〜騒動〜
二時間目も終わりに近付いていた。
青威は憂鬱な気分のまま、隣に座っている紫龍とは言葉を交わす事も、視線を交わす事もなく、嫌な雰囲気の中、同じ時間を共有していた。
なにやら廊下が騒がしい。
授業中の廊下は、普段ならばこんなに騒がしくはないはずである。
遠くの方から走ってくる足音が聞こえる。
その時だった、青威の隣で立ち上がる気配がして、すぐ後ろにあるドアの開閉する音が聞えた。
青威は咄嗟にドアの方を見るが、すでに紫龍の姿は無かった。
いきなり教室の前側にあるドアが開き、望月が入ってくる。
「照山先生、大変です。根元安子が屋上から飛び降りようとしているんです。先生急いで!」
照山は一瞬、顔を強張らせ額の汗を拭った。安子の担任である立場の表情とは思えぬ顔であった。
根元安子は照山が担任をしている三年D組の生徒で、目立たぬ空気のような雰囲気の少女であった。
いったい、何があったと言うのだろうか。
屋上にはすでに他の教師や、やじ馬である生徒達が集まっていた。
その中に青威の姿もあった。
眼の前には柵を背にし、黒髪を両端で結んだ、決してお世辞にも明るそうなと言えない少女が立っている。
顔は涙で濡れ、悲愴感が少女を包んでいた。
「ね、根元、馬鹿なことは止めなさい。話はちゃんと聞いてあげるから」
照山は、集団の中から足を踏み出してそう言う。
「嘘よ! 先生はいつだって、聞いてくれなかったじゃない」
その言葉に周りの生徒達がザワザワとざわつき始める。
安子は涙で濡れた瞳を見開き、後ろに後ずさって行く。
背中が柵に当たり、動きを止めた表情は、切羽詰った雰囲気を感じさせた。
生徒達の中から、一つの影が飛び出し歩いていく姿が見えた。
漆黒の短い髪の毛が風に揺れ、濃紺のワイシャツに濃紺のズボンの後姿。
紫龍であった。
青威はその行動を見て驚く、青威だけではない他の生徒も、教師達もだ。
この状況下で行動に出ると言う事は、眼の前の少女の未来を左右する事に繋がるという事を、その場にいる誰もが知っていたからである。
そんな中でただ一人、望月だけは心配そうな表情で紫龍を見つめていた。
「死にたいなら、こんな所じゃなくてもっと目立たない場所で、ひっそりと死ねよ」
紫龍の口から出てきた言葉は、何の抑揚も感じない冷ややかな言葉であった。
生徒達の間にどよめきが走る。
「いじめられて、それで死ぬのか? 現実と戦う強さが無いなら、生きてたってしょうがねえよな? 生きていても意味のない存在って事だな」
紫龍は真っ直ぐに安子の瞳を見つめて、近付きながら淡々と言葉を紡ぐ。
「あんたなんかに、私の気持ちはわからないわよ!」
安子は紫龍の冷たい黒い瞳を睨みつけながらそう言い、柵に手を掛けた。
生徒達の間から悲鳴が上がっている。
「ああ、わからねえな。この世に自分の気持ちをわかるヤツなんているわけねえだろ! 口に出して君の気持ちがわかるって言ってるヤツは、自意識過剰の偽善者だ。自分の気持ちをわかって欲しいなんて考えが、甘いんだよ……お前、本当に死にたいと思ってるのか?」
紫龍の黒い瞳は氷のように冷めたい。そこには何の感情も感じなかった。
その瞳に、安子は怯えているようにも見える。
紫龍は表情を変えずに安子の隣まで歩いてく。安子は動けないでいた。
手を伸ばせば安子の腕をつかめる位置であった。だが、紫龍は手を伸ばす事もせず、安子の耳にだけ聞えるような声で言葉を囁く。
「死ぬって事がどんなに醜い物なのか、見せてやるよ」
その声は風のように優しい響きではあったが、安子の心に氷の欠片のように突き刺さったのであった。
一瞬、青威の中に声が響いたような気がした。言葉としてではなく感覚的なものである。
「紫龍、やめろ!」
青威は咄嗟にそう叫んでいた。何がどうしてそんな事を口走ったのか、青威本人にもわからなかった。ただどうしても紫龍を止めなければならないような気がしたのだった。
紫龍はその声に笑みを浮かべると、柵を身軽に超え、十数センチしかない足場に立つ。そして右手を前に出すとそのまま前へと倒れて行き、一瞬にして紫龍の姿は校舎の陰に隠れ見えなくなってしまった。
「きゃあああああ!」
生徒の悲鳴が響き渡り、安子はその場に崩れるように座り込んだ。
青威は紺碧の瞳を見開き、柵に走り寄ると下を覗き込む。
すると眼下に、校舎の端をしっかりと掴む、紫龍の手を見つけたのだった。
紫龍は落ちてはいなかった。あの状態で校舎の端に手を掛け、体重を支えるなど、類まれな運動神経の持ち主以外ありえない。
紫龍は自力で這い上がり、柵を越え屋上に立つと、冷めたい目で安子を見て、微かに微笑んだ。
「お前な!」
青威は自分の中のどうしようもない程の怒りを紫龍にぶつけ、思い切り握った拳で紫龍の頬を殴る。
紫龍の唇には血が滲んでいた。
「青威、俺はお前の母親じゃねえよ」
紫龍は青威の心を見透かしたように、静かな口調で言葉を口にする。
その言葉に青威は、自分の怒りが何処から湧き上がるのか、わかったような気がした。
