〜逃走〜
見るからに歴史を感じさせる小さなビル。壁のレンガは所々崩れ、地面にはボロボロに崩れたレンガの残骸が落ちていた。
青威と朱音は顔を見合わせ苦笑いをした。未来の事務所があるビルの古さにではなく、ビルの出入り口に群がる人間達の数に驚き、もうすでに未来の記事がマスコミに知られている事を悟ったのだった。
青威は朱音の手を引き、なにげなくマスコミの間をすり抜けるようにしてビルの中へと入り込んだ。マスコミの会話の中には、この上なく不快な言葉も混じっていた。
確かに未来は正直な故に損をしている所があるだろう。反感を買い敵を作ることも多いかもしれない。その正直な破天荒さとヤクザの孫だという事を結びつけ、ここぞとばかりに痛めつけるような言葉を吐く者もいた。
青威は怒りを感じ一瞬足を止め舌打ちをする。そんな青威をなだめる様に、朱音は青威の手を握り締め顔を覗き込みながら優しく微笑んだ。青威はその笑顔につられるように軽く笑い階段を上がり始めた。
薄暗い階段を上がると、細い廊下が続き、板張りの床がギーギーと音を鳴らしている。
一番奥の扉に月島未来事務所と書いた扉があった。
青威はノブに手をかけゆっくりとドアを開けながら中へと入った。
「月島未来さんいますか?」
そう言って事務所の中へと入ると、鳥の巣頭の女性とオタク系の女性が二人、青威の方を見つめ、学生服を着ていることに安心したのか肩を撫で下ろしたように見えた。
「聞いた事のある声がしたと思ったら、青威君じゃないの」
奥の部屋から未来が現われ、青威に満面の笑顔を浮かべて近付いてきた。
「大丈夫ですか? 月島さん」
そう言って、可愛らしく小首をかしげ現れた朱音に、未来は優しい笑みを浮かべていた。
「未来さん、外に凄い数のマスコミがいたよ、大丈夫?」
「もしかして心配してきてくれたの?」
青威の言葉に未来はそう言った。
「兄貴との写真も載っていたから、心配になって、兄貴のほうは支障はないと思うけど、月島さんみたいな仕事ってイメージとか大事でしょう? だから……」
「そうか、ごめんね朱音ちゃんにも心配かけて、私は大丈夫だから、私自身が紫龍の事を思ってる気持ちを私は誇りに思ってる。でもこの状態だと家にも帰れないし、紫龍の容態も心配だわね」
「やっぱり兄貴、調子悪いんですか?」
「大丈夫、今日の朝なんかいつものように憎まれ口叩いてたわ」
未来はそう言うと携帯を取り出して電話をする。
「ああ、私……紫龍の様子は? え!?……そう、わかったわ、じゃあ」
電話をしながら未来の表情が曇るのを見て、何かがあったのかと、青威も朱音も思っていた。
「どうかしたんですか?」
「私のマンションに刑事が現れて、紫龍はその刑事と一緒に出かけたらしいわ、家に帰るって言ってたみたいなんだけど」
未来の言葉に、青威と朱音は今朝の草壁と言う刑事の事を思い出していた。おそらくその刑事が紫龍を迎に来たのだろう。
「それって、たぶん草壁って刑事だ、紫龍の馴染みらしいから心配はいらねえと思うよ」
青威は未来の中にある心配を悟ったのか、輝くお得意の笑顔でそう言う。未来もそんな青威の気持ちがわかったのか、栗毛の髪の毛をクシャクシャと撫でると微笑んだ。
「未来、そろそろ行かないと、下のマスコミもどんどん数を増やしている」
桜井が窓から下の様子を覗きそう言って、額の汗を拭っていた。
「問題はどうやって出るかよね」
未来はそう言いながら溜息をついて、髪の毛を掻き揚げあげた。
「あの、未来さんこの制服着ませんか?」
朱音の言葉に一同は一斉に朱音を見る。朱音の真意が掴めずおどろいた表情を浮かべていた。
