震え揺れる心 〜好きなのに〜
緩やかに風が吹き、青威の頬を優しく撫でていく。
不思議な夜であった。空は晴れている。だが月は出ていない。
縁側に胡坐をかき、青威は月の無い空を眺め、心の中の雑音に耳を済ませる。
こんな事は初めてだった。
求めていたのかもしれないし、避けていたのかもしれない。自分自身が深く人を愛し信頼する事から逃げていた。
上辺だけの笑顔で愛を語り、深みの無い言葉を吐き、浅い所で心を通わせる事で、傷つかずすむ方法を自然ととってきた。
「好き……だな」
青威はしみじみと一言そう言いながら、悲しく笑い顔を伏せる。
「俺って馬鹿だよな」
青威は今日の昼間、自分がしてしてしまった事、そして考祥に言われた言葉を思い出していた。
それは昼食時間に起こった。
いつものように皆でお昼を囲み、和気藹々とおしゃべりしながら食事を取っていた時の事である。
「あれ、飲み物買うの忘れた」
青威は自分が飲み物を買うのを忘れた事に気付き、周りの皆が持っていた飲み物に目をやる。そんな青威に対して一番最初に手を上げたのは朱音だった。
「青威、これ飲んでもいいよ」
朱音は自分が飲んでいたお茶を差し出してニッコリと笑った。
青威は嬉しかったはずである。だが、あの河川敷の口付けの件から一週間は経とうとしているのに、二人の距離は近付く事無く、むしろ気まずさが増してしまっていた。
青威は朱音から目を逸らすように桃子の飲み物に手を伸ばし、無断で掴み上げると飲んでしまう。周りの視線が青威へと集まり、気まずい空気が流れた。
桃子や涼香、考祥も委員長も二人の間に目に見えない距離を感じ、何かがあったという事だけは薄々感ずいていた。
朱音は悲しそうに苦笑いを浮かべて、青威へと差し出したお茶を小さな可愛らしい自分の唇へと運び、一口飲んだ。
青威の朱音を痛めつけるような姿を見て、桃子はもちろんの事、周りの皆も唖然とする。
此処最近の青威の朱音への態度は、それまでの青威の物とは思えぬほど、無神経で残酷なものと皆の目には映っていた。
「桃子ちゃんのお茶、美味しい。ありがとう! さて俺は一足先に教室に戻ってるわ」
青威もさすがにその場にいずらくなったのか、腰を上げると半分は残ってるお弁当を持ってその場を後にしていしまう。
青威の背後で、朱音をいたわる声と青威への批判の言葉が響いていた。
なぜ、あんな事をしてしまったのか!?
青威自身が一番自分に対して疑問に思っていたのかもかもしれない。ただどうにも答えを出せず、どうしていいのかも見出せなかった。
教室に向う青威の背後から走ってくる足音が聞え、青威は不意に後ろを振り返った。考祥がすぐ傍まで来ていて、いきなり青威の襟元を掴みあげると校舎の壁に青威の体を叩きつけた。
反動で持っていたお弁当が芝生の上に転がる。
「いってえな」
「いい加減にしろ!」
青威は顔をしかめ迷惑そうに言葉を吐き出し、考祥は細い目で青威を睨み、自分の中で怒りを噛み潰すように言葉を捻り出す。二人を包む空気が熱気をおび、そこだけ気温が上がったような気がした。
「お前、朱音さんの事、好きだったんじゃねえのかよ!?」
考祥の真っ直ぐな言葉が青威の心に容赦なく突き刺さってくる。
青威はその言葉から逃げるように、考祥から目を逸らし、自分の襟元を握り締めている考祥の手を掴みあげた。
青威の握力の凄さに考祥は顔を顰め、掴んでいた手を放すしかなかった。
「……どうしたらいいのか、わかんねえんだよ」
青威の聞えないと思えるほどのかすれた声が響く。
「何だ、それ?」
考祥は訝しげに顔をしかめると、伏せられた青威の顔をその細い目で覗き込んだ。
「意識すればするほど、なぜか、遠ざけちゃうんだよ……自分でもどうしたらいいのか、どうしたら前みたいにできるのか、思い出せないんだ」
青威の声はだんだん小さくなっていき、最後の方は微かにしか聞こえなかった。
「お前は贅沢なんだよ。朱音さんに思われて、お前自身も好きなのに、何が遠ざけてしまう、だよ。俺なんか朱音さんにどんなに優しくしてもいい人止まり、俺の方こそどうすりゃあいいんだよ! 情けねえ顔してんじゃねえよ」
考祥はそう言いながら、青威の栗毛の髪の毛を掴み上げ持ち上げると、青威の顔を無理矢理に上げる。
紺碧の瞳は迷子の子供のように揺れていた。
