〜安心の提供者〜
月島未来か……もう一度誰かの手を握る事が許されるだろうか……
紫龍の視界の中で、ワタゲが日向で丸くなって寝ている。
外からの風が優しく吹き込んできて、頬を撫で通り過ぎていった。
紫龍は柱に寄りかかり、煙草を口にしながら、力の無い瞳を揺らしている。
「もう起きられてもよろしいのですか?」
襖を開け現れたのは雪絵であった。
「ああ、熱を出すのはもう慣れっこだからな……いつも心配かけて悪いな」
紫龍はそう言うと煙草を吸い、煙を吐き出す。
携帯電話の音が鳴り、紫龍は傍らにあった電話を取り電話に出た。
「はい凪です……ああ、お前か……ああ家だけど……ああ!? いい! うざってえんだよ!」
紫龍はそう激しく電話に言い放つと、一方的に電話を切ってしまう。そして携帯を握り締めて、微かに微笑んでいた。
「何か、楽しみな事でもあるのですか?」
雪絵は、紫龍の表情を見て静かにそう聞いた。
「たぶん、客が来る、来たら此処に通してくれ」
紫龍はそう言うと、微かに雲のかかる空を眺めながら煙草を吸う。煙が昇っていき空気の中に消えていった。
アイツは馬鹿だな……こんな俺のどこがいいんだか。同じ時間をいくらも過ごせない俺のどこに価値があるって言うだ……
紫龍はそんな事を思いながら、微かに嬉しそうに微笑み、そして静かに溜息をついた。
生きる事に、執着したくなっちまうじゃねえか……まったく、あの馬鹿が……
紫龍は煙草の灰を灰皿に落とすと、煙草を灰皿に押し潰し転がした。
「紫龍様のそんな穏かな表情を見るのは久しぶりですね」
「そうか……雪絵の前だと素直でいられるからな」
紫龍はそう言って、雪絵の顔を見つめる。雪絵はそんな紫龍に優しい笑みを返し、ゆっくりと口を開く。
「そう言って頂けると嬉しいです。でも理由はそれだけではないんじゃないですか? これから来るお客様が関係あるのではないですか?」
「俺の死に水を取ってくれるらしい……変な女だろう?」
そう言った紫龍の顔がとても楽しそうに感じ、雪絵は少し驚き、嬉しさのあまり瞳には涙を湛えていた。
「紫龍様はその方が気に入っていられるのですね」
「ああ、俺のために死ぬなんて事を言いそうにない女だ……だから安心できるんだ」
紫龍はそう言って、悲しい影を背負いながら遠い空を眺めていた。
雪絵はそんな紫龍を見て、目頭を押さえ目を伏せる。
紫龍の母親である夕月が忙しく子供の相手が出来ない時には、雪絵が紫龍と朱音の面倒をずっと見てきた。紫龍にとっては母親代わりのような人間であった。
ワタゲがゆっくりと起き上がると、外の音に耳を立てる。何かに警戒しているように見えた。
チャイムの音が鳴る。
「随分と早いご到着だな……雪絵頼む」
「はい」
雪絵はそう言うと、立ち上がり襖を出て行った。
ワタゲは今から来る客に対して、思い切り警戒心を剥き出しにしている。
廊下を歩いて来る音が聞え、襖が開くと、そこには雪絵の案内で姿を現した未来立っていた。
未来は右手にスーパーの袋をぶら下げて部屋の中へと入って来る。
「雪絵ありがとう、母屋に戻ってくれ、もしも用があったらコイツに呼びに行かせるから」
「はい、ではごゆっくり」
紫龍の言葉に雪絵はそう言って下がると、襖の向こうに消えていった。
未来が紫龍の座っている縁側に近付く、するとワタゲの威嚇の声が聞こえ、目が合う。お互いに睨み合うものだと思っていたが、今日は少し雰囲気が違った。
「ワ・タ・ゲ! 今日も暑いわね、だからアイス買ってきたのよ、食べる?」