そいて咄嗟に出た紫龍への言葉が、自分の中に眠っていた心の叫びだと言うことも悟ったのだった。
もう二度と、自分の目の前で人の死を見たくは無い……。
青威の悲しみの中から生まれた、切なる願いであった。
白衣を着た女の教師が、安子、青威、紫龍の元へと近づいてくる。
真っ赤な口紅をひいた唇が印象的であった。
この女教師の名前は、露原麗子、保険医をしている。
普通ならば、すぐさま安子の所へと向うと思われがちだが、露原は紫龍に近付き、優しく微笑んだ。
「凪君、大丈夫?」
なぜ、まず紫龍に近付いたのか、この時の青威には皆目見当もつかなかった。
紫龍は長い睫毛を伏せ、鼻で笑いながら俯いていた。
その紫龍の仕草に安心したのか、露原は紫龍から安子へと視線を移す。
「さあ、根元さん、私が話を聞いてあげるから、保健室に行きましょう」
露原はそう言い、座り込んでいる安子を立たせると、肩を抱いて生徒達の間を擦りぬけるように歩き、生徒達の真ん中辺りで足を止める。
ゆっくりと上げた瞳は、鋭い眼差しを放っていた。
「根元さんがこんな行動をとるような原因を作った生徒も、それ以外の生徒も、今自分達の目の前で見た現実について考えなさい」
露原はそう言うと、安子を連れ屋上を後にする。
こうして、凄まじい嵐のような自殺騒動が幕を閉じた。
それぞれの教師が、自分達の生徒を教室に連れて行く。
「学級長、皆と先に戻ってくれ、俺はこの二人に話がある」
望月はそう言い、青威と紫龍の二人を指さした。
学級長はその言葉に頷き、屋上に集まっていたクラスの生徒を引き連れて教室へと戻っていった。
屋上に残ったのは、青威と紫龍、そして望月の三人であった。
「紫龍、お前ちょっとやりすぎだぞ」
望月は、静かな瞳で紫龍を見つめながらそう言う。
「あんな酷い事ばっかり言いやがって、本当にあの女子が飛び降りたらどうするんだよ!」
青威は紫龍に激しい口調でそう言い、襟元を掴みあげた。
「死なねえって、わかってたから言ったんだよ。それに真実を言ったまでだ」
紫龍はそう言い、口元を歪ませ、笑いを吐き捨てる。
「いいかげんにしないか、二人とも」
望月の言葉に、青威は掴んでいた襟元から手を放し、一瞬、紫龍を睨みつけ、目線を落とすと溜息をついた。
「先生……俺を、先生の家に下宿させてもらえねえかな?」
青威は不機嫌そうに、栗毛の髪の毛を掻き揚げると、そう言葉を発した。
「お前……凪家とは親戚で、紫龍の家に住む事になってるだろう?」
「そうだよ、だけどどうにも我慢ならねえ。この学校の対応の上に胡坐をかいてるようなヤツの顔を、朝から晩まで見なきゃいけないと思うと、もうなんだか吐き気がしてくる」
青威の言葉に、望月は少し困ったような表情を浮かべ、紫龍を見つめる。
紫龍はその場に座り込み、胡坐をかくと望月の瞳を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「俺は別にどっちでもいいけど……」
紫龍らしいと、望月は心の中で密かにそう思う。
「東雲、俺は紫龍の担任を一年の時からやっている。時間と約束に厳しい俺が、紫龍の遅刻を許している事を、不思議に思っているヤツも多いだろうな」
望月の言葉の端々には、何か深い理由がある事を感じさせる。
「意味ありげな言い方だな」
青威は望月の顔を、鋭い視線で射抜くように見つめた。
「東雲、お前にとって凪家は悪かもしれんが、紫龍にはお前の存在が必要な気がするんだ。お前の母親と凪家の関係は知ってるつもりでいる。お前自身、凪家の厄介になる事を避けたいんだろうが、お前の目で何が本当で、何が偽りかを確かめた方がいいと思うんだ」
「なあ先生、なんでそんなにコイツに入れ込んでるんだ? やっぱりコイツが凪家の御曹司だからか? 一教師としてそれって、可笑しいだろう?」
青威の問いに、望月は目を静かに伏せ、ゆっくりと口を開く。
「お前が凪家に住めば、否応無くわかる事だと思うぞ。それから判断しても遅くはないと思うんだがな。それでもどうしてもあの家に住みたくないと思うんだったら、その時は俺の家に下宿させてやる。それでいいだろう? 紫龍!」
「勝手にしろよ」
望月の言葉に、紫龍は溜息混じりに髪の毛を掻き揚げながらそう言った。
青威は、苛立ちながら、唇を噛み締めている。
こんな冷酷なムッツリ男と、衣食住を共にするしかない現状に苛立っていたのだ。
望月の言葉に返事をせずに、青威は紫龍の横を通り過ぎ屋上から出て行く。
扉の軋む音が青空の下、響いていた。
「望月しゃべりすぎだぞ」
紫龍の微かな声が響く。
「お前、本当に大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「ちょっと貧血かな……無理したつもりはないんだがな」
そう言いながら、紫龍は屋上の床に寝そべり空を見上げた。
今まで見たこともないような優しい瞳がそこにはあった。