〜愛の正体〜
未来は、レッカー車に引っ張られて行く自分の車を見ていた。
それは、まるで怪我をした我が子が、救急車に乗せられ運ばれて行くのを、傍らで見ている母親の姿に似ていた。
「私の愛車が……」
「月島さん、私のせいでごめんなさい」
朱音はそう言って、未来に頭を下げる。
「そうやって、自分に非がある事を認めるのは悪い事じゃないけど、あまり全部を背負わない方がいいと思うよ。此処に連れて来たのは私なわけだし、私にも責任がある」
「わっかてんじゃねえか。じゃあ俺が弁償する義理はないよな」
紫龍は鼻で笑いながら、未来にそう言って、漆黒の髪の毛を掻き揚げた。
未来は紫龍に近付くと、紫龍の顔を覗き込んで、あと数センチで唇が触れる、という所まで顔を近づける。紫龍は一瞬、未来のその行動に後ずさった。
「弁償できないなら、紫龍の体で返してもらってもいいんだけど」
未来は瞳をキラリと光らせる。まるでそれは小悪魔そのものだった。
「な!? いい加減にしろよ」
紫龍が激しく動揺して、頬を赤く染めている。そんな紫龍の姿を見て未来は愉快そうに高らかに笑っていた。
朱音は未来の言葉に、顔を真っ赤に染めている。
「月島さん……教育的指導が入りますよ」
青威は冗談半分にそう言い、俺よりも上手がいると心の中で呟いていた。
「紫龍、大好きよ」
未来はそう言って、紫龍に思い切り抱きついた。
「は、離れろ!」
紫龍は顔を真っ赤にしながら声を上げる。だがそんな言葉を無視して、未来は離れようとはしなかった。
「いい加減にしろ!」
紫龍はそう激しく言い、突き放すように未来の体を押しのけた。紫龍は悲しみと怒りが混ざり合ったようは表情を浮かべていた。
「ざけんじゃねえ!……さっさと帰るぞ」
紫龍は冷たくそう言うと、未来たちに背中を向けて車を止めている場所へと歩いていく。
背中の黒い龍が、悲しげに浮かび上がっているように見えていた。
「怒らせちゃったな……だけど、私は諦めないわよ」
未来はそう言って、傍らで風に揺れている百合の花を見つめる、澄んだ黒い瞳が微かに揺れていた。
ゆっくりと目線を移動して、未来は紫龍の後姿を見ると、後を追いながら歩いていく。
未来の凛とした後姿を見ながら、朱音はゆっくり口を開いた。
「……月島さんて、凄い人ね」
「だな……あの人のパワーには脱帽だわ」
青威はそう言って、苦笑いを浮かべていた。
「だけど、俺にとっては朱音ちゃんの方がパワーを感じるよ」
「私? そんな気を使わないで、自分の弱さくらい認めてるもの」
「人間なんてどこかしら弱いもんだよ」
「青威でも弱い所なんてあるの?」
「あるある、おおあり!」
青威はそう言いながら、自分の中の記憶の傷を思い出し、痛みが走るのを感じていた。
「私の力ってなんだろう?」
朱音は未来の後姿を真っ直ぐに見つめながらそう静かに呟く。
「それはね……俺を笑顔にしてくれる事!」
青威は輝く笑顔を浮かべながら、朱音の視界に入るとそう言った。
朱音は一瞬目を丸くして驚くと、次の瞬間、温かいそれはそれは優しい雰囲気を漂わせて笑った。
本当に青威と一緒にいると、温かくて気持ちがいい。
青威、ありがとう。朱音は心の中でそっと呟いたのだった。
紫龍の車は海岸線沿いを走っていた。
運転はもちろん未来であった。
青威の希望としては、後ろ座席に朱音と一緒に乗る事であったが、紫龍が未来の隣に乗ることを異常なまでに拒み、結局後ろ座席には男二人に乗ることになってしまった。
朱音は疲れたのか助手席に体重を埋め、静かに寝息を立てている。
ったく、隣に朱音ちゃんがいれば今頃は、朱音ちゃんの顔が俺の肩の上にあったはずなのに、紫龍の野郎覚えていろよ。
青威はそんな事を思いながら、外を流れていく景色を見ていた。
太陽は傾き、山の陰に隠れようとしている。
何だ!?
