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        〜本当の名前〜

 紫龍の漆黒の髪の毛が、風に微かに揺れていた。

 冷ややかな薄い唇がゆっくりと開き。低くほんの少しかすれた声が微かに響きだした。

「ワタゲの目も心も、アイツに似ていた……晴海はるみに」

 紫龍は煙草の煙を吐きながらそう言って、薄暗くなり始めた空を見つめる。

「アイツ? 晴海って誰?」

 未来の問いに、紫龍は未来を真っ直ぐに見つめる。

「……俺の弟さ」

 紫龍の言葉に、未来の頭の中は複雑に絡みだしていた。

 凪家真雪には二人の子供しかしないはず、紫龍と朱音、弟とはどういう事だろうか。

 未来の困惑した表情を横目に紫龍は言葉を続ける。

「聞いた事ないか? 凪家は血族の中からその役割に相応しい人間を当主とする。それがたとえ直系ではなくても、俺は分家の末端の家に生まれた」

「え!? と言う事は養子?」

「ああ」

「じゃあ、凪真雪と夕月は本当の両親じゃない……じゃあ、さっきの寝言」

 未来はそこまで口にして、後の言葉を飲み込み、気まずそうに目を伏せた。

 紫龍はそんな未来を見つめて、悲しく微笑むと煙草を吸い、煙を吐く。

「別に隠してるわけじゃねえんだ……ただ、できるだけ自分にとって痛い記憶は思い出したくない、それだけだった」

 紫龍はそう言い、唇を微かに噛み締め、真っ直ぐ前を見る。それは自分の中の弱さを見つめ、認めようとしているようにも見えた。

 他の誰も知らないような事実を、なぜ自分に話してくれたのか、未来は、それが不思議でしようがなかった。少しだけ淡い期待を抱いてしまう自分自身を必死に押さえ込んでいた。

「俺には双子の弟がいた、名前は工藤晴美、生まれ付き知的障害を持っていた。そのせいもあったのか、純真無垢な真っ白い心を持っていて、瞳はいつも天真爛漫な無邪気さに輝いていてた……俺の大事な片割れ」

 紫龍は一瞬、痛みを感じたような表情を浮かべる、それは心の痛みだったのか、昼間手に負った傷の痛みだったのか、未来は知る由もなく、ただ傍らで、静かに紫龍の言葉を聞いていた。

