〜父と息子〜
雨が窓を叩き、景色を滲ませていた。
耳障りな雨の音は過去の記憶を蘇らせる。
「此処は……」
紫龍のかすれた声が響く。眉間に重みのある痛みを感じ、すぐには目を開く事ができないでいた。
薄っすらとぼやけた視界の中に、知らない男の顔が見え、紫龍は眉間にしわを寄せ、起き上がろうとしたが、すぐに起き上がれる状態ではなかった。
「お前は誰だ」
「これは心外だな、助けた相手にそんな愛想の無い顔をしないでくれよ。いくらお嬢さんの頼みっていっても、まさか凪家の坊やを助ける事になるとは思わなかった」
やっとハッキリしてきた視界には、額に傷のある柄の悪そうな五十才くらいの男がそう言いながら、紫龍の顔を覗き込んでいた。
白に覆われた空間、此処が病院である事に紫龍はやっと気付く。
「……お嬢さん? 未来の事か」
紫龍は自分が無意識に、未来に電話していた事を知り、思わず苦笑いを浮かべた。
「お嬢さんの頼みじゃなきゃ、今頃死んでるぜ、政府の飼い犬さんよ」
男は鋭い眼光で紫龍の睨みつけた。
紫龍はその言葉を認めるように何も言わず、ただ静かに目を閉じ軽く笑うだけだった。
病室のドアをノックする音がして、剣持が看護師と共に病室に入ってきた。
「どうです、具合の方は」
そう言って、剣持は紫龍の額に手を当て溜息をつき、カルテを見ながら難しい顔をしている。あまりいい状態ではない事は予想がついた。
「太ももの怪我ですが、かなり深い傷でした、とりあえず今の所、急にどうこうと言う事はなさそうです」
剣持の覗き込んでくる顔に紫龍は笑いを吐き捨てると、ゆっくりと上半身を起こし、額に手を当て顔を伏せ溜息をついた。
そんな紫龍に剣持が顔を近付け耳打ちをする。途端に紫龍の表情は険しくなっていった。
「今、何処にいる」
「特別室に通しました」
紫龍の言葉に、剣持はそう言い、二人の間には緊張が張り巡らされているを感じた。
紫龍は布団を捲ると両足を床に付く。一つ一つに行動に痛みが伴い、そのたびに顔が歪む。
スリッパを履き、ゆっくりと立ち上がった。
「何処へ行く、俺はお前の監視役を頼まれているんだ」
柄の悪い男の声が紫龍の背後で聞えた。
「あんたは帰ってくれていい。此処にいても邪魔になるだけだ」
紫龍は振り向きもせず、そう言うと静かに歩き始めた。
「な、何だと、甘い顔してりゃあいい気になりやがって!」
男は紫龍の肩に掴みかかりながら大声を上げる、空気は張り詰めた糸のように緊張に包まれた。そばにいた看護師の顔にも怯えの色が見える。
紫龍は肩を掴んできた男の手を払い、男の顔をゆっくり見た。
「俺に触んじゃねえ」
大声では無かったが、その言葉には人をねじ伏せるだけの力を感じさせ、男を睨みつける瞳には、相手が瞬きできなくなるほどの威圧感を与えた。
「……まいった……そんな顔をもできるかよ。おお怖」
男はそう言うと、冗談めかしたように両手を上げ、苦笑いを浮かべる。紫龍は何も言わず目を伏せると右足を引きずりながら病室を出て行った。
男が一人だけ残った病室に、ドアの閉まる音が響き渡り、緊張の糸が切れたのか、男は息を一気に吐き出す。
「凪紫龍ね……お嬢さんもとんでもない男に惚れたもんだ」
男は聞えないほどの小さな声でそう呟くと、窓をたたきつける雨をただ見つめていた。
「……青威……青威君」
青威の耳元で優しい声が微かに聞こえてきて、それに気付くように青威は静かに目を開ける。するとカウンターの横に春奈の顔があった。
青威の顔には自然と笑みが浮かんでいる。
「マリーさん、うちのバイト君が面倒かけて申し訳なかったわね」
「いいのよ、こんな可愛い男の子なら、うちは大歓迎。それにね少しの間うちに泊まらせる事にしたのよ。勝手に決めちゃったんだけど良かったかしら」
マリーの言葉に、春奈は青威の顔を覗き込む。
その瞳は心の奥底まで突き刺さってくるような雰囲気を感じ、青威は目を離す事ができなかった。
「青威君、いいのそれで……家の方とか、昨日の女の子の話とか、色々と大丈夫なの?」
春奈の優しい声が、青威の耳に届き心を穏やかにしていく。
「……ちょっと色々と考えたい事があって、しばらくあの家を離れたいんだ」
青威の言葉に春奈は優しく微笑み、栗毛の髪の毛をクシャクシャと撫でた。
「青威君の年頃って色々あるもんね……わたしも家を飛び出したの、そういえば十八の時だったわ」
春奈はそう言って、思い出し笑いをしている。
青威は今いる場所に優しい温かさを感じていた。それがたとえその場しのぎの一時期的なものだとしても、今の青威には心地の良い時間だったのだろう。
「さあ、そろそろお店を開ける時間よ。青威君、今日から一生懸命働いてもらうわよ。それじゃあお店に行きましょ、お昼ごはん食べさせてあげる」
