〜罠〜
天井に埋め込まれたライトの下を通りながら、店の中へと入って行く。
細い廊下を通り抜けた先には、それなりに広いフロアが広がっていて、カウンターの中には女が一人立っていた。
「いらっしゃいませ」
明るい声を響かせ女はにっこりと笑う。その顔は紫龍が知ってる女の雰囲気とは全く違い、別人なのかと疑ってしまいたくなるほどだった。
ボックス席には男の客が疎らに五人座っている。
紫龍はカウンターの席に座り、眼の前の女を冷ややかに見つめた。
「此処で高校生を雇ってると聞いたんだが」
「あら、学校の先生かしら?」
女は紫龍の顔を見つめながら、紫龍の目の前に水を差し出してそう言った。
これがあの怪力女だというのか……眼の前の女の姿に今朝の雰囲気は感じない。裏の顔を何処に隠しているのか、紫龍は訝しげに女を睨んでいた。
紫龍は感じていた。自分自身を取り巻く周りの雰囲気が殺気に満ちていることを。どうやら、この店内にいる客はこの女の仲間らしい。
カウンター奥の横に揺れているカーテンの向こう側から青威が現われた。
すぐにいつもの雰囲気と違う事に気付く。
何か薬でも使われたか……紫龍は青威の様子を伺いながら、身構えるようにゆっくりと立ち上がる。後ろ側から微かに何かが動く音が聞え、紫龍は眼の前のコップを手にすると、カウンターの角でコップを割り振り向き、すぐ眼の前まで迫ってきていた男目掛けて振り下ろす。
切り立ったコップは男の頬をかすめるように切り、血が流れる。
「この俺をなめんじゃねえ!」
紫龍は客を装った敵に目を見開く。男達は何かに押されるように後ろに吹っ飛び、気を失ってしまう。
「さすがは、凪紫龍ね、手を使わず倒すなんて……でもその手が私の可愛い人形にも通用するかしらね」
後ろから聞える女の冷ややかな声に振り返ると、そこにはもう明るい笑顔を浮かべていた女の姿はなかった。
女は青威に近付くと優しく抱きしめ、耳元で囁く。
「私のためにアイツを殺して」
青威は眼の前にあった包丁を手にすると、紫龍に向って歩き出す。
「楽しいわね……お前は自分の愛する者に殺され、青威は自分の手でお前を殺したと知った時、その罪の重さに耐えられるかしらね」
そこに立っている女は、青威が春奈として慕ってした姿とはかけ離れていた。
「なるほど、残念だがな青威は俺にとって重要な人間ではあるが、愛する者とは違うな」
「笑わしてくれるわね。青威はあの春奈の息子でしょう? お前が自分の母親よりも慕っていた春奈のね」
「まさか、東雲春奈を殺したのはお前なのか……」
「さあ、それはどうかしらね」
女は愉快そうに笑い、カウンターの上に頬杖をついていた。
その時だった、青威が包丁を振り上げ紫龍に襲い掛かってきた。紫龍は咄嗟に避けようとして太ももに痛みが走り、そのまま床に後ろから転んでしまう。
意思を感じさせない瞳で、青威は紫龍に向かい飛び込み、紫龍目掛けて包丁を突き刺した。
小雨が降る中を一台のバイクが走ってくる。そしてBLACK ROSEの店の前に止まる。
前に乗っているの男はリーゼントの男、後ろに乗っているには、制服姿の少女。
少女がメットを取り現われた顔に、未来は驚き目を見開いた。
「どういう事……あのリーゼントの男、どこかで……あいつ、赤崎組の息のかかったチンピラ」
未来はそう気付いたと同時に軒先から走るように出て行き、朱音の手を握った。その拍子に朱音が手に持っていたメットが雨に濡れたアスファルトの上に転がる。
リーゼントの男は、未来の姿を目にして潜めていたナイフを出し、未来に襲いかかった。
未来はナイフが握られた手首を掴み、腕を捻り上げ男の体を路面の上に押し倒す。男は呻き声を上げ、痛みに悶えていた。
ほんちょっと力を入れれば、肩の関節が外れてしまうだろう。
「未来さん……これはどういう事ですか」
「罠よ」
未来は短くそう言うと、容赦なく力を入れた。肩はそうはならいであろう方向へと曲がり、男は路上を痛みのあまり転げまわっていた。
「青威君がこの店にいるの、紫龍がさっき入っていったわ」
未来のその言葉に、朱音は慌てたように店の中に入ろうとする。それを未来が手を掴みとめた。
「今行っても足手まといなるだけよ」
未来の言葉に、振り返った朱音の瞳は、威圧的な強い眼光を放っていた。未来は思わず手を放してしまう。朱音は店の中へと走り込んで姿を消した。
