〜恋の予感〜
紫龍は自分が着ている、シャツのボタンを外すと、シャツを脱ぎ未来に差し出した。
未来は驚愕の表情を浮かべる、と思っていた、当然、紫龍もそう思っていたに違いない。
だが、その予想は見事に裏切られ、未来は黒いシャツを受け取ると、匂いをかぎながら顔を顰めて口を開く。
「お酒臭い」
そう一言だけ言って、シャツを着る。
紫龍は、未来の淡々とした態度に逆に驚かされていた。
自分の体に深く刻まれた龍の姿を見て、驚かない人間がいる等と思ってみなかったのだった。
「何? そんな顔して」
未来は不思議そうな表情を浮かべて、紫龍の顔を覗き込んだ。
「何でもない」
紫龍はそっけなく。冷ややかに未来を突き放すようにそう言い、立ち上がった。
「驚くと思ったんでしょう……ご期待に添えなくて悪かったわね。常日頃もっと鮮やかな色の刺青を見たりしてるんで、こういう物を目にしても驚かなくなっちゃったわ」
未来は紫龍の大き目のシャツの袖を捲り上げながらそう言い、立ち上がると紫龍の背中にくっきりと浮かぶ黒い龍を指でなぞる。
「でもこれは、今まで見てきたものと全然違うわね。躍動感に満ちていて、今にも動き出しそうだわ」
「……生きてるんだよ」
「生きてるって? 何よそれ」
「俺に近付きすぎると、背中の龍に食われちまうぞ、気をつけろ」
紫龍はそう言うと、土手を下り、朱音と青威の所に向い歩き出した。
「龍に食われる? どういう事よ! あんたが言うと冗談に聞えないじゃない」
未来はそう言って、紫龍の後を追いかけるように走っていく。
潮風が未来の黒い髪を揺らしながら、吹きすぎていった。
朱音は足首を押さえながら、顔を歪めていた。
「痛む?」
青威の言葉に朱音は弱々しく微笑む。右の瞳が弱々しい金色の光りを放っていた
「青威、助けてくれてありがとう。やっぱり凪家の直系の血を引いてるだけの事はあるわね。私は、感じる事は出来ても見ることは出来なし、払う事もできない……ただ、この瞳に忌まわしいものを宿してるだけ、いつも足手まといになるばかりで、嫌になる」
朱音はその可愛らしい唇を軽く噛み締めてそう言う。
「足手まといでもいいんじゃん。そうじゃないと俺の役割がなくなる……俺に失業させないでくれる」
青威はそう言って、朱音にウィンクをする。
栗毛の髪の毛が太陽の光りに輝き、キラキラと輝いていた。
「本当に綺麗ね……温かかい色」
朱音はそう言って、青威の髪の毛を梳く様に優しく撫でる。
青威は眼の前の金色の瞳を真っ直ぐに見つめていた。
そんな青威の視線の意味に気付いたのか、朱音はフッと悲しい笑みを浮かべて口を開く。
「そっか、青威には見えるのね……」
朱音の視線が青威の心の中を見透かすように見つめている。
「はじめて見たのは、じいさんの通夜の夜、あの時と全然変わらない、綺麗な色だ」
青威は朱音の瞳を真っ直ぐに見つめると優しく微笑んだ。
「青威は私の瞳の意味を知ってるの?」
「え!? いや……あんまり」
青威は紫龍から聞いた真実をあえて口にしなかった。
朱音は自分の存在が災いの種だと言っていた。それは紫龍が言っていた真実と少し違っていたからだ。
「この瞳には龍緋刀という刀が封印されていて、その刀を手にしたものは竜神をも操り、この世の全てを手に入れることが出来る。そんな事言われても、私には実感がないんだけどね」
朱音の言った言葉と紫龍の言っていた言葉に、ほんの少し誤差があった。
どうやら朱音は、龍緋刀が持っている本当の意味を知らないらしい。
朱音の言った事が、俗に言う裏社会の中で噂されていたとしたら、朱音の存在を狙う者もいるだろう。
実際に、凪家は竜神を守り神にすることで、今の地位を築いて来たのは確かなのだから。
六年前といい、今回の事といい、やはり裏に何かが隠されているのは間違いない。
青威は朱音の手を握り締め、朱音の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「朱音ちゃんは、朱音ちゃんだよ。そのままの朱音ちゃんが俺は好きだよ」
