〜心の奥底〜
ぼんやりと浮かぶ月の光りを揺らすように風が強く吹く。
縁側に立っている紫龍の髪の毛と青威の髪の毛が鬱陶しいほどに揺れ、視界の邪魔をしている。
熱のせいなのか、弱々しい足取りで紫龍は芝生の上に降り立つと、ちょうど敷地を囲っている塀の上に黒い塊のような影が現れた。
それは形という形を持っておらず、突っ立っている二人に威圧感を与えながら、ゆっくりとした動きで塀の上からドロリと鈍く低い音を立てながら、芝生の上に流れ落ちた。
その液体のような黒い影は、紫龍達の方に向かうような様子を見せたが、何かに引き寄せられるように母屋へと、急に方向転換する。
先ほどまでのドロリとした鈍い動きが嘘のような俊敏な速さに青威は驚き、咄嗟に黒い影の先を走るように母屋へと走り込んでいった。
青威の脳裏には直感が走り、体は考えるよりも先に反応して動く。
この黒い影は朱音を狙っている。そう確信していたのだ。
そんな青威の姿に、紫龍は微かに唇の端を歪ませ、静かにぼんやりと浮かぶ月を見ているだけだった。
一方、青威は、黒い影の前へと回り込み遮るように立ちはだかる。もの凄い勢いで動いてくる影は、青威を眼の前にしていきなり飛び、青威の体にぶつかるように体当たりすると、青威の体ごと母屋の縁側の硝子戸を叩き割った。
空気を劈くような音が響き、硝子の破片が飛び散ったかと思うと、影は縁側をつたうように進んでいく。先ほどまでの凄まじい勢いは無く、まるで青威を誘き寄せているかのように見えた。
青威は硝子の破片など目に入らないのか、縁側に散らばった硝子の破片を踏みつけ、足からは血が滲んでいる。
頭の中は、眼の前の黒い影と朱音の事で一杯で、痛みなど感じていなかったのだろう。青威は黒い影に誘われるままに血の足跡をつけながら後を追った。
硝子の割れる音に誘われ、朱音が走ってくる姿が、前の方から見えた。青威の視界にも朱音の姿がはっきりと映る。途端に黒い影は速度を上げ、朱音に向って真っ直ぐに突進していった。
朱音の表情が途端に固まり、足が止まる。黒い影は朱音の眼の前まで迫っていた。
「朱音!!」
青威の叫び声が空気を揺らすように響き渡った、次の瞬間、朱音の右目から眩いばかりの光りが発せられた。
光りは夜の闇を溶かすように広がり、家全体を包み込む。黒い影はその光りに怯んだのか、一瞬動きが鈍る。
今だ! 青威はその隙に光りの中を走り、黒い影の上を大きく跳躍すると朱音の前に立ち守るように両手を広げた。
「……何だ、これは」
青威の眼の前に、一つの刀が現れる。その正体が何であるかを青威は気付いていたが、思わず自分自身にそう問い、眼の前の現実を幻だと思い込みたかったのかもしれない。
刀が青威を眼の前にして美しい光りを放つ。
長さにして一メートル弱、柄には龍が象られ、龍の目には緋色の石が輝いてた。
青威はその美しさに魅了され、光りに導かれるかのように静かに手を伸ばし、柄に手をかける。握った瞬間、今まで辺りを覆っていた光りが一瞬にして、刀に吸い込まれるようにして消えうせてしまった。
「……龍緋刀」
青威は自分の手に吸い付くように馴染んでいる刀の感触にそう呟き、背後に朱音の気配を感じながら、眼の前の黒い影に向けて刀を構えた。
空気が緊迫していた。風の気配すら感じない。その場を共有している者だけの呼吸だけが微かに響いていた。
黒い影は眼の前で形を変え始める。山のように盛り上がると青威の身長を超え、人間の形を象り長い黒髪の美しい男へと変貌する。
白い肌に形の良い美しい唇を歪ませ、冷ややかに笑っていた。
「その女、貰い受けに来た」
黒髪の男は静かな口調でそう言い、フッと青威の眼の前から姿を消す。
「キャー!」
朱音の声に、青威の心にひんやりと冷たい感触がつたい流れ、後ろを振り向くと、黒髪の男が朱音を羽交い絞めし、連れ去ろうとしていた。
青威の手に力が入る、振りかざした刀は光りを放ち、黒髪の男の頭を叩き割った、はずだった。だが、刀はただ空を切る音を響かせ、振り下ろした刀の先には男の姿は無く、朱音が力なくその場に座り込んでいた。
「朱音ちゃん、大丈夫?」
青威の声に顔を上げた朱音は弱々しく微笑んだ。
「ごめんね、青威」
朱音がなぜ謝ったのか、この時の青威には理解できなかった。ただ笑みを見せ、声を出しくれたくれた事に安堵し、優しい笑みを朱音に返したのだった。
「クククク」
黒髪の男は軽く笑い、夜の闇と同化する様に立っている。
「お前は何だ!?」
青威は振り向きざまにそう叫び、紺碧の瞳を鋭く輝かせると、男に向って切っ先を向けた。
「お前にはその女は守れん……命あるうちにその女を渡せ」
黒髪の男は青威の問いには答えず、愉快そうに笑いそう言うと、また姿を消す。まるで青威を弄んでいる様だ。
突然、青威のすぐ眼の前に男が現れる。咄嗟に切りかかるが、また姿を消す。
何度切りかかっても、勢い欲空を切る音だけが響き、結果は同じだった。
