〜恋心〜
「え!?」
いきなり保健室のドアが開き、露原が姿を現した。
青威を抱きしめた状態で、朱音は座り込んだままである。
朱音は心臓が大きく高鳴るのを感じ、自分の中で一生懸命言い訳をしていた。
これは、えっと、ただ成り行きで、こうなっただけで、こうなりたくてこうなったんじゃなくて……いや違うか、抱きしめたのは私だし、抱きしめたいと思ったのも私だ……あれ!? おかしいな……
慌てふためいている朱音の姿に、露原は意味ありげな笑みを浮かべていた。
その顔に朱音は顔を真っ赤にしながら、そうなってしまった事情を知られてはまずい事だけを省き説明したが、墓穴をほってしまっていた。
露原と朱音の二人で、青威をベッドに寝かせ、朱音は授業に戻っていった。
廊下を歩きながら、朱音は、なぜあんな行動をしてしまったのか考える。
青威のあの怯える姿を見て、抱きしめずにはいられなかった……あんなに男の人と密着する事が嫌だった私が……そういえば、あの病院の時も……あの時は、兄貴の言葉がショックだったから……よね、じゃあ今回は、緊急事態だったから!? う〜ん、なぜ?
朱音の頭の中は完全に絡まり、まだ頬には、ほんのりと熱さが残っていた。
休み時間になるたびに朱音はもちろんの事、考祥と学級長、それに涼香と桃子までもが保健室に青威の様子を見に来ては、青威が起きないため、また授業に戻るという行為を繰り返していた。
朱音の右の瞳は金色に輝いていたが、露原や考祥達には黒い瞳に見えているため、気づかれる事は無かった。
そろそろ四時間目が終わろうとしている。
まだ青威は目覚めない、こんなに寝るとは朱音の瞳には何か他にも秘密があるのかもしれない。
露原が溜息混じりに、青威を見つめる。
まったく、凪家の人間ときたら、面倒な人間ばかりで困ったもんだ
そう心の中で呟いていた。
四時間目の授業が終わるチャイムが鳴り響く。
まもなくして、朱音たちがお弁当を持って、保健室へと入ってきた。保健室は一瞬にして食堂と化してしまい、露原はうんざりした顔をしながら職員室でお昼を食べると言い、出て行ってしまった。
朱音は青威の顔を覗き込む、先ほどの怯えた表情とは違い、穏かな表情を浮かべ静かな寝息を立てている青威を見て、クスリと笑った。
栗色の髪の毛が日差しをうけ、キラキラ輝いている。その髪の毛から覗く顔は、無邪気な可愛い寝顔であった。
朱音は思わず人差し指で、青威の頬を突っついてみる。すると微かに顔を歪ませ寝返りをうち、微かに口を動かす。
「青威……起きて」
朱音は優しく声をかけた。
「……さゆりちゃん」
寝言から出てきた、名前に朱音の胸に微かに痛みが走り、その痛みに驚き胸を押さえた。
もちろん寝言は、考祥や学級長、涼香と桃子にも聞えている。
考祥はニヤニヤと笑いながら、青威の顔を覗き込むと、衝撃的な一言を口走った。
「そういえば、この間、二年の草壁小百合ちゃんとデートしたって言ってたな……ったく、なんだってコイツばかりモテルんだろうね」
考祥も青威の頬をツンツンと突っついた。青威は形の良い唇を微かに動かす。
「ホテル……」
この寝言を聞き、考祥の頭には稲妻が走り、学級長は眉間にしわを寄せ、涼香と桃子は口に手をあて顔を見合わせていた。
朱音はというと、顔を真っ赤に染め、高鳴る心臓の音が耳元で鳴り、胸の痛みが激しくなっていき、咄嗟に青威から顔を背け外に目をやる。
どうして、こんなに胸が痛むのか、青威が女子にモテルのは前から知っていた事である。今更聞いたところで痛くも痒くも無いはずなのだが……だが、確かに自分の中で何かが前とは違う。
