〜チキン野郎〜
明け方の薄明るい光りの中に、雨がほんの少し名残を残していた。
体に感じないほどの雨が降っており、空気が重く纏わりつくようだった。
紫龍は、車をガレージに入れると、母屋の玄関に置いてあった鍵を手に、離れへと向う。
芝生は水を含み、紫龍の靴を濡らしていた。ふと足を止める。
紫龍は視線を感じ、ゆっくりと母屋の方を見た。そこには不機嫌な顔をして、ワタゲを抱いた青威が立っていた。
「もう、大丈夫なのか?」
青威の言葉に、紫龍は何もいわず青威に近づいていく、いつもにも増して不機嫌な表情を浮かべていた。
ワタゲが青威の腕からすり抜け、紫龍に抱かれるのを待つように、廊下に座って、薄っすらと雨に濡れている紫龍を見上げている。
紫龍はワタゲに手を伸ばし、抱き上げようとした、その時、紫龍の手首を青威が掴み上げた。
「大丈夫なのかと聞いている」
青威は静かな口調ではあったが、言葉に力を込め、紫龍を見つめる瞳は、真意を探ろうとする鋭さを放っていた。
「大丈夫だと言って、お前は信用できるのか」
紫龍は、青威の瞳を見つめる。その瞳は悲しい影を宿し揺れていた。
「信用できるわけがないだろう……話がある、俺の部屋に上がれよ」
青威の言葉に、紫龍は微かに鼻で笑うと、靴を脱ぎ廊下に上がり、床下に靴を入れ、青威の部屋へと入っていく。
紫龍の視界に、仏壇が見えていた。それを見つめる紫龍の瞳は、悲しげでその奥には怒りに似た光を放ち、微かに唇をかみ締めている。
「単刀直入と聞くぞ、お前は死ぬのか?」
青威のいきなりの問いに、紫龍は驚いていた。ここまで直球で聞いてきたのは青威が初めてだった。
いささか直球すぎる気もするが。青威の不器用さが気を使うという事を省かせてしまったのだろう。
青威は、紫龍を真っ直ぐに見つめ、答えを待ち構えている。怯えを少し含んではいたが、凛と輝く揺ぎ無い強い意志を感じさせる瞳だった。
何かを考え、青威はその言葉を口にしたであろう事は、紫龍にも予想が付いた。
青威のその真正面から叩き付けてくる様な、正直な言葉に、紫龍は晴れ渡った空のような気持ちよさを感じる。
殆どの場合、腫れ物に触るように、本人に聞く事なく、遠まわしに探ってくる事が多いはずだ。だが青威は違っていた。
本人を目の前にして「死ぬのか?」とは、一歩間違えば、相手を追い詰める事になる。
その裏側には、紫龍に対しての怒りも含まれているのかもしれない。朱音に対する冷たい態度をとる紫龍への怒りだ。
「再生不良性貧血、医者から聞いただろう」
紫龍はいつものように淡々と言葉を口にする。
「俺は病名を聞いてるんじゃない、お前は自分が死ぬと思っているのか? と聞いている」
青威は、自分よりも十センチ以上高い紫龍の瞳を、下から射抜くように見つめる。
死ぬと思っているじゃなくて、俺は確実に死ぬんだよ。紫龍は言葉にせず、心の中でそう呟き、青威に背中を向けた。
「どうせあんな病名、嘘なんだろう? 無知な俺でも調べる努力ぐらいはする。再生不良性貧血、白血病に移行する事もあるが、殆どの場合、うまく付き合えば生きていける。それなのに、お前の態度は俺達を突き放すものだった」
青威の言葉に、紫龍は背中を向けたまま動かなかった。
「お前の態度や言葉を聞いてると、死を覚悟してるとしか思えない。お前は何を隠してる。あの黒い龍が関係してるのか?」
その言葉に紫龍の背中が微かに反応する。
「やっぱり、関係があるんだな、教えろよ! お前の態度には俺だって被害を被ってるんだ、知る権利ぐらいあるだろう」
青威は紫龍の背中に向って言葉を発する。紫龍は背中を向けたまま静かに言葉を呟いた。
「知った所で、お前には何も出来ねえ。その偽善ぶってる正義感面のお前には無理だよ」