青威は必死であった。自分自身が龍緋刀を手にしている事や、それがどんな意味を持つかなど、今は考える余地も無く、今眼の前にいる朱音に害をなす存在を消し去る事で頭が一杯だったのだ。
「クククク」
愉快そうに笑い、黒髪を掻き揚げる男を見て、青威はどこかで感じた事のある雰囲気を感じ取る。
何処だったか、必死に記憶を辿るがすぐには思い出せなかった。
「そろそろ、お前の命もろとも女を貰うぞ」
男は黒髪を揺らしたかと思うと、青威のすぐ目の前に立ち、掌を広げ青威の額に手を当てる。刀を振りかざす余地もなかった。
青威の喉元から唾を飲み込む音が聞えてくる。
もう駄目だ! そう思った矢先、青威の視界から黒髪の男が吹っ飛ばされるように消える。青威は一瞬、何が起こったのかわからなかったが、男が飛ばされた方を見ると、そこには男に掴みかかる朱音の姿があった。
「青威には手出しさせない!」
いつものような柔らかな雰囲気に包まれている朱音はそこには無く、闇を突き抜けるような、一本筋の通った強い精神を感じさせる朱音が存在した。
朱音の内なる強さが力となり、黒髪の男を押さえつける。
力では負けるであろうが、精神力では負ける雰囲気を感じさせなかった。だが、それも長くは持たず、艶やかな朱音の黒髪を男は鷲掴みにすると、投げ捨てるように自分の体から引き離す。
朱音の体は芝生の上を転がり、上げた顔は傷だらけで頬かには血が滲んでいた。
「朱音!!」
青威はそう叫び、キッと黒髪の男を睨みつけると、次の瞬間高く跳躍して刀を男目掛けて振り落とした。
男に刃先は当たらない、だが男の頬は何かで切れたようにパックリと口を開け、血が噴出していた。
今まで余裕の表情を浮かべていた黒髪の男は、一瞬にして表情を変え、刃の如く青威に視線を突き刺し、頬から流れ出る血を拭いニヤリと笑う。
青威は呼吸をする間もあけずに男に切りかかる。男は身軽に風に舞う羽のように後ろへと跳躍する。そこには紫龍が立っていた。
「紫龍!」
青威は思い切り叫ぶ。紫龍は微動だにせず、黒髪の男が自分の横に立っているにもかかわらず、冷ややかな視線を青威に向け、フッと目を伏せた。
「……まったく、とんだ茶番に付き合わされちまった。だが、収穫はあったな……今回の龍緋刀の持ち主は面白い、紫龍、相変わらず変わったものが好きだな」
緩やかに風が吹き、黒髪を靡かせ男はそう言うと紫龍を見つめる。
黒髪の男の言葉、紫龍の態度を見ても、青威には眼の前で起きている現実の真意が読み取れなかった。
「どう言う事だよ……紫龍」
青威の問いに、紫龍は顔を伏せたまま答えない。
「我が名は黒龍、この凪家と契約を交わした龍神なり」
黒龍と名のった男はそう言うと、興味ありげに青威を見ると愉快そうに笑っている。
それは青威にとって不愉快極まりないものだった。
黒龍はふと母屋の縁側を歩いて来る足音に聞き耳を立て、音のする方に目をやった。
途端に不機嫌な表情を浮かべ、近づいてくる人物を睨みつけるように見る。
「紫龍、お前何を企んでいる」
そう言って、騒ぎを聞きつけ出てきたのは時雨であった。いつになく厳しい表情を浮かべ、紫龍を見つめると視線を動かそうとはしなかった。
顔を上げた紫龍の瞳は怒りに揺れている。
「別に」
短い言葉ではあったが、そこには奥の深い感情が絡み付いているように感じた。
「時雨ばあさんは、この状況の意味を知っているのか?」
「わしが知るわけ無いだろう、ここの所の紫龍の行動は凪家の当主としてそぐわぬもの、いったい何を考えておる」
厳しい口調で言葉を紡ぐ時雨を馬鹿にするように、紫龍は目を逸らすとゆっくりと口を開いた。
「俺は俺の生きてるうちにやらなければいけない事をしてるだけだ」
「何だよ、今回の事もそれと関係があるのか!?」
青威は手にしていた龍緋刀に力をこめ、責める様に紫龍に激しく言う。
「お前、本当に鈍感だな……人間、追い詰められた時に深く眠っている本心が顔を出す。一番大切にしたいもの、そして今何をすべきなのか、今、自分が感じた事を大切にした方がいい。大切な者を失ってから、気付いてももう遅いぞ」
紫龍が淋しそうな表情とともにそう言うと、隣に立っていた黒龍が頬の拭い手に付いた血を見て、愉快そうに笑い青威を見つめた。
「さすがに龍緋刀で傷つけられた傷は治りが遅い……いつの日か、また戦う事もあるかもしれないな青威、その時を楽しみにしている」
黒龍はそう一方的に言うと、一瞬にして光りと化し、まるで雷が落ちるように紫龍の体の中へと入っていった。
「龍神……紫龍の中に宿っている……今この場で起きた事は、全部お前の仕業なのか!?」
青威は驚きと怒りを混ぜたような表情で、紫龍に食いつくように叫ぶと、紫龍は何も言わず、ただ目を伏せるだけだった。
朱音は紫龍の心を把握しているのか、青威とのやり取りを心配そうに揺れる瞳で見つめていた。