そう言って、青威が浮かべる笑顔は温かく、朱音の中に漂う恐怖を癒していく。
朱音はその感覚に心地よさを感じ、微かに微笑んでいた。
「またすぐに好きだって言うんだから。他の子にも同じ事言ってるんでしょう」
朱音の言葉に、青威は苦笑いを浮かべる。
見透かされている。いや、そうではない、意図的に朱音にそう思わせてるといった方が、青威の場合は正しいのかもしれない。
「大丈夫か?」
紫龍の声が聞こえ、青威と朱音は声のする方を振り向いた。
二人は上半身裸の紫龍の姿に驚きを隠せなかった。いつも色の濃いシャツを着込んで、黒い龍を絶対に人前では見せない、紫龍が、黒い龍を露にしてそこに立っていたのだから。
すぐ後ろから、未来が走ってきて、紫龍がさっきまで来ていたシャツを着てるのを見て、二人は紫龍の姿に納得していた。
青威は、意味ありげにフフンと鼻を鳴らしていた。だが、朱音は紫龍のシャツを着ている未来の姿に、小さな小さな胸の痛みを感じていた。
朱音の表情に過ぎる悲しげな影に、青威は気付き、朱音の手を優しく握った。
青威の気持ちが伝わったのか、朱音は優しく微笑んでいた。
「まったく、お前らは、そろいも揃って余計な事をしてくれる。此処に朱音を連れて来るなんて……だけど……青威……月島……朱音を守ってくれてありがとう」
紫龍は長い睫毛を伏せ、静かにそう言うと、朱音の足首に巻かれた布を取り、怪我の状態を見る。赤い手痕はすでに消え、出血もほとんど止まっていた。
青威は驚いていた。紫龍に礼を言われたのは、これが初めてだったからだ。
「何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
紫龍にそう言われて、青威は自分が紫龍の顔を凝視している事に気付き、照れながら顔を伏せた。
「兄貴……なぜ教えてくれなかったの? 毎年此処に来てたなんて」
朱音の言葉に紫龍は一瞬朱音を見つめて、目を伏せ優しく微笑んだ。
「危険だと思ったからさ……危ない事が起こる確率があった。案の定、余計な力を使わなきゃいけなくなった」
紫龍の言葉に青威は不機嫌な表情浮かべ、たった今、自分に礼を言ってきた紫龍の姿に、感動していた自分を返して欲しいと、そう思っていた。
「紫龍……あんたは本当に馬鹿だわ。もう少し自分以外の人間の力の信用したら?」
未来の言葉に、紫龍は無言で立ち上がり、道路の方を向くと静かに歩き出した。
そんな紫龍の後姿に未来は溜息をつき、朱音の方を見て優しく微笑えむと、頭をそっと撫でた。
「どうしてああも素直じゃないのかしらね。朱音ちゃん、貴方を失う事を一番怖れているのは、きっと紫龍自身なのよ。大事に思ってるくせに、あんな言い方しかできないんだから……」
未来はそう言って、朱音を立たせると、青威と二人で朱音を抱えるように歩き始めた。
前を一人で歩く紫龍の後ろ姿を未来は揺れる瞳で見つめていた。
自分の中の紫龍への思いが、大きくなっていくのを感じ、やっかいなヤツを好きになってしまったと、自分自身に呆れ鼻で笑っていた。
そんな未来を朱音は横目で見ながら、悲しげに笑っていた。
未来の中の積極的な優しさに、心を奪われ、紫龍への気持ちと同様に、この人が自分の傍にいてくれたらと、そう思っている自分がいた。
ふと反対側を見ると、そこには青威の栗毛の髪の毛が揺れている。
気付くといつも傍にいてくれる青威……朱音の心の中では、ユラユラと思いが揺れ始め、小さな波を立て始めていた。
ただそれはあまりにも小さく、朱音自身はそれにまだ気付いてはいなかった。
「紫龍! ちょっと待ちなさいよ。あんた、車で来てるんでしょう! 車は私が運転するからね、飲酒運転で捕まったら大変だもん……ったく、絶対に車、弁償させてやる」
未来はそう言いながらぶつぶつとぼやいていた。
朱音はそんな未来を見ながらクスクスと笑う。青威は朱音のその笑顔に安心した表情を浮かべていた。