〜依頼と脅し〜
ホテルの部屋はあのオンボロ事務所と違い快適だった。だが、未来はこの雰囲気が性に合わないのか落ち着かない様子で、部屋の中をウロウロと歩き、窓の外にある街並みを見ていた。
雲隠れするなら未来らしくないホテルの方がいいと、未来が利用しそうもない高級ホテルを桜井が提案したのだった。
「未来、しばらくは窮屈だろうが、ここで仕事してくれ」
「う〜ん、面倒だな。私はもう洗いざらい本当の事言ったっていいのよ」
未来はそう言いながら溜息をつきながら長椅子に腰をかけ、深々と椅子に埋まるように座ると、窓から見える外に目をやり遠くを眺める。
「俺は事務所に戻る、いいか、部屋から出る時は変装忘れないように、十分気をつけるんだぞ」
桜井はそう言うと、机の上に置いてあった朱音の制服を紙袋に入れ、ドアを開き怪しそうに左右を確認しつつ外に出て行った。
未来はその後姿を見て、息を漏らすように笑い、立ち上がると冷蔵庫を開け、深い溜息をついた。
「私の好みが何も無い」
未来はそう言うと立ち上がる。
「つまらない。やっぱりこんなの私らしくないよね」
未来は自分の中の自分に問いかけると、スパンコールが刺繍してあるTシャツにジーンズを履き、キャップと目深にかぶるとサングラスを掛けた。
「ジュース買いに行こうっと」
まるで誰かに言い訳するようにそう小声で言い部屋を後にした。
最上階のスィートルームのある階はさすがに静かである。まだ午後3時くらいだという事もあり、宿泊客も少ないようだ。
未来はふと足を止めた。廊下の向こう側、エレベーターの方から声が聞こえてくる。
紫龍の方をしかめた顔で見ると、草壁はゆっくりと口を開いた。
「生きてるんだよ」
「何だと? あの怪力女が生きてるのか」
「ああ、あの場から出てきたのは、五体の男の遺体だけだった。女の遺体は出てきていない」
草壁の言葉に、紫龍は珍しく驚愕の表情を浮かべ、歩くペースが遅くなり溜息をついた。
一瞬ふらつき、壁に手をつき体重を支える。
「どうしてお前みたいな弱々しい男がモテルのかね、俺の方がよっぽど頼りになると思うが」
草壁は紫龍の姿を見て鼻で笑うとそう言い、嫌味を込めた言葉を言った。
「あんなクソババアの相手をしたいなら、いつでも交代してやるよ。毎月のように呼び出しやがって、自分からトラブルを引き込んで楽しんでやがる」
「今のは命取りになる言葉だな」
草壁はそう言うと、紫龍の顔を睨みながら紫龍の正面に立つ。
紫龍はそんな草壁の顔を見ながら鼻で笑い、草壁の横をすり抜けるようにゆっくりと歩き出す。一瞬、紫龍の顔に苦悶の影が浮かぶ。傷が痛むのか、それともこれから待ち受けるものに対しての苦痛なのか、それは紫龍にしかわからない事だった。
絨毯が敷き詰められた廊下を曲がると、紫龍の視界に一つの影が入り込んできて、紫龍は足を止めた。
キャップを目深にかぶった、身長の高い女が歩いて来る。
すぐにその人物が誰なのか、紫龍にはわかった。近づいてくる女はサングラスを外そうとする、紫龍は咄嗟に首を横に振った。
女はサングラスに掛けた手を止め立ち止まり、紫龍の方を真っ直ぐに見つめる。
紫龍の後ろから草壁の足音が聞え、草壁の視界にも女の姿が入ったが、その女が未来である事に草壁は気付かなかった
紫龍は草壁の足音に背中を押されるように、足早に足を進め未来に近付きながら唇を動かす。
「部屋番号は?」
音にならない言葉に、未来は言葉を読み取ったような表情浮かべ、紫龍に向ってゆっくりと歩き出した。
紫龍は視線を未来の向こう側に向け歩くと、何も言わず無表情のまま未来の横を通り過ぎていく。