「自分の好きな人を傷つけるなんて、お前みたいなヤツを見てると胸くそが悪くなる。ただの臆病者なのか? それとも冷酷なのか? この栗毛全部ひん剥いて、切り刻んで焼き鳥にでもしてやろうか!? このチキン野郎」
考祥の言葉を青威はただ静かに聞いていた。怒るでもなく悲しむでもなく。素直に考祥の言葉を受け入れ納得しているようにも見えた。
「何とか言えよ」
「……俺はどうしたらいいんだ……どうしたら……こんなはずじゃ、俺だって朱音ちゃんを傷つけたくはない……なのに」
考祥は青威の髪の毛から手を放したが、まだ怒りがおさまっていないようだった。青威は声を震わせ、手で顔を覆う。
「ああ、うざってえな! なんでお前じゃなきゃいけないんだよ。あんな朱音さんを見るの初めてだよ。お前の言葉や行動に笑ったり、泣いたり……くそったれ!」
考祥はそう言いながら、震える拳を一瞬振り上げたが、青威の顔を殴る事はせずそのまま手を下ろし、顔を伏せるとその場に力なくしゃがみ込んだ。
体が小刻みに震えている。泣いているようだ。
「俺はお前の味方にはなれねえぞ、自力で何とかしろ。いいか、もう一度朱音さんを傷つけるような事をしてみろ、その時は容赦しねえ、覚悟しておけ!」
考祥はそうかすれた震える声で言うと、青威に顔を見せる事無く、立ち上がり朱音達の所に戻っていく。その後姿にはまだ怒りの色が見えていた。
青威は薄い雲がかかった空を見上げて、自分をあざ笑うかのような笑みを見せる。
「……傍にいてもらってもいいのかな?……朱音ちゃんはずっと俺の傍にいてくれるだろうか?……なあ、母さん」
微かな声でそう呟き、静かに目を閉じた。
そんな事があり、青威は改めて自分が臆病者だという事を思い知ったのだった。
いつのまにかワタゲが青威の横で丸くなり寄り添っていた。
青威は太もも辺りにワタゲの体温を感じ、柔らかい笑みを浮かべながらワタゲを見つめる。緩やかな風がワタゲの黒く柔らかい毛を揺らしていた。
「お前のご主人様はいったい何処にいったんだ? 電話をかけても繋がらない、メールをしても返事はすぐに返ってこない。メールが来たと思えば向こうから来る一方的な内容だけ、しかもいつも時雨ばばあ宛てにだ。俺はまあ、どうでもいいが、朱音ちゃんが心配してる。それにお前だって淋しいよな?」
青威はそう言いながらワタゲの黒い毛を優しくなでる。
ワタゲは可愛らしい高い声を上げ鳴いた。
風に運ばれてくる何かの匂いを青威は感じ、ふと顔をあげ紫龍の離れへと目をやる。
一瞬、紫龍の気配を感じたのだった。
「まさかな……俺にそんな事がわかるわけ……」
青威はそこまで言いかけて、何かを思い出し様な表情を浮かべた。
幼い頃、母親の帰りを待っていた時、母親が姿を現す前に似たような現象がよく起きていた。青威はそんな事を思い出し、今まで思い出そうとしなかった幼い頃の思い出に、ほんの少し安らぎを感じていた。
家の門の方から人の気配がする。外灯の光りに映し出されたのは紫龍の姿だった。
一週間ぶりの帰宅である。
青威は自分が感じた感覚に苦笑いを浮かべ、自分の中に眠っていた力が確実に目を覚まそうとしてるのを感じ取っていた。
「よう、久しぶりじゃねえか、未来さんと逃避行でもしてたのか?」
青威の言葉に、紫龍の足は止まり顔を上げた表情は、相変わらず冷たく厳しいものだった。
「……なわけないか、未来さん、昨日生放送のテレビに出てたみたいだし、あの時の流出情報もデマって事であっと言う間に片付いたしな。お前が手を回したのか?」
「……さあな」
そう言った紫龍の表情がほんの少し和らいだように見え、青威は紫龍の中で未来の存在が大きくなっている事を感じ取った。
「で、お前は何処に行ってたんだ?」
青威の問いに、紫龍の表情が一段と厳しくなり、唇を固く結びただその場に立っていた。
どこかやつれたような、静かで存在している事が薄くなっているような印象を受け、青威は心の中に寒々とした風が吹くのを感じた。
いてもたってもいられなくなり、靴下のまま青々と茂った芝生の上を足早に歩くと、紫龍の元へと近付いていき、顔を覗き込むようにして紫龍の瞳を覗き込む。
「何か、あったんだな?」
それはもう青威の中では、疑問ではなく確信であった。
紫龍は青威の瞳を見つめると、冷めた瞳をしていつものように鼻で笑い、ゆっくりと口を開いた。
風の音に消されてしまうような微かな声が、青威の耳に届き、大きな衝撃として心を激しく揺らした。
「人を殺してきた」
紫龍は確かにそう言ったのだった。