未来はそう言って、ビニール袋からアイスを出すとニコニコ笑いながらワタゲの前に差し出した、だがワタゲはそっぽを向き不機嫌そうに歩くと、紫龍の膝の上へと上がり丸くなった。
「可愛くないわね」
そう言って、両方の頬を膨らませ口を尖らせる。
その表情はどう見ても、売れっ子モデルには見えず、紫龍は軽く噴出し笑った。
「あ! 笑った。うん、笑った顔の方がずっと可愛い」
未来はそう言って、紫龍の頬を突っつこうとして指を近づける、が、しかし、紫龍の表情が途端にいつもの冷たい表情に変わり、その伸ばした手を掴まれ阻止されてしまった。
「……紫龍? 熱っぽいわね」
未来はそう言うと、紫龍の額にいきなり近付き自分の額をふっつける。さすがの紫龍もその行動は予想していなかったのか、阻止する事が出来ず、すぐ眼の前に未来の瞳が揺れているのを感じ、心臓が大きく高鳴り動けなかった。
「やっぱり熱がある、寝てなくていいの?」
額を離し、眼の前で黒い瞳を揺らす未来の顔を見て、紫龍は顔が熱くなるのを感じ、汗ばんだ額に手をあて俯いた。
「私ね、小さい頃熱を出すと、母親がアイスを買ってきてくれて、食べさせてくれたんだ。ちょうど此処にアイスがあるから、食べさせてあげる」
未来はあの鋭い雰囲気を感じさせず、無邪気な笑顔を浮かべて紫龍の口元にアイスを運ぶ。紫龍は顔を上げ、未来の顔を見つめたまま口を開こうとはしなかった。
「何なら、口移しで食べさせてあげようか?」
「調子にのるなよ」
紫龍らしい冷ややかな言葉に、未来は少し安心した表情を見せる。
紫龍は未来の持ってる木のへらを取り上げると、自分でアイスを食べ始め、静かに庭を通り抜けながら草木を揺らしていく風を見ていた。
未来も縁側にあぐらをかき、紫龍の隣でアイスを食べながら、紫龍と同じ空間に身を置ける事に嬉しさを感じていた。
「頻繁に熱が出たりするの?」
未来は何の違和感も無く、それがあたりまのように淡々と紫龍に聞く。
「ああ……熱もそうだが、貧血、不正出血……とまあ色々だな、血管が脆くなっているらしい」
紫龍も隠す事無く、知られる事を怖れる事無く淡々と話をする。
紫龍の言葉に、未来は一瞬目を伏せる、そして静かに目を上げると真っ直ぐ前を見つめて、力強い光りを持つ瞳を揺らし口を開いた。
「やっぱり、このアイスは美味しいわ。ここのメーカーのアイス気に入ってるんだ、どう?」
「ああ、旨い」
紫龍はそう静かに低い声を響かせて言う。そんな紫龍の声を聞きながら、未来は満面の笑みを浮かべていた。
「今日はやけに素直ね、いつもの雰囲気と少し違う、こういう紫龍も捨てがたいわね」
そう言いながら未来は紫龍の横顔を見つめる。肌が透き通るほど白く、本当に今にも消えてなくなるんじゃないかと思うような雰囲気を漂わせていた。
未来は紫龍のアイスのカップにへらを突き刺し、アイスを掬い上げると自分の口の中へ入れた。
「う〜ん、こっちのバニラも美味しい」
そう言った未来の笑顔は眩しいくらいに輝いていた。
死ぬなだとか、死なせないだとか、死なないでなどと言う言葉を一切言わず、ただ傍でなんとなく話し笑顔を浮かべる、そんな未来の雰囲気が、紫龍には心地よかった。
期待されず期待させず、ただそこに居て見ていてくれる。自分自身がいなくなっても、未来ならそれなりに生きて行くだろうという、安心感を持たせてくれる女、紫龍は未来の中の人間性に惹かれていた。
「お前、女じゃないだろう? モデルとは思えないな、そのあぐらをかいた姿」
