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        〜赤い手痕〜

 全身黒ずくめの後姿が、凛とした雰囲気を漂わせて立っていた。

 当然、紫龍にも、青威に見えた、赤い手痕が見えているはずである。いや。もっと違う何かを見ているのかもしれない。

「ったく、余計な物を持ってきやがって……だが、そのおかげで探してた姿をやっと見つけた」

 紫龍はそう微かに呟くと、手に持っていたナイフの刃を右手握り締め、ゆっくりと引き抜いた。ナイフには血が付いており、路面には赤黒い血のシミがついていた。

 血の出ている掌を開くと、指を伝って血が落ちた。

 紫龍は眼の前にある、激しく燃え盛る炎を見つめていた。

 人間の形をとうの昔に失ってしまい、憎悪だけが炎という形として、この場所に憎悪のはけ口を求めて留まっていたいたもの。

 一つや二つの魂ではない。無数の魂が集まり一つに纏まって、凄まじい熱さを放ち、紫龍の向こう側にいる、朱音を狙っていた。いや、朱音ではない、龍緋丸を狙っていた。

 六年前よりも、力を蓄え大きくなっている。

 紫龍は舌打ちをしながら、右手を前の方に大きく振る。流れ出た血が飛び、目の前の炎にかかると。血の付いた場所から青白い炎は立ち、それは一瞬にして、その紅蓮の炎を包み込み、紫色へと色を変えたかと思うと、一瞬にして炎は消えうせた。

 おかしい……こんな、あっけないないわけが無い。

 しまった、あの赤い手痕は別ものだったか!?


 青威は朱音に向って走った。

 赤い手痕が青威を追いかけるように、凄いスピードで付いてくる。

 青威が車に辿りつき、ドアを開けた瞬間、赤い手痕も追いつき、車のありとあらゆる場所に赤い手痕を付ける。

 青威はその光景の凄まじさに、一瞬動きが止まってしまっていた。

 次の瞬間、赤くつけられた手痕という手痕が、凄まじい音を鳴らしながら、凹み、車を押し潰していく。

「きゃああああ!」

 朱音の悲鳴が響き渡り、その声は当然、紫龍にも聞え、振り返ると紫龍は車に向って走りだした。ところが、紫龍の行く手を、先ほど消したはずの紅蓮の炎が現れ阻んだのだ。

「愛おしい、愛おしい、凪家の当主」

 その炎はそう言葉を紡ぎ、あるはずの無い肉体を作り出し、妖艶な女性へと形を変えたのだった。


 未来はひしゃげた車のドアを足で思いきり蹴り、外に出る。

 青威も朱音の腕を掴むと、引きずり出すように車から逃げ出した。

 土手を下り、海へと走る。

 赤い手痕は。砂の上にもくっきりと痕を残してついてきていた。

「いったい、何?」

 未来が何もわからない状況で、ただ青威と同じ方向に逃げている。

 その時だ、朱音が砂に足をとられ転んだ、足首に赤い手痕が付く、瞬間、そこから血が噴出した。

「いやあああ」

 朱音の悲鳴にも近い声が、空気を震わし響く、未来は慌てて朱音の足首を押さえて血を止める。傷口は開いたままで血が指の合間から流れ出ていた。

 未来は咄嗟に自分が着ていた服を脱ぐと、歯で噛み千切り、それを朱音の足に巻きつけ止血した。

「見つけた……見つけた、待ちわびたぞ」

 霊感のない未来にも、霊の力が強いせいなのか、その異様な声が聞こえていた。

 未来は朱音を守るように抱きしめ、声のするほうを睨みつめる。

 青威は立ち上がると、眼の前に増えていく手痕を睨み、深呼吸をして、目を大きく見開いた。

「傍によなんじゃねえええ」

 声は波の音を打ち消すように、遠くの方まで突き刺さるように響き、目の前に広がっていた手痕を一気に散らした。

 そして心の中で強く念じる。

 消えうせろ!

