〜家族の絆〜
「今日は仕事じゃないのか?」
「これからまた仕事よ、ちょっと空き時間が出来たから紫龍の顔を見に来たの、私って見かけによらず純情でしょう」
未来はそう言いながら、紫龍に寄り添い体をすり寄せてくる、紫龍はその未来の行動から逃げるようにゆっくりと立ち上がると、柱に手を添えながらゆっくりと歩き、奥の台所へと向う。まだ熱があるのだろう、コップに水を入れるとそれを飲み干した。
携帯の着信音が鳴り響く。今度は未来の携帯であった。
未来は鞄から携帯を取り出すと、電話に出る。
「はい月島……そうね、時間よね、わかってるわ。今からそっちに行くから」
未来は電話を切り鞄に無造作に入れると、立ち上がって台所にいる紫龍の所へ行き、未来に背中を向けている紫龍の腰に手を回し抱きつく。お腹の部分に回された未来の手を紫龍は静かに解き、無言で歩いて部屋に戻ると襖を開く。
「早く帰れ」
またも冷たい言葉であった。未来は溜息を一つ付き顔を伏せる、だが、表情を微笑んでいた。
「青威君の事わかったら、連絡するわね」
「ああ」
短く淡々とした冷ややかな言葉。だがその裏側には未来への気持ちが隠れていた。その事に未来が気付いているのかいないのか、未来はただ微かに微笑んで紫龍の横を通り過ぎると、部屋を出て廊下を歩いていく。
「明日には、車が届くと思うから取りに来い」
紫龍は未来の方を見もせず、細い後ろ姿にそう声をかける。未来もまた後ろを振り向かずにただ手を上げて玄関へと向かっていった。
ワタゲは静かな足取りに紫龍に近付き、前にちょこんと座ると緑色の瞳を輝かせ、紫龍を見上げる。紫龍はワタゲに手を伸ばし優しく抱くと、黒い艶やかな毛を撫でた。
玄関で未来が出て行く音が聞こえ、扉が閉まった。紫龍は顔を上げ静かに息を吐く。縁側の向こう側からヒールで歩く音が聞こえてきていた。
学校では、青威がいきなりいなくなり、朱音だけが一人教室に戻った事を知り、考祥達が不思議そうに朱音に理由を聞いたが、朱音はただ一言「喧嘩して怒らせてしまった」と言い、淋しそうに肩を落とすだけだった。その様子に皆もそれ以上聞くことも出来ず、淡々と時間だけが過ぎていく。
朱音は勉強をする気にもなれず、黒板を見ながらずっと青威の事ばかりを考え、気づいた時には下校時間になっていた。
朱音の頭の中は青威の事で一杯で、紫龍の事を考える余裕は無かった。この事に朱音自身は気付いていない。
朱音は家路を急ぐ。紫龍から何の連絡も無いと言う事は、青威はまだ見つかっていないのだろう。自分の言った事が原因でこんな事になってしまった。今朝の手紙の事が心に引っかかっている。自分達の両親も意図的に殺され、青威の母親も巻き沿いをくった。今度は青威が狙われているのかもしれない。そう思うと心臓が破れるのではないかと思うほど、激しく苦しいくらいに鼓動を打ち、どうしていいかわからないほど動揺する自分が現われ、ただ青威を失いたくないそう強く思うのだった。
日差しが柔らかくなり始め、太陽が西の山に近付き街並みの影を長くする。
朱音は母屋へと向わず、まっすぐ紫龍のいる離れへと向うと、息を切らしながら扉を開き、珍しく慌しい様子で朱音は靴をそろえもせずに、紫龍のい部屋へと走り込んんで行く。
「兄貴!」
朱音の声に紫龍は机に向っていた顔を上げ、ゆっくりと朱音の方を向く。その瞳には力強い光が戻っていた。
「青威は?」
朱音の短い言葉に必死さが滲み出ている。紫龍はそんな朱音の姿に冷ややかに笑みを浮かべると机に寄りかかるように座り、軽く溜息をつき口を開いた。
「青威が死ねば、いくらなんでも今日の俺にだってわかる。まだ死んでねえから安心しろ」
朱音はゆっくり紫龍に足を進めると、畳にストンと落ちるように尻をつき、顔を伏せ深い溜息をついた。艶やかな黒髪が前の方へと流れ朱音の表情を隠すが、そこには深い後悔と痛みを伴うほどの心配とが隠れている事が手に取るようにわかる。
「いずれ全てを話さなきゃならなかったんだ、今回が言い機会かも知れねえ、あまり心配するな」