朱音は自分の中の小さな変化に戸惑っていた。
「こいつ、ホテルだと!?」
考祥はその寝言に腹が立ったのか、青威の頭を軽く小突いた。
青威は顔を歪め、頭を押さえながらやっと目を覚まし、何が起こったのかわからないといった表情を見せ、キョロキョロと辺りを見回していた。
視界に朱音の後ろ姿を見つけて、眠ってしまう前の自分の事を思い出し、思わず頬を触ってみる。さすがにもう涙は乾いていたが、深い悲しみと、強烈な恐怖は残像のように頭に残っていた。
周りに考祥達が顔を揃えている事に驚き、青威は保健室の時計を見た。
時計はもう昼過ぎであった。
「お前、寝言で何ていったと思う?」
「何か変な事言ってた?」
考祥の言葉に、青威は一瞬、母親の事でも口走ったかと、ヒヤリと慌てる。
「さゆりちゃん、ホテル……だって、どういう事だよ!」
考祥が眉毛をピクピクさせながら、青威は睨みそう聞いた。
「ああ、その事ね、この間ホテルのケーキバイキング行ったんだよ」
青威は、母親の事を口走っていなかった事に安心し、笑顔でそう言い、周りの皆は期待とは違う答えに、安心したようながっかりしたような表情を見せていた。
朱音は、背後で聞えた青威の言葉に、心から安心している自分に気付き、心の中で起きている変化に溜息をついた。
紫龍の事を思っていた時の気持ちとは、少し種類の違う思い。
青威の存在に温かい安らぎを感じ、いつも傍にいてくれるという安心、そしてまた自分自身も青威を守ってあげたいと思う気持ち。
そんな思いを感じ、朱音は心の中が温かくなるのと同時に、心の中のモヤモヤとした気持ちの悪い感覚を感じていた。
これは、嫉妬……朱音はそんな気持ちが生まれている事に、微かに苦笑していた。
青威のお腹が空腹だと叫び声を上げる。一瞬の静けさの後、皆の笑い声が響いていた。
「はい、これ青威の鞄。お弁当はこの中ですよね?」
学級長がそう言いながら、鞄をベッドの上に置く、青威は無意識に右手を伸ばして、鞄を開け様と手をかけたその時、右手に激痛が走り、顔を歪める。
「しょうがねえな、俺が開けてやる、だけどその右手じゃ食えねえだろう? 俺が食わしてやろうか?」
考祥がニヤニヤしながらそう言い弁当を鞄から出し、青威の膝の上に弁当を開いて置いた。
「男に食わしてもらうのは、ちょっとな……」
青威はそう言いながら、窓の方を向いたっきり自分の方を向かない朱音をチラッと見つめる。気まずい雰囲気を感じていた。
気を失うように眠る前、朱音に抱擁され、温かい光りに包まれた事を思い出していた。いったいあれは何だったのか、温かくて心地よくて、まるで幼い頃、母親に抱かれ眠りについたような感覚。
そう思った瞬間、青威は顔が熱くなるのを感じ、皆にそれがばれるのが恥ずかしくて俯いた。
「青威君、どうしたの?」
涼香が青威の態度の不自然さに違和感を感じ、そう聞いた。
桃子は、青威の反応に朱音が関わっている事に気付き、一人で納得したような表情を見せると、愉快そうに口を開いた。
「朱音、青威君が貴女をご希望してるわよ」
その言葉に、一同が一斉に青威を見る。
青威は顔を上げる事が出来なかった。図星であった。
「青威君、それは本当かな? 我等がマドンナを独り占めする気か!」
考祥は一人で鼻息荒く憤慨しているが、学級長や涼香は、なんとなく気付いていたのか、従姉弟だからと思っているのか、さほど驚いてはいなかった。
学級長は一人騒いでいる考祥の口を塞ぐと、ニッコリと微笑み口を開いた。
「そう言えば、僕たちモッチーにプリントのコピーを頼まれてたんです、悪いんですが先に教室に戻りますね」
