〜傍にいて〜
畳を敷き詰めた広い空間に重い空気が流れていた。
青威は紫龍の方を見ることは無く、そっぽを向き苛立っているのか貧乏ゆすりをしている。朱音は青威の隣に座っているのものの、この緊迫した空気に言葉を発する事もできず押し黙ったまま俯いていた。和広は興味のない表情を浮かべながらも、紫龍の視線が気になるのか、たまにチラチラと紫龍の顔色を伺ってる。ただ一人、時雨だけが、平然と威厳を感じさせお茶を啜っていた。
「今日、青威の元にこんな手紙が舞い込んだ」
紫龍は朱音から手紙を受け取り、机の上で広げる。皺くちゃになってはいたが、紙の真ん中に書かれた文字と血痕は鮮明に見えていた。
「おい……何だよこれ……」
怯えるような表情を浮かべ、震える手でその紙を掴んだのは和宏だった。
「覚えているか? 前にも同じ物が送りつけられた事を」
紫龍は淡々とした口調で和宏を見つめ、悲しい表情を浮かべている。和宏は手に掴んだ紙を力一杯握り締めると、歯を噛み締め頬を硬直させる、その表情からは計りしれない怒りが滲み出ていた。
「和宏さんの両親が亡くなる前も同じような物がこの家に舞い込んだ。あの時も自殺だったな、確か」
紫龍の言葉は抑揚に無い冷ややかな響きだった。だが、内容はその声とは正反対に衝撃的なもので、青威の貧乏揺すりも止まり、顔を上げ紫龍の顔を真っ直ぐに見つめる。
「青威の母親も自殺だった……いや、そう見せかけ何かが裏で動いている。俺達の両親が亡くなったのもそれと関係があるだろう。凪家は昔から色々と裏で動いてきた、そのために恨まれる事も多かったはずだ。ただ龍神の強大な力があるために、手出ししたくても出来なかった、出来ないはずだったんだ、だが此処何年か違ってきている」
紫龍はそう言うと少し考え込むように額に手をあて眉間にしわを寄せる。
「じゃあやぱり、凪家のせいで母さんは死んだ、朱音ちゃんの言った事は本当だったんだな、なぜだ、そんな凪家が嫌いで飛び出したはずなのに、それなのに、何の関係もない母さんがなぜ死ななければならない」
「こっちが関係無いと思っていても、あちらさんにしてみればそうじゃないって事さ、それか……」
紫龍はそう言い掛け、何かを思いついたのか考え込むと口を噤んで、それ以上何も言おうとしない、そんな表情見て、青威が黙っているわけが無かった。
「おい、何か言いたい事があるなら言えよ! 言いかけて黙り込まれたら気になるじゃねえか」
青威の食いつくような激しい口調に、紫龍は顔をあげ青威を真っ直ぐに見つめると、フッと目を逸らし溜息をつく。何か言い難い事なのか、唇をキュッと結ぶと手を握りしめた。
「和広さんの親にしても、青威の母親にしても、殺された本人が狙いではなく、その周りが狙いだったとしたら? 自分にとって大切な者を失った時、少なからずとも心が乱れる。人によっては精神的に壊れる、あるいは憎悪や悲しみに支配される。それを利用しようとしていたとしたら」
「じゃあ、何か、俺が狙いって事なのか? 今回のこの手紙も俺を」
「青威の存在が凪家にとって大きな役割を担っている事を、敵が知った証拠だろう。朱音の存在、そしてお前の役割だ」
青威の言葉に、紫龍はそう言って、朱音を一瞬見ると目を伏せ机の上で手を組んだ。瞳は凛と輝き強い光を放っている。
「朱音の瞳に封印されている龍緋刀、そしてそれを扱う事のできる唯一の存在の青威、この二つが手に入れば、俺の中の龍を意のままに操れる。」
「兄貴、何その話し、私そんな話し聞いていない、どういう事!?」
朱音は黒髪を揺らし、紫龍の着ていたシャツを握り締めて、力のある瞳を輝かせた。
「龍緋刀は龍神を抹殺できる唯一の刀、そしてそれを扱う事のできる者もただ一人、龍神が暴走しないための抑止力になる」
「暴走って、兄貴の力で抑えれるんでしょう? それなのになぜ」
朱音は紫龍の悲しい切なそうな表情を見て思いついた。紫龍の体力が弱まってきてきているという事を。確かに年々、発熱、貧血、寝込む回数が増えてきている。その全てが今の紫龍の表情が物語っている。
力が弱ければ、当然紫龍は乗っ取られ中に宿っている龍神は暴走する。
「まさか、それって、この龍緋刀で兄貴を……刺すという事」
朱音は、そう震える声で言い、右目を抑えると小刻みに体を震わせていた。紫龍はそんな朱音を揺れる瞳で見つめていた。過保護に守る事だけが優しさではない。未来の言っていた言葉を思い出し、紫龍は苦笑い浮かべる。
「暴走すると決まったわけじゃねえよ。もしもの話だ……それに今はそんな事よりも、敵の狙いが青威と朱音にある事はハッキリしている。だから単独行動は避け」
「やだね! こんな家に居られるとか! 母さんはこの家に生まれたばかりに殺されたんだ。俺がその龍緋刀を扱う? やなこった! 誰も好きでこんな家の血を継いだわけじゃねえ、こんな事ってあるか……そのために何でこんな辛い思いをしなくちゃならないんだ」
青威はそう言って立ち上がると、襖を開き細い廊下を足音をさせながら歩いていく。怒りが響き渡り、歴史を背負った床や壁が軋み鳴いていた。