春奈はそう言って、椅子から立ち上がると青威に背を向けた。
まだ外は雨が降っているのか、春奈の髪の毛は微かに濡れている様に見え、それが余計に色っぽさを感じさせていた。
青威も立ち上がり、マリーに軽く会釈すると出入り口に向かいドアを開く。またも軋む音と
鐘の可愛らしい音を響かせる。青威が出た後、春奈がドアに手をかけ、マリの方を振り返ると可愛らしい二重の瞳をウィンクさせた。
マリーはそんな春奈を笑顔で見送る。微かに流れる有線の音楽の中を、コップを磨く音が響いていた。
病院というと、廊下も病室も無機質な色を想像させるが、この特別室だけは違っていた。
壁は落ち着いたうぐいす色、どこからか優しい花の香りが漂い、ベッドの横にはレザー張りのソファーセットが置いてあった。
扉は学校の音楽室などで使うような防音扉、窓も同様だった。
ベッドの上には、目を閉じ色々な管に繋がれた男が横たわっていた、生きているのだろうが、生きている事を感じさせず、穏かな表情で眠っていた。
「久しぶりですな、当主」
紫龍は目の前にいる、白髪頭に眼鏡をかけた優しい雰囲気の男に対して、無表情のままソファーに座る。
返事を返さない紫龍に対して、白髪の男は穏かな表情を浮かべて紫龍の向かい側へと腰を下ろした。一瞬、眼鏡の向こう側の瞳から鋭い光を感じる。
「東雲青威は元気にしていますか?」
穏かな口調だったが、その言葉は威圧的で紫龍さえも緊張に包むような雰囲気を漂わせていた。
「黒川さん、それだけでわざわざ此処まで来たんですか?」
「貴方が私の事を嫌っているのは承知していますが、唐突にそんな嫌な顔をしなくてもいいではないですか。お互い政府の番犬として仲良くやりましょう」
黒川は愉快そうにニヤリを笑みを零すと、感情を感じない口調でそう言って、紫龍の見つめていた。
「最近、東雲青威を手元に置いたそうですが、それは何か裏があっての事ですか?」
「青威は東雲春奈の子供、凪家の血を引く人間だ。それの何処に矛盾がある」
「確かに春奈様のご子息ですからね……ですが私としましては、父親の血の方が気になるのですよ。今、日本の政界は揺れています……その期を利用する輩も多いものですから」
「その輩ってのは、黒川さん、あんたの事かい?」
「ほほう、これは手厳しい。まあ当たらずとも遠からずと言ったところでしょうか。十八年前、裏の総理にはこの宗治様がなられるはずでした。なのにこんなお姿になられてしまった」
黒川はそう言うと、悲しそうにベッドに横たわる男を見つめる。
男の髪の毛は、青威と同じ栗毛色をしていた。
「だから、今度は青威を利用しようってのか」
紫龍は淡々と言葉を紡ぎ、黒川の顔を睨みつけた。黒川は紫龍の視線の奥に隠された感情を読み取ったのか鼻で笑う。
「凪家当主ともあろうお方が、感情に流されてどうするのです。所詮私達は政府の番犬に過ぎないのです。それは時雨さんからも聞いているでしょう。凪家には凪家の都合があるでしょうが、せいぜい東雲青威に危害が加わらないように守り大人に育てて下さい。頃合を見て貰い受けに参ります」
黒川はそう言って紫龍に優しい笑みを投げかけた。鬱陶しいほどの見せ掛けの笑顔を。
「……まあ、勝手にすればいい」
紫龍はそう言って立ち上がると、ゆっくりと歩いて病室の重いドアを開く。
「ああ、そうそう、お体をお大事に」
黒川はニヤリと笑みを浮かべそう言う。黒川が今どんな表情をしているのか紫龍には想像が付いていた。
ゆっくりと廊下に出ると、顔を歪め壁に凭れかかる。太ももには激痛が走り、歩くのもやっとであった。
「大丈夫ですか?」
廊下で待っていた剣持が肩を貸そうと近づいたが、紫龍の纏っている雰囲気に入り込む隙が見つけられず、触れることが出来なかった。
静かな廊下に携帯電話の音が響き渡る。
剣持は白衣のポケットから携帯を出し、それを紫龍の前に差し出す。それは紫龍の携帯だった。
紫龍は剣持の手から携帯を取り上げると電話に出た。
「もしもし……ああお前か……何? それは本当か……わかった……悪かったな、ああじゃあな」
そう言って携帯を閉じると、すぐにメールの着信音が響き、送られてきた写真を目にする。
一瞬にして、紫龍の顔色が変わり、右足を引きずりながらエレベーターへと向った。
「出かけなきゃならなくなった。悪いが服を持ってきてくれ」
紫龍の有無を言わせない雰囲気に、剣持は溜息をつき紫龍に肩を貸し一緒に歩き始める。
「まったく貴方と言う人は」
「死を眼の前にすると、自分のやらなきゃいけない事が鮮明になっていくもんなんだよ」
紫龍と剣持は微かに微笑んでいた。