青威は、突然肩に重みを感じ、自分の肩と見た。するとそこには紫龍の顔があり、疲れたような顔をして寝息をたてていた。
この野郎! 俺の肩は男のためには存在してないんだぞ!
そう心の中で叫ぶと、紫龍の頭を押して向こう側へと押しのける。
紫龍は窓硝子に軽く頭をぶつけながらも、起きる事無く眠っていた。頬に掛かる漆黒の髪の毛せいか、その表情はやつれて見えた。
線の細い華奢な体に見えたが、意外にもしなやかな筋肉を持ち、鍛えられた体はバランスが整っていた。
白い透き通るような肌にくっきりと浮き上がる黒い龍は、紫龍の命を蝕んでいく。
そう考えると、余計にその黒い龍が活き活きと躍動すように見えた。
青威は溜息を一つする。
いつか、紫龍の言っていたような事が起こるんだろうか。その時、俺は……
青威は唇を強く噛み締め、手を力一杯握っていた。
車は凪家の家の前で止まった。
朱音はすぐに起きたが、紫龍は深い眠りに入っているらしく起きる気配がなかった。
青威は、紫龍に対して腹立たしさを感じていたのか、何も言わずに車から降りる。
朱音も助手席から降りると、紫龍を起こそうと、後部座席をドアを開け様とした。
「朱音ちゃん、もう少し寝かせてあげよう」
未来の言葉に、朱音は顔を上げ、黒髪越しに未来を見つめる。未来は優しい笑みを浮かべ、紫龍を愛しそうに見つめていた。
朱音の心は微かに痛んだ。だが、それとは別に自分の中の小さな変化にも気付いていた。
未来が紫龍を見つめるその姿を見て、安心に近いような、そんな気持ちが芽生えていた。
いつもハラハラしながら紫龍を見ていて、突然眼の前から消えてしまうのではなかと、不安に怯えていた心を、未来になら委ねられるような気がしていた。
そして気付く。
「そっか、そうだったんだ」
朱音はそう一人で呟き、含み笑いを浮かべていた。
朱音もまた、紫龍同様にたった一人の家族に対して特別な感情を抱いてしまっていたのだろう。
紫龍を亡くしてしまったら、自分自身にはもう何も残らない。そういった恐怖意識が、紫龍に対しての思いを強いものへと変えていき、朱音自身に愛という感情を錯覚させてたのかもしれない。
未来が言っていた「家族に対しての愛と、恋人に対しての愛の、境界線は難しい」と言う言葉の意味が深く深く朱音の心のに沁み込んでいた。
「どうかした?」
朱音の含み笑いに、未来はそう言いながら不思議そうな顔を浮かべている。
青威も、紺碧の瞳をキラキラと輝かせ、朱音を見ていた。
「ううん、何でもない……月島さん、兄貴の事お願いします。あと車はあそこのガレージに中に入れておいて下さい」
朱音はそう言うと、青威の腕に自分の腕を引っ掛け、引っ張るように家の中へと入っていった。
青威は、朱音の含み笑いの意味も、突然自分の腕を引っ張り出した行動も、理解できなかったが、紫龍ではなく自分の腕を引っ張ってくれる、その行動が嬉しかった。
そして、青威は密かにほくそ笑む。
紫龍と未来、あんなに嫌がっていた未来と二人っきりになった時、紫龍はどんな反応をするだろうか、そう考えると楽しくて仕方がなかったのだった。
未来は運転席に座ると、車を走らせた。
もう一回りくらいしてきたら、起きるかな……そんな事を考えながら、バックミラーに映る紫龍の顔を見ていた。
青威のように整った顔ではないが、白い肌にくっきりと浮き立つ長い睫毛、冷たさを感じる薄い唇、鋭い存在感の中に儚さを持ち合わせた雰囲気を漂わせている。
未来は、そんな紫龍の寝顔を見ながら、微かに微笑み、心の中から溢れ出てしまうほどの嬉しさを感じていた。
そんな自分の姿を見ていて、楽しくて仕方がない未来であった。