〜怪我〜
未来が仕事をする事務所は、お世辞にも綺麗とは言いがたい、賃貸のオンボロ安事務所だった。だが、未来はこの事務所が気にいっている。もともと古めかしい日本家屋で育った未来には、この雰囲気が性に合っているのだろう
「未来さんって凄いですね。あのトップアーティストの希ララ(きらら)にステージ衣装任されるなんて、いくら友達でもそうそう簡単に任される世界じゃないですもんね。やっぱり未来さんには才能があるんですね」
この事務所にはアシスタントは二人、未来の眼の前にいる、鳥の巣のような頭をしている女は岬クルミと言い、まだ未来が無名だった頃に、未来のデザインした服が好きだと言ってストーカーまがいに纏わりついてきた女である。
クルミは未来のデザインしたステージ衣装を見て、目を輝かせていた。
「希ララってさ、男のくせにタイヤ交換も出来ないのよ。パンクして困ってるのを助けてあげた事があって、それからの付き合いなのよ」
未来は右手に持った色鉛筆を指の中で遊ばせながら、優しい笑みを浮かべてそう言った。
「もしかして、付き合ってるとか?」
「まさか、無い無い、ありえないよ」
未来はクルミに向って、手を横に振って否定していた。
正午近くにもなると、クーラーの無い事務所は蒸し風呂と化し、地獄のような暑さに襲われ、ちょっとした我慢大会となってしまう。
ここに勤めるアシスタントがなぜ辞めないかのが不思議なほどである。未来の人徳という所なのだろうか。
「未来、お疲れ様、こんな物が届いたぞ」
そう言って、マネージャーの桜井が差し出したのは、小ぢんまりとしたバラとかすみ草の花束だった。花の合間に綺麗な淡い水色の封筒が差し込んである。差出人を見ると凪紫龍という名前が書いてあった。
未来はこめかみに違和感を感じた。はたして紫龍がこんな事をするだろうか? 疑問はあったがとりあえずハサミで封を開け、中の便箋を取ろうとしたその時だった!
「つっ!」
未来の短い声とほぼ同時に、封筒の中から血が流れ落ちた。
「未来!」
桜井も声を上げ、未来の手を見た、封筒から抜いた人差し指は深く切れ、血が流れている。
未来の持っていた封筒を桜井が取り上げ中を確認すると、封筒の中にカミソリの刃が仕込んであったのだ。
そうしている間にも、未来の指先からは血が流れ出て、机の上にあったスケッチブックの上に落ちる。
未来は咄嗟に傷口を思い切り握り締め、痛みに顔を歪ませた。
「大丈夫ですか?」
クルミも目を丸くして慌てた様子で声を上げる。
「なんて事だ、いったい誰の仕業だ! まさか本当に凪さんの仕業って事は」
「そんなわけ無いじゃない。紫龍はそんな男じゃないわよ」
「とにかく傷の手当が先だ」
いつもの弱腰の桜井からは想像もつかないような強い口調でそう言うと、未来の手を握り締め、ドアを開け隣にいるもう一人のアシスタントの女の所へと行く。
もう一人のアシスタントは峰崎アヤと言い、デザインには興味は無いが、未来の人柄に惚れこんでこの事務所に居座ってしまった女だった。
真っ黒い髪の毛をキッチリと七三に分け後ろで束ね、真面目を絵に描いたようなオタク系の雰囲気を持っている女だった。
「あれ、月島さんどうしたんです……って、キャー! どうしたんですその怪我、大変じゃないですか!?」
そう言っていきなり大きな声を張り上げた。
「アヤちゃんって看護師免許持ってたよね?」
「はい、任せてください。今応急処置しますね」
そう言ってアヤは救急箱を持ってくると、丁寧に消毒し始めた、だが血はなかなか止まらない、かなり傷は深そうだ。
「桜井さん、これけっこう深いですよ。すぐには血が止まらないかもしれません」
「駄目よ、今日中にやってしまわなければいけない仕事があるんだから」
アヤの言葉に、未来はそう言って、いつもは強気な未来が少し弱々しく見えた。
「深そうだな……一応病院に行くか? 車の用意をしてくる」
桜井はそう言うと事務所を出て行く。
「だけどどうしたんです、こんな怪我」
アヤは未来の怪我を手当てしながらそう言って、顔を覗き込んできた。
「うん……ちょっとドジちゃって」
未来の言葉に、クルミは眉間にしわを寄せ口を開く。
「ドジちゃったなんて、なぜそんな、未来さんが悪いわけじゃないじゃないですか! あんな悪質な悪戯、ううん、悪戯ってレベルじゃないわ」
クルミの手には先ほどの手紙があった。未来はその手紙を見て考えていた、どうして差出人の名前が紫龍だったのか、そしてカミソリの刃が仕込まれていた目的とは何なのか、自分の性格上、この業界に自分の事をよく思っていない人間が多い事は未来自身も十分に自覚していた。そのため思い当たる節は多々ある、だが紫龍との関係を知っている人間は少ないはず……そう考えると業界の人間ではない可能性も出てくる。
「これって、カミソリか何かで切った傷ですよね? もしかして嫌がらせを受けてるとか? 逆恨みとか? 熱狂的なファンとか? キャーどうしましょう」
アヤもクルミの言葉にピンときたのかそう言い、とりあえず未来の手を止血した。