「ワタゲは、アイツの真っ白な心に似てるんだ……だから、ワタゲなんだよ」

 紫龍はそう言って、遠くに浮かぶ雲を見つめていた。いや、少し違う、もっと遠い遠い記憶、未来が手を伸ばしても絶対に届かない、遠い記憶を見つめていた。

 未来は初めてどうにもならないほどの、敗北のような感覚を味わっていた。

 手を伸ばしても届かない、こんなに近くにいるのに、遠くて届かない、未来は紫龍の横顔をただ見つめているだけが精一杯だった。

 触れることすら許されないような、そんな雰囲気が漂っていた。

「お前、俺の死に水を取ると言ったな?」

「……ええ」

 紫龍の突然の問いに、未来は一瞬遅れて返事をする。

「俺は、かならず死ぬ」

 紫龍の言葉を、未来は、一瞬の呼吸も見逃さないような瞳で、丁寧に聞いていた。

「脅しでも何でもなく、近い将来、かならず最後がやってくる」

「わかってる」

 未来は凛とした強い光りを放つ瞳で、紫龍を見つめていた。

「凪家でも、ごく一部の人間しか知らない、俺の本当の名前、捨てた名前を教えてやる……工藤輝海くどう てるみだ」

 紫龍はそう言うと、未来の方を向く。浮かべた表情は逆光になってよく見えなかったが、弱々しく儚げな中に柔らかい優しい雰囲気を漂わせた微笑だった。

 未来は手を伸ばし、優しく紫龍を包み込むように抱きしめる。

 紫龍の持っていた煙草が、指からすり抜け、地面の上に落ち燃え尽きていった。

 風の音だけが、耳をくすぐるように通り抜けていく。


 意外にも、紫龍は静かに目を閉じ、未来を抱擁を受け入れていた。

 女としてというよりは、一人の人間として、未来の中に魅力を見出していたのかもしれない。

 だが、やはり体は女である。紫龍のちょうど頬の辺りに、柔らかい丸みを帯びた感触が当たっていた。そんなに大きくはないが、それは確かに乳房である。

 紫龍はその感触を感じ、一気に現実へと引き戻され、未来の体を飛ばすように突き放した。

 未来は驚いたように顔を上げ、紫龍を見つめると、真っ赤に染めた顔を伏せ、胸の辺りを押さえていた。

 紫龍の中で、鼓動が強いリズムを刻んでいた。未来にも聞えてしまうのではないかと思うくらい、体全体が脈打っていた。

 人を求める事を怖れ、求められる事を怖れていた自分がいた。なのに、今、此処にこうして、未来の存在を求めたいと思っている自分がいる事に、紫龍は気付き苦笑する。

 重くて、苦しくて、鬱陶しい感情が心に現われ、臆病な雁字搦めになっていた紫龍の心を、温かく解こうとしていた。

 突然の心の変化に、紫龍は恐怖にも似た感覚を感じる。

「帰れ」

 紫龍の言葉は冷たい響きを持っていた。

 さすがの未来も、紫龍は纏っている雰囲気がいつもと違っているために、強引に自分の気持ちを押し付ける事はできなかった。

「名前、教えてくれてありがとう……それって、大きな意味として受け取っていいのよね?」 未来の言葉に、紫龍の横顔がほんの少し反応するが、言葉は出てこなかった。

 紫龍を包んでいる雰囲気は、人を拒絶し、入り込む隙を与えない。空気は緊張に包まれ、チリチリと肌を刺激するような痛みを感じるほどだった。

 未来は溜息をすると、静かに立ち上がる。今はこれ以上何を言っても、紫龍からの言葉は返ってこない、そう思った。

 未来は、紫龍の部屋を後ろ髪を惹かれるような思いで後にする。襖を閉じる瞬間、紫龍の方を見るが、何の反応もなく、未来の方を見る事もなかった。

 紫龍は本当の名前を教えてくれた。その現実だけを心の中にしまい込むと、離れを後にする。

 未来の祖父が生きていた頃、聞いた事がある。

 裏社会の中でも影として存在する者は、絶対に本当の名前を明かさない。もし本当の名前を明かすような事があるとしたら、それはその相手に心を許すという事を意味する。

 紫龍は本当の名前を未来に教えた。だが、帰れと突き放すような言い方をした。その両極端な行動に、未来は紫龍の気持ちをどうとっていいのか、わからなくなっていた。


「月島さん、もう帰るんですか?」

 廊下に立っていた朱音が、離れから出てくる未来を見かけて、声をかけた。

「うん、まあね。また来るわ」

 未来は苦笑いを浮かべながら、朱音にそう言った。

 朱音は、未来と紫龍の間で何かがあたった事を察知する。咄嗟に靴下のまま芝生の上に降り立つと、未来に向って走り出した。

「兄貴が何か失礼な事しました?」

 朱音の問いに、未来はほんの少し間をおいて、ゆっくりと口を開いた。

「……本当に手に入れたいものって、なかなか手にするのは難しいわね」

 未来はそう言うと、朱音の黒い瞳を見つめて、悲しく微笑んだ。

 その瞳は、未来には珍しく弱々しく淋しそうな雰囲気を漂わせていた。

「月島さん! 兄貴の事、月島さんになら頼めるって……そんな風に思ったの初めてだったんです!……だから、私のためにもあきらめないで下さい……あれ? 私なんか可笑しい事言ってますね。自分の事ばか……」

 朱音は言葉の途中で涙を流す。安心と淋しさが入り混じった複雑な涙であった。

 朱音の精一杯の本心が、未来の心に浸透していく。

 未来は朱音の頬を伝う涙を優しく拭うと、柔らかく微笑みかけた。

「大丈夫だから、紫龍の事は私にまっかせなさい! と言っても、前途多難だわ」

 未来はそう言って、おどけたように微笑むと、朱音に向って軽くウィンクをした。

 朱音は涙顔で、笑顔を浮かべていた。

「じゃあ、また来るわね。朱音ちゃんも早く本当に好きな人できるといいね」

「え!? 私はまだ……」

「案外、凄く近くにいるかもよ、じゃあまたね」

 未来はそう言い残すと、背中を向けて颯爽と歩き姿を消していった。

 後には、相変わらず熱を帯びた風が吹いている。

「近くに……」

 そう呟いた朱音の脳裏には、一瞬、青威の姿が浮かんだのだった。

 まさかね……朱音はそう心で呟き、クスクスと笑いながら涙を拭う。

 艶やかな黒髪を微かに揺らしながら、風が吹きぬけ、新緑の緑を揺らしていた。

第四章「朱音と未来」が終了いたしました。

ここまで飽きずに読んで頂いた方に、心から感謝いたします。


人の心は複雑で難しいですね。

お金をいくら貯めた所で、人の心はなかなか手に入るものではありません。


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