そう言いながら、考祥を引きずるように教室から出て行ってしまう。
朱音は振り返り声をかけ様としたが、もうすでに姿が見えなかった。
「あ! そうだ、私も次の授業に出てた宿題、やり残してたんだわ! お昼食べながらやらないと」
「忘れてた、お昼休みに占い頼まれてたんだ! じゃあ、青威君また後でね!」
桃子も涼香もそう言って、そそくさと保健室を出て行ってしまう。
「ちょっ……ちょっと!」
朱音は慌てて二人を止めようとしたが、その速さに間に合わなかった。
青威はゆっくりと顔を上げる。外からの日差しを受けた朱音の姿に眩しさを感じ、少し顔を顰めながら気付いた。
「……金色の瞳」
青威の言葉に、朱音は溜息をつき、悲しそうに微笑むと、青威の傍らに置いてある椅子に座り、何も言わずに、青威の口におかずを運ぶ。
「朱音ちゃん?」
青威は、予想もしてなかった朱音の行動に驚き、紺碧の瞳を見開いていた。
「早く食べなさい、時間がなくなるわ!」
朱音の少し強めの言葉に、青威は慌てて口を開き素直におかずを食べ、飲み込むと静かに顔を伏せる。
「どうしたの?」
「ごめん、あんな醜態をさらしちまって、もう大丈夫だから」
そう言った青威の顔を覗き込むように、朱音は紺碧の瞳を真っ直ぐに見つめて可愛らしい唇を開いた。
「無理しなくてもいいよ。私だって両親の死から立ち直れたかって聞かれたら、今だに疑問が残るもの……それに……」
朱音はそう言い掛けて口を噤んでしまう。次にどんな言葉を出そうとしていたのか、青威にはなんとなくわかったのか、代わりに口を開いた。
「俺の母親の死に方……だよな」
青威は言葉を噛み締めるようにそう言って、髪の毛を掻き揚げながら溜息をついた。
「一応克服してるつもりだったんだ、凪家に来てからあの時の夢も見なくなっていたし、だけど違った、今でも脳みそにこびり付いてやがる」
「ごめんね、私が突然あんな話したから、だけど青威にまであんな手紙がきたら、黙っておけないって思ったの……本当にごめんなさい」
「朱音ちゃん、俺、もう大丈夫だから、朝、話しかけた事、教えてくる?」
青威の問いに朱音は凛とした瞳で静かに頷いた。
「私達の両親の事故死が不自然なように、春奈叔母様の死にも不自然さがあるでしょう?」
「ああ」
「お婆様も兄貴も、はっきりとは言わなかったけれど、その裏には凪家と同じような力を持った人間が関わっていて、たぶんそれは凪家に恨みを持っている、あるいはこの世から抹消しようとしている」
朱音の言葉に、青威の表情が怒りに満ちていく。
「じゃあ、何か……母さんは凪家から離れたにも関わらず、凪家のために殺された……そういう事なのか? なぜそれを黙ってたんだ! あんのクソ紫龍!」
青威の中の怒りが膨らんでいく、自分自身をずっと苦しめてきた母の死、その真相を隠されていた、わからない状態の中、もがいて苦しんで、涙が出ないほどの悲しみを味わった。
凪紫龍、凪時雨、クソヤロウだ!
青威は、怒りのあまり、布団の上にあったお弁当ごと布団を吹っ飛ばすと、鞄を手にして保健室を凄い勢いで出て行ってしまう。
「青威! 今動いたら、危ないわ! 青威!」
朱音の悲痛な叫びも聞かずに、青威は廊下を踏み鳴らしながら歩いていく。
多少八つ当たりがあるのかもしれない、今まで自分を責めてきた苦しさの意味を無くし、その全てが凪家のせいだったと知った今、凪家に対しての怒りが込み上げ止まらなかったのだった。
青威は校門を出ると、タクシーを止め乗り込んで姿を消してしまった。