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        〜追憶の夢〜

 なぜ、いないの……私のハル君を返して……お前のせいよ!

 大事なハル君がいないの、ねえ返してよ! テル! お前が変わりに死ねばよかったのに

 狂気に満ちた瞳を見開きながら、女は幼子の首に手をかけ、細い首を締め付ける。

 小さな体を悶えながら、必死に抵抗するが手を外すことが出来なかった。

「苦……しい……おか……あ……さん」

 小さな男の子の頬を伝って涙が流れ落ちる。

 ごめん……なさい……お母さん


「……あさん!」

 紫龍はいきなりそう叫んだかと思うと、起き上がり目を見開いて真っ直ぐ前を見ていた。

 額は冷や汗で濡れ、悪夢を見ていた事が目に見えてわかった。

「紫龍、大丈夫?」

 未来の言葉が前から聞こえてきて、現実に引き戻され、紫龍は安心したように一つ溜息をついた。

 紫龍はびっしょりと濡らした額の汗を拭いながら、外に目をやる。

 眠りに落ちる前と、景色の色が一変していた。

 空は紫色に染まり、山の陰は燃えるように赤く、太陽の姿は隠れて見えなかった。

「青威と朱音は?」

 紫龍は、車の中に未来と二人きりである事に気付き、表情を曇らせると、無愛想な声でそう聞いた。

「降りたわ、紫龍はまだ寝ていたから、起こしたら悪いと思って起こさなかったの……だけど夢見が悪かったようね。起こしてあげた方が良かったかしら」

「いや……別にいい……俺、何か言っていたか?」

 紫龍は眉間にしわを寄せ、口を手で覆いながら絞り出すように言葉を吐いた。

 未来はバックミラー越しに紫龍を見ながら、一瞬、言葉を言う事を躊躇う様な仕草を見せた。

「何を言っていた?」

 紫龍はその様子に、自分が何かを言っていた事を悟り、バックミラーに映る未来に問いかけた。

 未来はバックミラーから視線を外し、真っ直ぐ前を見つめると、静かに口を開く。

「……殺さないで……お母さん……って言ってたわ」

 未来は紫龍の表情を見ようとはしなかった。

 紫龍は、黒い瞳に悲しみを宿しながら溜息をつき、自分自身の滑稽さに笑みを浮かべる。

「そうか」

 そう一言、言ったきり、後は何一つ言葉を発しなかった。

 車の中には重く、息をする事すらも苦痛に感じるような雰囲気が漂っていた。


 未来は、紫龍の寝言に対して疑問を持っていた。

 紫龍の母親である凪夕月なぎ ゆづきは、凪家当主の妻に相応しく、いつも凛として動じず物静かでありながら、優しい雰囲気を兼ね備えた女性であった。

「殺さないで」などという言葉が紫龍の口から出てくるような、そんな女性ではないはず……未来はそう思っていたが、他人にはわからない事もあるのかもしれない、そう思い、それ以上何も言葉を口にしなかった。いや出来なったと言った方が正しいのかもしれない。

 紫龍を取り巻く重苦しい雰囲気を感じ、入り込む隙が見えなかったのだった。


 時間にして数分だっただろう。

 車は家の前に戻ってきた、未来にはその時間がとても長く感じていた。

 なんとなく、知ってはいけない紫龍の秘密に、微かに触れてしまったような気がして、気まずい思いをしていた。


「今日は悪かったな」

 紫龍の突然の言葉に、未来は驚いていた。

 あの傲慢で自信過剰の紫龍がそんな言葉を吐くなど、想像すらできなかったからだ。

「気持ち悪いなあ、そんな風に言われても、あまり嬉しくない」

 未来はそう言って、紫龍の方を振り向くと、そこには漆黒の瞳が揺れ、未来を真っ直ぐに見つめてた。未来の心臓は大きく高鳴り、体中の血管が脈打ち、全身で血の流れを感じる。