紫龍の言葉に、青威はムッとして、紫龍の肩を掴み自分の方に向かせると睨み付けた。
「偽善ぶってるとは何だよ。言って見なけりゃわからないだろう!?」
青威の激しい口調を、あざ笑うかのように、紫龍は口元を歪ませニヤリと笑みを浮かべる。
「お前、いい加減にしろよ!」
青威は紫龍の襟元に掴みかかると、激しく体を揺すり、自分の眼の前に紫龍の顔を引っ張り込んだ。
紫龍はフッと悲しい笑みを浮かべる。
「俺を殺せるのか?」
空気の流れが一瞬、止まった様な気がした。紫龍の言葉が青威の頭の中でこだましている。
今の今まで感じていた怒りが、何処かへ吹っ飛んでしまったような気さえした。
「今、何て言った?」
「俺を殺せるかと聞いたんだ」
改めて紫龍の言葉を聞き、青威は徐々に怒りがこみ上げてくるのを感じる。顔は赤くなり唇が微かに震えていた。
「てんめえ、いいかげんにしろよ!」
青威はそう言って、紫龍に殴りかかったが、頬に拳があたる寸前で手が止まる。拳が震えていた。昨日の鮮血にまみれた紫龍の姿が脳裏を過ぎったのだった。
青威は震える拳を下ろすと、怒りのはけ口を探すように、掴んでいた紫龍のシャツを体を押すように突き放した。シャツのボタンが弾け飛び、紫龍は床に後ろから転ぶ。
青威は紫龍のそんな姿を怒りを露にした表情で睨んだ。
ボタンが弾け飛び、肌蹴たシャツの合間から、黒い何かが見えた。青威は何かを感じたのか、咄嗟に紫龍のシャツに掴みかかると、引き剥がし、今までシャツの陰に隠れ、見えなかった物を目の当たりにして、動けなくなる。
紺碧の瞳に映ったそれは、黒い龍だった。
紫龍の背中、腹、右腕にかけ、それは見事な刺青のように、真っ黒な龍が姿を現したのだった。
紫龍がいつも、濃い色の長袖シャツを着ている理由を悟った。
「何だよこれ……刺青じゃないよな? だけど痣にしては鮮明すぎる」
青威の驚愕の表情を見て、紫龍は溜息をつき、冷ややかに笑う。
「……俺の中には竜神が宿ってる」
紫龍は、悲しげな雰囲気を漂わせながら、静かに言葉を口にする。
「竜神は、俺の命を食い尽くし……」
「いい! もう言うな。わかった……だけどなぜだ……なぜお前に竜神が」
青威は全てを把握したわけではない、ただ感覚的に、この深く刻まれた黒い龍が、紫龍の命を蝕んでいる事だけは、はっきりとわかった。
「竜神は凪家の守り神になる代わりに、血族の中で、自分好みの人間を選びそれを糧として要求する」
「それがお前なのか」
青威は弱々しい、かすれた声でそう言って、紫龍を見る。
紫龍は、苦笑しながら口を開く。
「俺を……殺せるか?」
「だから何なんだよ、それは? どういう意味だ」
紫龍は一呼吸置き、躊躇しながらも静かに話しだした。
「今は俺の力で、竜神を抑えている、だがこれから先、俺の力が弱まり体を乗っ取られるような事があれば、何をしでかすかわからねえ……そんなもしもの時のために、凪家には昔からの家宝として刀が存在する。強い破壊呪が込められた刀だ。それが……朱音の右目に封印されている」
紫龍の言葉に、青威は衝撃を受ける。
朱音の右目にはそんな秘密が隠されていた。金色に見えると言う事は、何か意味があるとは思っていたが、そんな物が封印されてるとは思っても見なかった。
「なぜ、俺に……お前を殺せるかなんて質問をする」
青威はそう言って、ハッと何かに気付く。
紫龍はその表情を見て、静かに口を開いた。
「その通り、宝刀、龍緋丸を扱えるのはお前だけ、だから俺にはお前が必要なんだよ」
「待てよ……じゃあ、俺はそのために……お前を殺すために凪家に呼ばれたのか?」
「だから言ったじゃねえか、凪家は自分の糧となる物は、全てを呑みこむ化け物だってな」
「……なんだ、それ!?」