「2101」
未来は通り過ぎる瞬間、俯き加減に顔を下げ微かに唇を動かし呟いた。二人は何事もなかったように離れて行く。
未来とすれ違った草壁は、紫龍と未来のやりとりに気付かったらしく、表情を変える事無く紫龍の後ろを歩いていった。
未来は紫龍の雰囲気の余韻に引き寄せられるように振り向く。
サングラス越しには、漆黒の髪の毛を微かに揺らし、弱々しい足取りで、一番奥のVIP用のスィートルームに入って行く紫龍の姿が見えていた。
体格のいい一見ヤクザにも見える男は、石崎が言っていた刑事なのだろう。
青威はその刑事が紫龍の常連だと言っていたが、どうみても仲がいい関係には見えなかった。
刑事は部屋には入らず、ドアの前に立ちドアを背に振り向いた。未来は慌ててエレベーターの方を向いて足を進める。
廊下の角を曲がった所で足を止め、フーッと息を吐き出し、壁に背中を預けて廊下の照明を見つめるように顔を見上げた。
「いったい、どういう事、あの部屋には誰がいるんだろう、それにあの刑事、絶対に普通の刑事じゃない、一癖ありそうな雰囲気だった……あんな体で、紫龍は大丈夫かな」
未来は紫龍の事を心配する自分に対して愉快そうに笑うと、溜息を一つつきエレベーターのボタンを押した。
微かにエレベーターが上ってくる音がして、目の前の扉が両サイドに開く。
未来はゆっくりとエレベーターに乗ると、扉の向こう側に姿を消した。
「紫龍、遅いじゃない! 私を待たせるのはお前くらいなものよ」
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、温かいオレンジ色のライトの光りに影を映しながら、一人のふくよかな女が上品とは言えない口調で強くそう言った。
大きなエメラルドの石の付いた指輪をはめているのが印象的だ。
「……で、今日は何の用だ?」
紫龍は少し顔をしかめながら傍にあったソファーに座り込む。
熱がある上に傷を負った体にムチを打ち、来なければいけない程の人物なのだろうか。
「人を一人殺して欲しいの」
女の言葉に紫龍は表情一つ変えず、机の上にあった女の物であろう煙草を手にすると、口に咥え火をつけた。
「それは物騒な話だな、だが、知ってるだろう? 俺は殺しはしねえ」
紫龍は女の肉のたるんだしわだらけの顔を、射抜くように見つめながら淡々と言う。
「最近、お前の周りでウウロチョロしてる女、目障りね」
女はしわだらけの顔を歪ませニヤリと笑い、紫龍の顎に手をかけ顔を近づけ唇を重ねる。
紫龍は目を閉じる事も無く、無表情だった。女の唇が離れ、薄笑いを浮かべる女の顔を見て紫龍は冷ややかな笑みを浮かべる。
「芹沢女史、あんたが手を回してやったのか?」
「お前の役割を忘れるんじゃないわよ、反政府派の月島の孫娘に入れ込んでるなんて許されるわけないでしょう。そんな暇があったらやる事をやりなさい」
「反政府派!? いったいいつの話だ、月島組は解散、今はおとなしく堅気の商売してんじゃねえか」
「かもしれない。でもね過去は消えないものなのよ。お前が言う事きかにのなら、月島未来はどうなるかしらね」
「てめえ、総理の腰ぎんちゃく野郎が、未来に手を出したらただじゃおかねえ!」
紫龍はそう言うと、手に持っていた煙草を芹沢女史に投げつけた。煙草は芹沢女史の顔に当たり、芹沢女史は頬に手をあて俯いた、と思った次の瞬間、芹沢女史の手の甲が紫龍の頬に飛び痛々しい音を響かせた。
エメラルドの指輪には血がついている。顔を上げた紫龍の頬には指輪の爪によって裂かれた傷がつき、血が滲んでいた。