紫龍はそう言い、クスリと冷ややかながらも優しい笑みを浮かべる。
「女じゃない……試してみる?」
未来はそう言うと、アイスを庭に放り投げ、いきなり紫龍の襟元に手を伸ばし掴むと、自分の方に引き寄せそのまま横に押し倒し、紫龍の上に乗っかる。
紫龍の持っていたアイスは空を飛び、縁側の床に落ち白く広がった。
ワタゲは紫龍の膝の上から慌てて逃げ出し、傍らに座ると二人の様子を、緑の瞳で見つめていた。
「重てえよ、でか女」
「言いたい事はそれだけ?」
未来は妖艶な雰囲気を漂わせながら、紫龍の唇に自分の唇を近づけていく。
紫龍は咄嗟に横を向きそれをかわす、未来は愉快そうに笑い顔を上げ、紫龍の顔を見ると頬を真っ赤に染め、目を力一杯閉じている姿がそこにはあった。
可愛い……未来はそう思い、心が躍るように躍動し、紫龍の首に手をかけ抱きしめる。
耳のすぐ近くで心臓の音が、心地よいリズムを刻んでいた。
「愛してるなんて安っぽい事は言わない、ただ傍にいたい、そしてこの心臓の最後の音を私に聞かせて……生きてるうちは無理そうだから、息絶えたら思い切りキスしてやる!」
未来の頭の上で、紫龍の鼻で笑う音が聞える。
床に落ちたアイスが溶け、甘い匂いを漂わせていた。
また携帯電話の音が響く。
未来は邪魔な携帯の音に不機嫌な表情を浮かべると、紫龍の体から避ける。紫龍は起き上がり電話に出た。
「はい……朱音か?……何だと青威が……どこに行ったかわからねえのか!? ああ、ったく……わかった、とりあえずお前はちゃんと授業を受けろ、わかったな……ああじゃあ後でな」
紫龍は電話を切り、唇を噛み締めた。
「どうしたの?」
未来の言葉に、紫龍は何も言わずに立ち上がる、だがまだ熱があるのだろう、立った途端にバランスを崩し、床に倒れそうになるのを、未来が咄嗟に立ち上がり支えた。
「青威君がどうかしたの? 探すなら私も手を貸すけど……うちの若いもんを使えば、そこら辺の警察よりは早く見つけられると思うわよ」
未来の言葉に紫龍は畳の上に座り込み、額に手をあて目眩を必死に堪えているようだった。
「そんな事より、お前はあのアイスを片付けろ!」
熱があって弱々しい姿をしていても、口調はいつもように強い雰囲気を持っていた。
「わかったわよ! ちゃんと片付ける……だから……青威君探さないとまずいんでしょう? 詳しい事は聞かない、だけど少しぐらい手伝わせてよ」
未来の強く懇願する口調に押されたのか、フッと笑みを浮かべる。
「お前の所はもう裏社会から足をあらったんだろう?」
「そうよ、だけど人探しの情報網ならまだ根強く残ってる、まあまかせてよ。青威の写真ある?」
未来の言葉に、紫龍は机の中から高一の時の青威の写真を出し、未来に手渡す。
受け取った写真を、携帯のカメラで撮ると、未来は言っていた情報網にメールを送信した。
「お前の所が昔ヤクザだったって事がばれたら、モデルできなくなるだろう?」
「そうね……でもそのスリルも楽しいものよ」
未来はそう言って、楽しそうに微笑む。
何処までが本当なのか嘘なのか……だが、未来が言うと全てが本当のような気がしてくる、この力強い輝きに紫龍は惹かれ、未来の存在を傍に置きたいとそう思い始めている自分に苦笑した。
「月島未来、俺はお前が嫌いだ」
「わかってるわ……だけどあんたが何て言おうと、最後の瞬間を共にするのは私、そう決めたの!」
未来はそう言って、満面の笑みを浮かべる。紫龍はそんな未来の表情に、呆れたように鼻で笑い、そして目を伏せ柔らかい優しい表情を浮かべていた。