「……この制服を着て、眼鏡でもかければ、もしかしたら月島さんだってわからずに突破できるかなって思ったんですけど」
「いいかも、その作戦いけるかも」
朱音の提案に青威も乗り気であった。
「身長が足りないけど、私が月島さんの服を着て先に出て逃げますから、その隙に逃げてください」
朱音の申し出に未来は引きつった笑顔を浮かべる。どうやらすでに卒業してしまった高校の制服を着る事に抵抗を感じているらしい。
「未来さん、迷ってる暇は無いですよ。この子の言う通りその作戦ならいけるかもしれない」
クルミもその作戦に賛同していた。
「私も賛成です」
アヤも同じく賛成し、未来の顔を真っ直ぐに見つめている。
「……わかったわ」
皆の言葉に押されるように未来は頷き、朱音と共に奥にある更衣室へと消えていく。
青威は密かに楽しみであった。あの大人っぽい未来の服を着て朱音がどう変身するか、心臓の音が軽いリズムを刻み期待に弾んでいるのを感じていた。
二人が奥の部屋から姿を現した。
未来はスラリとした長身に短めのスカートが揺れ、幼い雰囲気を漂わせていた。かがんで覗き込めばスカートの中が見えるのでは? と思えるほど短かった。
「何だかさ、コスプレみたいじゃない?」
未来は照れながらそう呟き頬を赤らめている。
朱音の方は、スリットが深く入った紺色のタイトスカートに、同じような紺色の半袖のシャツ、胸のポケットの入り口部分にだけ淡い水色の花模様の布地が使われ、涼しさを感じさせていた。
青威は朱音から目を離す事ができなかった。
綺麗だった。
黒い艶やかな黒髪、背は未来ほど高くはないものの、体の線が浮き出るタイトスカートに、心臓が大きく高なり、血液が脈打ち息苦しさを感じるほどだった。
「……どうかな?」
朱音もまた照れながら体を小さくしながら、小股で歩いて出てくる。
「以外、雰囲気似てる」
「うん、よく似合ってる」
クルミもアヤも朱音を見てそう言い頷いていた。
「ちょ、ちょっと私はどうなのよ!?」
「未来さん、可愛い! スカート捲りしたくなる」
未来の言葉に青威はニッコリと笑いながらそう言った。
「何言ってるのよ!」
未来はそう言いながら、照れ隠しなのか、制裁なのか、思い切り青威の背中を叩く。青威は軽く咳き込んでいた。
「じゃあとりあえず俺と朱音ちゃんで、正面玄関からでます。様子を見て逃げてください」
青威はそう言うと、未来から受け取ったサングラスを朱音にかけ、手を握ると手を引きながら事務所を出て行く。
「あの子、可愛かったね」
クルミはそう呟きながら出て行く二人の背中を見送った。アヤも頷いている。
「しかし、その制服、意外に似合ってるな」
桜井はそう言いながら未来の制服姿を上から下まで舐めるように見つめ、クスクスと笑っていた。
「未来さんは背が高いから、少しサイズが合ってないけど、まだまだいけますよ、本当に」
アヤはフォローするつもりで言ったのだろうが、全くフォーローになっていなかった。
未来は制服の端を摘むと、自分の姿の滑稽さにクスリと笑い、机に置いてあった素通しの眼鏡をかけた。マンガから飛び出てきたようなキャラクターに見えなくもない。
未来にとっては不本意かもしれないが、未来のイメージには絶対にないキャラクターなので、外で張り込んでいるマスコミにもばれずらいとという利点はあるだろう。
桜井は窓から外の様子を伺う。
青威が走り出るのが見え、その後を追うように未来の服を着た朱音が走って行く姿が見えた。マスコミの連中も疑いつつも朱音の後を追うように移動し始めた。
「しめた、作戦成功だな」
桜井はそう言うと、未来の方を見て静かに頷く。
「じゃあ、クルミ、アヤ、留守番頼むわね」