朱音は震えていた手を力一杯握り締め立ち上がると、青威の後を追いかける。このまま何処かへ行ってしまいそうな気がして、不安に押し潰されそうになるのを必死に堪え、青威の左腕を掴み、自分の方へ引っ張った。
青威は立ち止まるが振り向きもしないで、朱音の手を払い除ける。何も言わなくても怒っている事が空気を伝って痛いくらいに感じ取れた。
母親が死んで、青威の胸の奥には深い悲しみが突き刺さった。
いつも明るい笑顔で包んでくれた、何者にも代え難い存在であった母親、その存在をいきなり失い、しかもあの惨状を目にして、心臓が裂けてしまったのではないかと思うほどの痛みを覚えた。日々の生活の中で自分を作り、何者にも左右されないように、深く関わる事を避け心を許さず過ごす事で、傷つく事から逃げてきた。
自分でも嫌というほどわかってはいたが、逃げるしかなかった。今もまた逃げようとしているのかもしれない。
「青威!」
朱音の静止も聞かず、青威は自分の部屋へと入って行こうとする、そんな姿に朱音は唇を噛み締め、青威の前へと回り込むと、下からの視線で青威を真っ直ぐに見据える、青威は朱音の黒い瞳から目を逸らす、だが朱音は諦めなかった。青威の視界に入ろうとして、身をかがめた瞬間、足元の絨毯に躓き後ろ向きに転びそうになる。咄嗟に青威は朱音の体を守るように手を回すと、自分の体を下にするように一緒になって転んでしまった。
「いっつう」
青威は怪我をしている方の手をどこかにぶつけたのが、痛そうに顔を歪める。
「大丈夫?」
優しい声が青威の体の上で響き、青威はゆっくりと眼を開く、眼の前には大きな黒い瞳がユラユラ揺れていた。だが今の青威にはその瞳も怒りを含んだ悲しみを膨らませる要因になるだけだった。
「青威、私は逃げないよ」
そんな青威の心を悟ったのか、朱音は優しい響きを持った声でそういった。青威にしか見えない金色の瞳が、一層光り輝いているように見えた。
「私弱虫だから、またすぐに泣くかもしれない、だけどもう逃げないって決めた。誰も人の気持ちなんてわからない、一人でそんなに怒って、周りがどんな気持ちでいるかなんてわからないでしょう! 兄貴がどんな気持ちで話したのか、私がどんな気持ちで此処にいるのかなんて……自分だけが辛いって顔しないでよ!」
朱音には珍しく激しい口調で、青威の着ている制服を握り締め、瞳に涙を湛えている。青威は自分自身の気持ちが大きすぎて朱音の言葉が耳に聞こえていても、心の中に入れる隙間が見つけられず、目を逸らすと絞り出すように言葉を吐いた。
「兄妹で仲良くやっていればいいじゃねえか」
その言葉は、朱音の心を悲しみに染める。力なく溜息をつくと黒い瞳に悲しみの影を宿し、青威の上からそっと立ち上がると背を向けた。青威は何も言わず立ち上がると、仏壇の位牌を手にして朱音の横を通り過ぎ部屋を出て行こうとする。此処で止めなければもう二度と帰ってこない。そんな雰囲気を漂わせていた。
「行かないで!」
朱音は悲痛な声をあげ、青威の背中に飛び込むと後ろから抱きしめた。突然の事に青威の動きが止まる。紺碧の瞳は大きく開かれ、栗毛の髪の毛が微かに揺れていた。
「私の傍にいて、私のわがままかもしれない、だけど、だけどお願いだから」
朱音の言葉の響きには嘘を感じない。だが、なぜそこまでして朱音が自分の事を止めるのか、今の青威にはわからなかった。
青威は自分の腰に巻きついてる朱音の手にそっと手を添える。
「わからないよ、なぜ俺を止める。朱音ちゃんには紫龍がいるだろう。俺なんかいなくても」
そう言った時、朱音の手に力が入り、より一層青威を力強く抱きしめる。
「私は……私は、青威に傍にいてほしい」
朱音の小さな微かな声が、青威の耳に届く。青威はその言葉に驚き、朱音の手を握り締めると腕を解き朱音の方を振り向いた。朱音の瞳から涙が流れ青威を真っ直ぐに見つめていた。
青威の中で心臓が大きく高鳴り、体中の血液が躍動するように流れ、体が熱くなるのを感じ、体が自然に動いていた。
「朱音ちゃん」
青威は微かに名前を言うと、そのまま朱音の体を柱に押し当て、その濡れた瞳に吸い込まれるように顔を近づけていく。朱音は静かにそれを受け入れる。青威の唇と朱音の唇が触れると思った瞬間、青威の動きが止まった。
朱音はゆっくり眼を開ける。
「いいよ」
朱音の心は穏かな海のように凪いでいた。ゆったりとした静かな声の響きに、青威は微かに微笑むと、口づけをせずにそのまま朱音の体を抱きしめた。自分の心が朱音に引き込まれて行く事を怖れたのだった。
だがそんな気持ちを無視して、心臓は大きく鼓動を打っていた。
「朱音ちゃんにはかなわないな……しょうがねえなあ、いてやるよ、だけど紫龍を許したわけじゃないからな」
青威は朱音の耳元でそう言うと、体を離して位牌を元に戻し、絨毯の上に座り込み照れているか、朱音の方を振り向きもせず栗毛の髪の毛を掻いていた。
朱音はそんな青威の背中を、涙で濡れた頬を拭いながら静かに見つめていた。