 紫龍は、苦しそうな悲痛な表情を、一瞬浮かべると、目を伏せドアを開き外に出た。

 いつもの紫龍の雰囲気との差に、未来は戸惑い、どう声をかけていいかすぐに思いつかない。

 紫龍の中には、他人が入り込めない過去がある。未来はそう直感し、咄嗟に車から降りると、とにかく紫龍を呼び止めなければと思い、声をかけた。

「本当に感謝してるなら、お茶でも飲ませなさいよ」

 未来はそう言って、紫龍の様子を伺い、心の中でイエスという返事が返って来る事を祈っていた。

「やだ」

 だが、答えはやはりいつもと同じようにぶっきら棒な言葉だった。ただ雰囲気はいつもとは全く別のものだった。

 強さが無く、弱々しく怯えているように見える。

 未来はそんな紫龍を放っておく事ができなかった。

 人は時たま一人なる事を望む。だが、今の紫龍を一人にしてはいけないような、そんな気がしていたのだ。

「何もしやしないわよ、ただ、傍で煙草に火をつけてあげるわ」

 未来はそう言って、紫龍にひがみっぽい笑みを浮かべて見つめる。紫龍は静かな瞳で未来を少しの間見つめると、鼻で笑い目を伏せ背中を向けた。

「好きにすればいい」

 紫龍はそう言い、母屋へと鍵を取りに向う。

 紫龍の心の中で、何がどう動いたのかはわからない、ただ、未来は紫龍がそう言ってくれた事に、心から感謝して、安堵の息を漏らした。


 悲哀に満ちた雰囲気を漂わせた背中には、黒い龍が、まるで紫龍の命を狙い済ましているように、色濃く浮かび上がっていた。

 

 未来は車を急いでガレージに入れるとガレージを閉めた。

 紫龍が母屋の玄関から出てきたが、未来の事を一瞥もせずに離れへと向かっていく。未来は苦笑いを浮かべながら、紫龍の後ろを一定の距離を保ちながらついていった。

 漆黒の黒髪が風に微かに揺れている。

 未来はその後姿を見ながら「殺さないで、お母さん」という、あの寝言を思い出していた。

 苦しそうに、そう口から漏れ出した言葉、胸が締め付けられるような響きを持っていた。何があったかなどと聞く事は出来ない。それほど重い響きを持っていた。

 ただ傍にいたい、それだけでいい。そう強く思う未来がそこには存在していたのだった。


 紫龍は鍵を開け、離れの中に入る。未来もその後について中に入った。

 玄関先では、いつものようにワタゲがちょこんと座り、緑色の瞳を輝かせ、甘えた声で鳴いていた。

「可愛い。紫龍にそっくりな黒猫だ」

 未来がそう言うと、紫龍は未来の方を振り返り、揺れる黒い瞳で未来を見つめる。

 何を思っているのか、その瞳は儚げで悲しい光りを湛えているように見えた。

 未来はワタゲに手を伸ばす。するとワタゲは毛を逆なで、尾を膨らませ未来を威嚇している。

 未来が伸ばした手にワタゲの爪が飛んできて、白い手の甲に三本の細い爪痕が残った。

「つっ!」

 未来は咄嗟に手を引っ込め、ワタゲを睨んだかと思うと、靴を投げ出すように脱ぎ捨て、ワタゲを追いかけ始めた。

 猫の身体能力に、人間が敵うはずもないのだが、唯一未来がワタゲに勝てるとしたら、精神力の強さかもしれない。

 真顔でワタゲを追い掛け回しながら、奥の部屋へと駆け込んでいく未来を見て、紫龍は溜息をつき、重い足取りで靴を脱ぐと家へと上がり、脱ぎ散らかしてある未来の靴をきちんと並べて置いた。

 紫龍は自分の行動が、滑稽に感じ思わず笑みを零す。

 あいつは……何なんだ? 心の中でそう微かに呟いた。

 

 襖を開けると、畳の上では未来がワタゲを動けないように両腕でしっかりと抱き、ワタゲははた迷惑そうな仏頂面で、牙をむき唸るような鳴き声を上げていた。

「この未来様に立て付こうなんて、生意気なのよ」

 未来は相手が猫である事を忘れているような言葉を言い、ワタゲが嫌がっているのにもかかわらず、むりやり頬ずりをしていた。

「ワタゲはメスだからな、女が嫌いなんだよ」

 紫龍の言葉に、未来は顔を上げて今まで見たこともないような、無邪気な子供用な笑顔を浮かべた。紫龍はその笑顔の眩しさに一瞬、目を見開く。

「この子、ワタゲって言うんだ……ワタゲって、あのたんぽぽの綿毛の事?」

「ああ」

「黒いのに、何で?」

 未来の問いに、紫龍は目を伏せ、机にあった煙草を手にすると障子を空け、外の硝子戸を開き部屋の中に風を入れた。

 昼間の温度を吸い取り、熱をもった風が吹き込んでくる。

 紫龍は縁側に座り込むと、煙草を咥え、未来を見つめた。

「火、つけてくれうんだろう」

 紫龍の言葉に、未来はワタゲを離して立ち上がる。ワタゲはこの時とばかりに、飛ぶように逃げ、机の下に隠れて出てこなかった。

 紫龍はそんなワタゲを見て、鼻で笑い優しく睫毛を伏せる。

 未来は、これから何かが語られる。そう確信しながら覚悟を決め、机からライターと取ってくると、紫龍の横に寄り添うように座り、煙草に火をつけた。

 煙草の煙が、一筋の線を作りゆらりと昇って行く。

 纏わりつくような風が、二人を包んでいた。 

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