未来はそう言って、大きなトートバッグを担ぐと、桜井と一緒に事務所を出て行った。
階段を軋ませながら降り、桜井が事務所の出口の様子を探りながら外に出て、マスコミ達がまんまと朱音達を追いかけていった事を確認すると、未来に向って手招きをする。
未来は静かに外に出て、辺りを見渡す。桜井と未来はお互い顔を見合わせて頷くと、地面を蹴り走り出し、街の雑踏の中へと消えていく。
パンツが見えそうなスカートを翻し、おへそをチラつかせて走る姿を見て、それが未来だと気付く者は誰一人としていなかった。
「まだ追いかけてくる!?」
朱音は息を切らしながらそういい苦しそうにそう言う。
青威は朱音の手をしっかりと握り、にぎやかな街を抜け、河川沿いの道路を走り続けていた。
青威の手の温もりが伝ってくる。朱音は表情をほころばせていた。
このままずっと手を繋いでいたい、放したくない。朱音は心の中で密かにそう思っていた。
「もう、大丈夫かな」
そう一瞬気を抜いた瞬間、疲れていた事もあり何かに躓き青威はつんのめる。朱音と青威の手が放れ青威の体だけが土手に向って傾いていく。咄嗟に朱音は手を伸ばし青威の腕を握り締めた。だが、青威の勢いを含んだ重さに負けてしまい、朱音の体も引っ張られるように傾き、そのまま二人は土手を転がるように河川敷へと転がっていく。
何が何だかわからない状態で、ゴロゴロと転がりやっと止まったと思い、青威は目を開くと、目の前に朱音の黒髪が漂っていた。
「朱音ちゃん、大丈夫?」
青威は自分の上で微かに動く朱音の体から体温を感じながらそう言った。
「うん、大丈夫。青威は?」
「大丈夫」
朱音は自分の体重を両手で支えると、下になっている青威の顔を覗き込んだ。空の青さが映りこんでいるのか、紺碧の瞳がより一層輝いて見えた。
青威は朱音の顔を見て楽しそうに、輝くような笑みを浮かべた。
「何? どうしたの?」
「何でもない」
朱音の問いに青威はそう答え、朱音から目を逸らせると起き上がろうとした。
一瞬青威の表情に朱音は違和感を感じ、このまま見過ごしてはいけないような気がした。そして行動を移す。朱音は上体を起こそうとした青威の肩を地面に押しつけ、真っ直ぐに青威の瞳を見つめると、優しい風のように青威の唇に近付いていく。
朱音の唇が青威の唇に重なった。
短い時間だった。
「やだ……何!?」
朱音は飛ぶように青威の体から放れると自分の唇を触り、真っ赤な顔をしていた。自分でも自分でしてしまった行動を把握しきれていないようだった。
青威は栗毛の髪の毛を掻き揚げ、照れているような困ったような表情を浮かべている。
「何って、そう聞きたいのは俺の方だよ」
青威は聞えないくらいの小さな声でそう呟き、深い溜息をつきながら熱くなる顔を伏せた。
女に唇を奪われたくらいで、動揺している自分に驚き、静まりそうもない心臓の鼓動に痛みをともなう程の苦しさを感じていた。
自分の中の臆病さに押さえつけられていた、純粋で素直な気持ちが大きくなって膨れ上がっていく。青威は自分を襲う初めての感覚に困惑していた。
朱音もまた真っ赤になった顔を手で覆い、青威の顔をまともに見ることができず、理由もわからない涙が流れてきそうになるのを必死に堪えていた。
まるで青威の瞳に吸い込まれるように近付いていた。無意識、いや、それとは違うような気がしていた、そうしたいと思った朱音が確実にそこにはいたのだから。
二人の間には、照れと恥じらいと初めて生まれた気持ちが織り成す、微妙な距離感ができ、自分達の気持ちを整理しきれていない、気まずい雰囲気が漂っていた。
二人の間を遮るように、川の水分を含んだ優しい風が通り過ぎていった。