「今の目、この私が一瞬怯むなんて……あの兄にして、この妹って感じね」
未来は小雨に濡れた髪の毛を掻き揚げると、深呼吸をして店の中へと入っていった。
「青威……くそ……」
青威の握っている包丁が容赦なく紫龍を襲う。
紫龍の右の太ももからは傷が開き血が流れ出していた。床に転がった紫龍の上に青威が覆いかぶさるように包丁の刃を向ける。
紫龍は目を見開き、青威に気をぶつけるが、青威自身の中の力に邪魔をされているのか、まったく効かなかった。
「兄貴!」
朱音の声が響き渡り、紫龍は一瞬その声に気を取られ、次の瞬間包丁の刃が紫龍の肩に突き刺さった。
「うっ……ぐううう」
紫龍は顔を顰め、肩からは血が流れていた。
「何……なぜ青威は兄貴を……嫌だ……やめて、いやああああ」
朱音は青威が紫龍を襲っている姿を目にして絶叫する。声が店内に響き、それと同時に朱音の右目から眩い金色の閃光が放たれる。目が開けていられないほどの光りに、青威が一瞬怯んだ、紫龍はその隙を狙い、青威の体を蹴り飛ばすと朱音に向って走り抱きしめた。
蹴り飛ばされた青威はテーブルの角に頭をぶつけるが、痛みも感じないらしくすぐに立ち上がり、紫龍と朱音に向かっていく。
眩い光りの中、未来が走り込んできて、カウンターの中に飛び込むと、春奈にそのままとび蹴りを食らわす。春奈の体は飛ぶように吹っ飛び、その隙をついて未来が春奈のからだの上に馬乗りになり、腕を捕まえ羽交い絞めにする。
「未来、ソイツから離れろ!」
紫龍のそう叫ぶ声が聞こえたと同時に春奈はニヤリと笑い、自分を掴んでいる未来の手を凄い力で振り払うと、未来の手首を握り締める。その力は凄まじく、未来は悲鳴にも似た声を上げた。
紫龍は自分の方に走ってくる青威に叫んだ。
「青威! いいかげんに戻って来い! 薬になんか負けてんじゃねええええ」
紫龍の声は空気を突き通し、直接青威の頭の中にまで届くような、澄んだ声であった。
青威の動きが途端に止まり、その場に崩れるように蹲る。床に付いた手を握りしめると、持っていた包丁で自分の腕を切り裂いた。
「うわあああああ」
青威の声が響き、顔を上げた青威の瞳には強い意志が戻っていた。切り裂かれた傷からはおびただしい血が流れ出ている。
「青威、その女を何とかしろ、自分で蒔いた種は自分で刈れよ!」
紫龍の声に、青威の瞳が凛と輝き、腕に刺さっていた包丁を抜くと、カウンターの中へと飛び込む、力一杯握り締めた拳で春奈の顔に殴りかかる。春奈は咄嗟に未来から手を放し飛ぶように立ち上がると、青威を睨みつけていた。
「もう正気に戻っちゃったのね……つまらない」
「俺を騙したのか? 紫龍を殺すためだけに利用したのか?」
青威の言葉に春奈は軽く笑う。その笑みが全てを物語っているような気がした。青威は瞳を見開き春奈を睨み付けた。
春奈の表情が硬くなったような気がした。様子がおかしい。
青威は冬の外気のような澄んだ紺碧の瞳で、春奈を見つめ近付いてく。春奈はその瞳から目を逸らす事もできず、身動き指先一つ動かす事が出来なかった。魅了されたのか、それても怯えているのか……これが青威の力なのだろうか。
「春奈さん、終わりだよ」
怒りを通り越した怒り。静かで淡々としていて、何の感情もない感情。
動けなくなった春奈の額に手をあて青威はそう言う。掌が青白い光りを放ったと思った次の瞬間、春奈の瞳から意思の光が消え、引力に吸い込まれるようにその場に座り込んだ。
青威はその場に放心状態で佇んでいる。瞳からは静かに涙が流れていた。
「……未来、青威を早く俺の所へ連れて来い!」
紫龍の言葉に反応するように、未来は手首の痛みを堪え、青威の手を掴むと引きずるように紫龍の所へと走る。朱音が発している光りが一気に膨れ上がっていく。
「くっ……」
紫龍は顔を顰めながら、右手を上に向ける。体が光りで覆われると、右手から稲妻のような光りと共に黒龍が現れ、天井を突き破り空へと凄い勢いで昇って行った。
朱音の放つ光りは凄まじい音を立て爆発し、店諸とも火柱を上げ、こっぱ微塵に吹き飛ばしてしまう。
凄まじい勢いの炎が舞い上がり、轟音を響かせ建物を焼け付くしていく。その時だった、空に稲妻が走り激しい雨が大地に向って落ちてくる。
炎の勢いが徐々に弱まり消えていく。焼け焦げた匂いとくすぶっている煙が立ち上っていた。炭と化した建物の中には、紫龍達の姿はもうなかった。