 青威達を囲んでいた邪気は、一瞬にして消えてしまった。

「……もう大丈夫だ」

 青威はそう弱々しく言うと、その場に座り込む。その顔には噴出すように汗が流れ、激しく息切れをし苦しそうな表情を浮かべていた。

「朱音ちゃん、大丈夫?」

 その青威の言葉に朱音は弱々しく頷いていた。

「月島さん……ちょと目のやり場に困るんですけど」

 青威はそう言いながらも、しっかりと未来の露になったブラジャーを見ていた。

「下着だと思うから、いけないのよ。水着と同じでしょう! モデルなんかやってれば、下着姿でカメラの前に立つ事だってあるわ。慣れっこよ」 

 未来は笑顔でそう言って、道路の上にいる紫龍の方に目をやった。


 妖艶な女性の姿をした炎が、紫龍に向けて手を伸ばす。

 紫龍はその手を血の流れている方の手で受け止める。その途端、炎が触れた手から湯気が立ち激痛が襲う。

 紫龍の表情が痛みに歪んだ。

「憎き凪家の者を葬るが我の望み」

 そう言うと、炎は紫龍の体を包み込んでしまった。

 あの時と同じ。一瞬にして車が炎を包まれた……そして車は爆発炎上、父親と俺とで朱音を守るのが精一杯だった。 

 だが一つだけ、あの時とは違う事がある。

 それは俺自身が成長して、自分の中の力を効率よく使えるようになった事だ。

 紫龍はそう心で呟くと、自分を包み込んでいる炎を中でニヤリを笑みを浮かべた、その途端、体全体から光が現れ、右手を伝って黒龍が姿を現す。

 光りは炎を突き破ると、眩いばかりの光を放ち、炎ごと紫龍を包み込んだ。

 紫龍には聞えていた。黒龍が魂を喰らう、卑しい耳障りな音が。

 炎を食いつくすと、光りが紫龍の体へと戻っていく。

 紫龍の体は炎に巻かれていたにもかかわらず、上に着ているシャツも燃えている気配もなく、全てが夢であったかのようだった。

 ただ右手だけは血が流れ、傷口には酷い火傷を負っていた。

 紫龍は深呼吸をして空を仰いだ。潮風が漆黒の髪を揺らしていた。


 凪家は、古より霊を払い、人の命を助ける事を生業にしていきた。だが反面、人を呪い殺す事も行ってきた。

 その力は強大で、何人たりとも逆らう事を許さず、政治を裏で指揮したとも言われていた。

 数知れない恨みを買っていても不思議ではないのだ。

 紫龍は傍らに置いた、百合の花の横に座り込むと、一升瓶を開けそのまま口をつけ飲んだ。忌まわしい古よりの歴史を飲み込んでしまうかのように。

 誰かが後ろで糸を引いてる……いったい、誰だ? 俺に悟られまいと何か術的なものでガードしているのは確かだ……凪家の力に対抗できる者、この日本でも数が限られている。

 紫龍は酒を口にしながら、真っ直ぐ空を見つめそう考えていた。

「何を一人で、たそがれてるの?」

 後ろから声をかけて来たのは未来だった。

 紫龍は後ろを振り向き、その黒い瞳を見開いて驚いた。

 未来の上半身が下着姿だったからだ。紫龍は咄嗟に目を逸らし、目を伏せ舌打ちをする。

「何だ、その格好は……」

「ああ、これ? 朱音ちゃんが怪我しちゃったから、私の服を包帯代わりにしたのよ」

「朱音が怪我を?」

「大丈夫よ血は止まったし、今浜辺で青威君が見てくれてるわ……しっかし、驚いた。まさかこんな事に巻き込まれるとはね。ああ、そうだ、私の車スクラップ状態だから弁償してよね」

「朱音を連れて来たのは、お前か? 余計な事をしてくれる」

「紫龍って、朱音ちゃんの事、大事にしてるのね……だけどそうやって、危険からただ遠ざけるだけじゃ、何も解決しないと思うけど」

 未来はそう言いながら、紫龍の前に回りこむと、顔を覗き込んだ、紫龍の視界には未来の胸の谷間が見えていた。

 だが、それに反応するほど心に余裕が無いのか、紫龍は冷たい視線で未来を睨んだ。

「何もわからないくせに、口出しするんじゃねえ」

「何も知らないから言えるのよ。真実を知って、自分の置かれている状況や立場をちゃんと把握して、それに打ち勝たないと成長しないわ。朱音ちゃん、いつまで経っても貴方から卒業できないわよ……それでいいの?」

 紫龍は未来の言葉に、無言で俯いた。

 わかってるさ、そんな事。

 だけど、俺の大事なたった一人の家族を、もうこれ以上傷つけたくない……失いたくない。

 紫龍は心の中でそう呟き、悲しい影を宿した瞳を揺らしていた。

 もう……あんな思いはしたくない。

 紫龍は、まるで過去の何かを洗い流すかのように、酒を自分の頭からぶっ掛けた。

「何をそんなに怖がってるの……自分が死んでしまうから?」

 未来は何の躊躇もなく、そうはっきりと紫龍に聞く。

 紫龍は未来のその言葉に、驚愕の表情を浮かべていた。

「なぜ、知ってる」

 紫龍の顔を見て、未来はクスリと笑い口を開いた。

「私を誰だと思ってるの? 月島組跡取りの月島未来よ。今まで嫌って言うほど、馬鹿みたいに死を覚悟した人間を見てきた……貴方にも同じ匂いを感じた」

 未来の言葉に紫龍は、鼻で笑い目を伏せた。

 紫龍の顎に未来の手が伸びてきて顔を持ち上げる。紫龍の眼の前で、未来の瞳が優しい輝きを放ち揺れていた。

「ああ、お酒がもったいないわね」

 未来はそう言って、紫龍の頬を優しく舐めた。

 温かく柔らかい感触が頬に走り、紫龍の心臓は一瞬大きく高鳴る。途端に不機嫌な表情を浮かべて、顎にあった未来の手を右手で払った。

「つっ……」

 右手に痛みが走り、紫龍は手を押さえる。

「大丈夫? 本当に紫龍、貴方って人は……可愛いわね。そういう所がたまらないわ」

 未来はそう言いながら愉快そうに微笑んでいた。

 紫龍は眼の前にいる、自分をまるでオモチャ何かのように扱う女に対して、腹立たしさを感じていた。

「私が貴方の死に水を取ってあげる。私は重宝するわよ。泣かないし、傷つかない……どう?お勧め品だと思うんだけど。残りの時間を私にくれないかしら」

 未来の言葉が、紫龍の心に突き刺さり揺さぶる。

 紫龍は未来の瞳を真っ直ぐに見つめた。揺るぎの無い、真っ直ぐに心の中に入り込んでくるような視線。

 まったく、この女は……俺の心の真を付いてくる。ムカツクぜ……

 紫龍はそう思いながらも、心の中に広がる穏かな風をほんの少し感じていた。 

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