青威はそう言いながら、あきれたように笑いを吐き捨て、思い切り床に拳を叩きつける。
「お前には無理だろ? そんな顔してんじゃねえよ。俺の言い損だろうが、だから、知らない方が幸せな事もあるんだよ」
そう、お前には無理なんだよ。心が真っ白なお前にはな……
紫龍は心の中でそう呟くと、シャツを元に戻してゆっくり立ち上がった。
「待てよ!」
青威の言葉に、紫龍は溜息と付く。
「まだなにかあるのか? 答えのでない事を言うんじゃねえぞ」
「答え? 先の事になんか、答えは決まってねえ! 俺がお前を殺すとか、龍がお前を食い尽くすとか、なぜ生きる事を考えない。俺は認めえねぞ! お前は龍になんか乗っ取られねえ、だから俺がお前を殺すことも、宝刀だか何だか知らねえが、封印が解ける事もない。お前は絶対に死なない」
青威は紫龍の黒い瞳を真っ直ぐに見つめ、力強く言葉を発する。
紫龍は、青威の言葉に、昨日の未来の言葉を重ね、表情が少し和らぎ、微かに笑みを浮かべた。
「昨日の現実を目にして、よくもそんな楽天的な事が言えるな、気休めでしかない言葉はいらねえよ」
「気休めでも、思い込みでも、何でもいい! あの時、あの死神のカードを皇帝に変えたみたいに、お前だってそれを望んでるんだろう、諦めた振りして、わざわざ嫌われるような事をして、自分や相手が傷つく事を怖れて、人を遠ざける。お前はただのチキン野郎だ!」
青威は、そう言って、紺碧の瞳を揺らしていた。
紫龍はその瞳に鬱陶しさを感じながらも、ついつい希望を感じてしまっている自分の存在に苦笑していた。希望を持ちたい自分、だがそれが許されない現実。その狭間で紫龍の気持ちは揺れる。
「だから、俺はお前が嫌いなんだ、人の心の中を土足で踏み荒らす。正義者ぶりやがって、偉そうな事言ってんじゃねえよ。お前だっていつも母親の死の影に怯えて、人を愛す事を怖がってる……てめえこそ、チキン野郎だろう」
紫龍は溜息混じりに、ほんの少し優しい響きを感じさせる口調で言った。
青威は目を伏せ、笑いを吐き捨てると、ゆっくりと顔を上げ紫龍を見つめる。
「……だな」
そう絞り出すように言った、短い言葉は重みを感じさせ、自分の中の臆病な弱さを認めているようだった。
紫龍も青威も、お互い自分達の滑稽さに、微かに苦笑いを浮かべていた。
「ニャー……」
ワタゲが紫龍の足元に擦り寄りながら、可愛らしい声をあげ鳴いた。
険悪な雰囲気が和らいだ事に、ワタゲも気付いたのだろう。
青威はその声に、しゃがみ込んでワタゲを優しく撫でる。するとワタゲはゴロゴロと喉を鳴らし、床にゴロンと寝そべった。
「ワタゲはお前の事が気に入ったらしいな……ったく、お前はどこまでも、俺のテリトリーに入ってきやがる。俺に情を持つな、後で後悔するぞ」
「情!? そんなにもしもの時の保障がほしいのか……じゃあ、保障をやるよ! お前の中の龍がでしゃばってきやがったら、俺はお前を殺さずに、その龍だけをぶっ殺す!」
青威が真顔でそんな言葉を言ってきた事に、紫龍は一瞬、目を見開いて驚いたが、次の瞬間吹き出すように笑い始めた。それは青威が凪家に来て初めて見る、紫龍の笑顔だった。
「お前は馬鹿だよ。絶対に無理な事を真顔で言いやがって」
「ああ、俺は馬鹿だよ……だけど、これから先の未来に、諦めるという言葉は無い!」
青威は紺碧の瞳を輝かせそう言う。言葉自体に力を感じた。
紫龍は微かに微笑むと、ワタゲを抱き上げ、遠くの方に見える、雲の切れ間から差す日差しを見つめていた。
諦めるは……無い……か。
紫龍は心の中でそっと呟いた。
第三章「紫龍の心」が、完結しました。
ここまで読んでくださった方に、感謝いたします。
愛する人を失くする怖さ。その怖さに臆病になる。
人を愛する事にも、勇気が必要になる。