程なく桜井が戻ってきて、未来の手を握り締めると急いで事務所を後にする。
二人が出て行く姿を確認すると、クルミとアヤは眼を合わせ静かに頷く。何かの意思の疎通が行われたのか、二人の間にしか判らない意思がそこには存在した。
未来のデザインに惚れ込んだ鳥の巣頭のクルミと、未来の人間性に惚れ込んだオタク系女のアヤはおもむろに携帯を手にすると、何処かへ急いでメールをしているようだった。
レースのカーテン越しの柔らかい光りを受けながら、紫龍はベッドに座っている。部屋の中に石崎の姿は見当たらなかった。買い物にでもいったのだろう。
枕元に置いてあった携帯が、音を立てず小刻みに揺れる。
未来は気を利かせて着信音を切っていたらしい。紫龍は携帯を見ていかにも不機嫌そうに髪の毛を掻き揚げると、溜息を一つして携帯を開き、メールに眼を通した。
「……何? マンションの近くに来てるだと!?」
紫龍はそう独り言を口にして、ゆっくりと立ち上がるとベランダへと歩いて行き、閉めてあったカーテン越しに外を覗くと、見た事のある車を目にして一瞬眉間にしわを寄せた。
「まるで忠犬ハチ公だな」
紫龍はそう言い、唇を固く結ぶと携帯を握り締めた。その手にはかなりの力が入っているらしく微かに震えている。持って行き場の無い怒りを感じさせた。
「くそったれ!」
紫龍は何かに気持ちをぶつける様に、携帯を思い切り投げたつけた。
携帯は運よくソファーに当たり、一度バウンドしてから床に転がり、液晶画面が開き光り輝いていた。
その途端、また携帯が小刻みに震えだし床の上を微かに移動する。
紫龍はふらつきながら、携帯を拾い上げると、画面には見た事の無いアドレスが表示されていた。紫龍はメールを開く。
「これは……未来のところの事務所のヤツ等だ」
メールの内容は、凪紫龍からきた花束に入っていた手紙にカミソリの刃が仕込まれ、未来が怪我をしたというものだった。
紫龍は額に手を当てながら、自分の体が動く事を拒むように熱を発している事を確認し、深い溜息をつく。
「まったく、次から次へと問題発生か、未来と仕事どっちを優先する?」
紫龍はそう言いながら、迷っている自分を楽しむように微かに微笑むと顔を上げて携帯を握り締めた。
「あのクソ野郎が外にいるんじゃ、未来を選べるわけもないか……まったく人使いの荒い刑事だぜ、鬱陶しい」
そう言いながらも、紫龍は微笑む。
未来なら自分がいなくても大丈夫だと、信用できる事に安心し、そういう存在が自分の傍にいてくれる事がうれしかったのだ。
紫龍は携帯を手にすると電話をかける。
「ああ俺、悪いけど、ここまで着替えを用意して持ってきてくれ……ああわかってる、話はそれからだ……ああ、じゃあ後で」
紫龍はそう言うと静かに携帯を閉じ、あらためて未来の部屋の中を見渡す。
面白い配置の仕方だった。ベッドがなぜかリビングにある。普通に考えればベッドの置く位置は玄関から入ってきて、すぐに見えない場所というのは定番のような気もするが、これでは男と一緒にこの部屋に入ってきたら、すぐにOKと言ってるように見えなくもない。未来らしいと言えばそうかもしれないが……紫龍は破天荒な未来らしさに思わず笑った。
「笑わしてくれる」
紫龍は自分で言ったセリフに驚いた表情を浮かべ、またふっと軽く噴出すように笑う。
「笑いを与えてくれる存在か……貴重だな」
紫龍はそう言い、ソファーに座り込む。
もう少しここに居たいと思っている紫龍がそこには存在していた。
そんな紫龍の気持ちを打ち砕くようにチャイムの音が鳴り響く。おそらく外にいた刑事の草壁だろう。
紫龍はドアの向こう側いる人物の予想はついていたが、ソファーを立つ事はなかった。立ちたくないと思っていた。
またチャイムが鳴る。
「行かないわけにはいかねえような」
紫龍は半ば自分に言い聞かせるようにゆっくりと立ち上がると、肩を押さえながらゆっくりと玄関に向かい鍵を開ける。それと同時にドアが開き、威圧的な雰囲気を漂わせながら草壁が立っていた。
紫龍は鼻で笑う。草壁が玄関へと入ろうとしたその時、草壁の行く手を阻むように一本に腕が体を押さえた。
石崎が買い物から帰ってきたのだ。
元ヤクザ対現役刑事、勝負はいかに!? そう思っていた瞬間、紫龍が口を開く。
「石崎さん、面倒をかけた……俺は帰るわ、未来にも礼を言っておいてくれ」
紫龍の言葉に、石崎は鋭い視線で草壁を睨みつけ、紫龍の方に目線を移すと持っていたビニール袋を差し出した。中にはおにぎりやお惣菜が入っていた。
不器用ながらも優しい人間である事を伺い知る事が出来る。
「礼は自分で言えよ」
「そうだな……」
石崎の言葉に紫龍はそういい目を伏せた。
草壁から着替えを受け取ると、紫龍は着替え草壁と一緒にマンションを後にした。手にはビニール袋が握られガサガサと音を立てながら揺れていた。
紫龍は草壁に支えられるように外に出ると、夏の刺さるような日差しを感じながら車に乗り込む。助手席に深く座り込むと静かに目を閉じた。
何処からともなく蝉の鳴き声が聞こえ、ユラユラと揺れる陽炎の中を車は走っていった。