「凪一族が聞いて呆れる。お前は月島とは一緒になれない、当主になったその瞬間から結婚相手も決まっている。お前がどうあがこうとそれは変えられないんだよ! だいいちセックス一つもできない男に誰が寄り付くもんか! 私を舐めるんじゃないよ」
芹沢女史は憤慨し、息を荒立てながら紫龍を押さえつけるようにそう言った。
「月島未来を助けたいなら、飼い犬らしくし言う事をききな」
肩で息をしながら芹沢女子は言葉を投げつけた。
紫龍は頬の血を拭いながらゆっくりと立ち上がると、芹沢女史に近付きそのしわだらけの顔に自分の顔を近づけていく。唇が触れる寸前で動きを止めるとゆっくりと口を開いた。
「月島未来を業界に復帰させろ、それが条件だ」
なんの抑揚もない静かな口調で紫龍の声が響く。芹沢女子は少し後ずさるように顔を離す。紫龍の雰囲気に圧倒されているようだ。
「わかったわ」
芹沢女子の言葉に紫龍は睫毛を伏せると、ゆっくりと芹沢女史から離れるように後ろへと歩き壁にもたれるように立つ。
額から一つ筋を作って汗が流れ落ちていた。
「それで対象はどいつだ?」
紫龍の問いに芹沢女史は鞄の中から一枚の写真と髪の毛を取り出し、紫龍の前に差し出した。
写真には見たことも無い男が映っていた。
「この写真の人物が誰かは聞かない事、お前はただこいつを殺せばいい。この髪の毛はこの男の物よ。言ってる事わかるわね?」
「呪殺、だな」
「いい子ね、わかってるじゃない。お前はそうやって従順にしたがっていればいい。それが凪の仕事なんだから」
紫龍はまた額から汗を流し、壁にもたれかかったまま芹沢女史を冷ややかに見つめていた。
「気持ちはどうだい? 自分の息子を売ってまで総理、いやあのクソ男の女になったってのは」
紫龍の言葉に芹沢女史は表情を変える事なく口を開く。
「何の事? 私に子供なんていないわ……私を裏切るような人間は私の子供ではないのよ」
芹沢女史はそう言って満面の笑みを浮かべた。不気味さが漂いっていた。
底知れない心の闇を感じ、紫龍は芹沢女史の無数の影を見つけ、悲しい瞳をしていた。どの影も悲しみや憎悪を抱いている。この女の歩んできた道を見たような気がしていた。
「さあ、仕事の話は終わりよ、お茶でも入れる?」
「遠慮しておく。襲われてもかなわねえし、帰らせてもらう」
芹沢女史は顔に似合わない妖艶な雰囲気を漂わせ、紫龍にそう言ったが、紫龍の方は芹沢女史の目線をそらすように部屋のドアへと向かっていく。
正直もう体が限界であった。傷の痛みも熱も容赦なく紫龍の体を痛めつけていた。
「紫龍、月島未来とは別れなさい」
背後から響いてきてた声には殺意に近い雰囲気が漂い、それは脅しではないという事がすぐにわかった。
紫龍は唇を噛み、受け取った写真を握り締め部屋の外に出た。
重そうなドアが閉まる音が響き、廊下に立っていた草壁が紫龍の方に振り返った瞬間、紫龍の体は崩れるように床に落ちていく。咄嗟に草壁は紫龍の体を抱きとめた。
「熱があるのか、お前もそろそろお払い箱だな」
草壁の口からはそんな冷酷な言葉が飛び出した。微かに耳に届いたその言葉に、紫龍はニヤリと口を歪ませ意味ありげな笑みを浮かべていた。
「凪紫龍、そろそろ使えなくなるわね。今のうちに消した方がいいかしらね」
芹沢女史はそう呟きながら、ソファーに座り優雅に紅茶を口に運ぶ。
床に落ちていた煙草を目にすると、紅茶のカップを手にしたままゆっくりと立ち上がり、まだ燻り床の絨毯に焦げ目をつけている煙草に、琥珀色した紅茶をかけた。
「終わりね」
煙草は悲鳴にも似た音を上げ消える。
芹沢女史は紅茶塗れになった煙草を見つめながら、冷ややかに微笑んでいた。