視線を芝生に落とすと動かなかった。

 泣いているのか!? 一瞬そう思ったが、すぐにそれとは違う事がわかった。かすかだが笑い声が響いてきたのだ。

 青威は不思議そうに朱音の黒髪を見つめていた。

 顔を上げた朱音の瞳はまるで漆器のように美しい光りを放っていた。

「青威、許すには条件があるわ」

「何?」

「私の事、朱音って呼んで、そうしたら許してあげる。さっき、呼び捨てにしてくれた時、本当に嬉しかった」

 本音だったのか、強がりだったのか、それは本人である朱音でしかわからない。

 青威は少し驚きを見せたが、ゆっくりと口を開いた。

「……ア……カネ」

 微かな声が空気を揺らす。青威の顔は柄にもなく真っ赤だった。

「聞えない」

 朱音は一歩、青威に近付き、楽しそうにニコニコと笑っている。青威は溜息をつき、またゆっくりと口を開いた。

「朱音」

 今度ははっきりと青威の声が響く。朱音は切なそうに笑い、ゆっくりとした優しい動きで青威に抱きついた。

「青威の気持ちが変わらなくても、たぶん私の気持ちは変わらない……待つ事を許してくれる?」

 優しい心地いい声が青威の耳元で響き、青威は自分の中のどっち付かずの気持ちに苛立ちを感じていた。

「……めいわ」

 青威は口からでそうになった言葉を飲み込んだ。

 一瞬、迷惑だ、と言いそうになったのだ。心にも無い言葉だった。これから先も朱音の気持ちに答えられる自信がなかった。

「朱音ちゃ……朱音がそれでいいなら待つのは自由だから」

 青威は咄嗟にそう言い換えた。

「ありがとう」

 朱音はそう言うと、静かに青威から離れ微笑む。どこか悲しげな影を差しているように見えた。

 青威は龍緋刀を自分の前にかざす。

 大切な者を守る。青威はそう心の中でそっと呟いた。

 龍緋刀は一瞬闇をも突き抜けるような眩い光を放つと、忽然と姿を消し、青威の腕には痛みが走る。右腕には刀の形のような痣ができていた。

 青威は心の中で決意する。もう眼の前の現実から逃げないと、自分の心に巣食う過去が自分を苦しめたとしても、痛みを感じながらでも前に進む。そう強く思ったのだった。

 

 青威はそっと母屋の方を向く。

 迷惑だと言いそうになった……紫龍、お前の棘のある言葉の意味を、本当に理解できたような気がするよ。

 そう心の中で呟いたのだった。

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