紫龍はそう言って、朱音の黒髪を梳くように優しく撫でる。朱音は驚いたように顔を上げた、眼の前の紫龍の表情は、昔から自分に向けられていた優しいものに間違いなかった。人を拒絶するような朱音に向けられていた刺々しい雰囲気は消え、柔らかい笑みが返ってきていたのだった。
朱音は二重の大きな瞳を細め、顔をクシャクシャにすると、切なさと安心が混ざり合ったような笑顔を浮かべ紫龍に微笑みかける。
紫龍は鼻で笑い静かに目を伏せると、一瞬、ためらいを見せるが、静かに口を開き言葉をは発した。
「青威の事が……大事な存在になっているんだな」
紫龍の声は静かで穏かな響きを持っていた。朱音はその声に誘われるようにゆっくりと頷き、顔を伏せたまま肩を震わせていた。畳の上には朱音の涙でできた小さな点がしみとなってできている。
紫龍の事を思い、自分の気持ちを雁字搦めにしながら、苦しい思いをしてきた事から開放された安心、そして今、眼の前にいない青威に対して心の広がる不安とが入り乱れ、複雑に絡み合う感情が涙になって溢れ出たのだろう。
「……泣くな……俺にとって大切な存在が泣くのは見ていられない」
紫龍は朱音から目を逸らし優しい声でそう言う。その言葉の意味を朱音はわかっていた。大切な存在……男女間の中で生まれる感情ではなく、家族として深い結びつきの中で作り出された感情だという事を。
朱音と紫龍の周りには今までにない、優しく柔らかい雰囲気が漂っているようだった。
外は闇に包まれ、星が出始めていた。
朱音も紫龍も夕食を済ませ、紫龍は珍しくそのままお母屋へ残る。気まずい思いをしていたのは和広だった。紫龍が同じ食卓で夕食を取る事は珍しい。いつもならば嫌味たらしい言葉の一つも吐く和広が今日に限ってはおとなしく食事を取り終えた。
離れへと戻って行くと思っていた紫龍は母屋に残っているので、その場にいる事も出来ないらしくそそくさと立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとする和広を紫龍が呼び止めた。
「和広さん、此処にいて下さい、青威が帰ってきたら皆に話があります」
「俺には関係ないね……お前たちの事はお前たちだけでやってくれ」
和広はよっぽど紫龍の事が苦手なのか、目を逸らしながらそう言うとその場を立ち去ろうとするが、紫龍はそれを許さなかった。
「凪家十一代目当主としての命令です。残って下さい」
紫龍の声は凛としていて力強く、揺ぎ無い意思を持っていた。その場の空気が一瞬にしてピンと張り詰めるようなそんな感覚を、朱音も時雨も雪絵も感じていた。
さすがの和広もその言葉には歯向かえず、不機嫌な表情を浮かべて戻ってくると机の前におとなしく座った。
時雨は紫龍の言葉に、しわの深い顔を一瞬上げ反応したが、すぐに静かにお茶をすすり始め穏かな表情をしていた。
玄関の方で戸が開く音が聞える。
それが青威である事は、朱音にも紫龍にもすぐにわかった。
朱音はすぐに立ち上がり玄関に走って行く。紫龍もゆっくりと静かな物腰で立ち上がると朱音の後を追った。
青威は不機嫌きわまりない表情で家の中に上り、朱音と目が合ったが目を逸らしてしまう。朱音に非がない事は十分わかっていた。だが凪家に対する怒りが収まらず、朱音に対してもついつい冷たい態度をとってしまっていたのだった。
朱音は悲しい表情を浮かべ、青威の近寄りがたい雰囲気に声をかける事も出来ないでいる。
青威の行く手を塞ぐように、紫龍が立っていた。青威は顔を上げ、眼の前にいる紫龍の顔を目にした途端、心の中に広がって大きくなっていた怒りが一気に膨れ上がり破裂する。青威の左手の甲が紫龍の頬に飛んでいた。狭い廊下に音が通り抜ける。
紫龍は反動で横を向き、一瞬冷ややかに笑みを浮かべると、切れてしまった唇の血を拭い、青威の紺碧の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「話がある……逃げるなよ」
紫龍の言葉に、青威は怒りに満ちた表情で紫龍を睨む。
二人の雰囲気に、全ての音が掻き消されたような静けさが漂い、一気に緊張感が高まっていた。