青威が行く! 〜初登校〜
「やっべ〜! 寝過ごした!!」
とあるホテルの一室、一人の学生らしき少年が慌てふためき、自分の学生服を手に取りながら洗面所へと向う。
栗毛の髪の毛はボサボサ、よだれの痕は残っているし、うつ伏せに寝ていたのか頬にシーツのしわの痕がくっきりと残っていた。
最悪だ。少年は心でそう呟き舌打ちをする。
溜息をつき、適当に髪の毛を水で濡らし、はねている場所をなんとか寝かせ、洗面所から出ると、ベッドの上では女性が布団に包まり、優しい笑みを浮かべ手招きをしていた。
立て巻きロールの黒髪に、二重の瞳が年齢のわりに可愛らしい雰囲気を漂わせている女性。
二十五歳、水商売の女性だった。
「昨日は私服だったからわからなかったけど、学生さんだったのね?」
女性はそう言いながら、少年の頬を優しく撫でる。
「お姉さまとの時間をゆっくり過ごしたいのですが、このままだと遅刻するので」
少年は自分の頬に当てられた白い手を握り、女性に懇願した。
そんな仕草を、女性は可愛らしいと感じたのか、クスクスと軽く笑い声を立て、その場に柔和な雰囲気が流れる。
「遅刻しそうなの?」
女性の問いに少年は大きく何度も頷いた。
「昨日付き合ってくれたお詫びに、学校まで送ってあげるわ」
女性はそう言うと、少年の頬に軽く口づけをして微笑み服を着始めた。
少年も制服のズボンに、白の半袖ワイシャツに着替えると、大きなボストンバッグを担ぐ。
二人はホテルの部屋を後にして、エレベータに乗った。
昨日の事である、女性がチンピラに絡まれている所を少年が助けたのだ。
いかにもお水の女性だとわかる風貌で泥酔状態。
ホテルに泊まってると言うので、ホテルの部屋まで送った。
下心が無かったと言えば嘘になるだろうが、部屋に入った途端、そんな下心は何処かへと吹っ飛んでしまう。
助けたつもりが逆に女性に絡まれ、さんざん別れた男の話を聞かされたあげく、勝手に裸になって、一人でいびきをかいて寝てしまったのだから。
この少年、寝込みを襲うほど女に困ってはいない、それに女の裸も見慣れていた。だが、帰る事は出来なかったのだ。
女性が少年の手を握り、寝言ではあったが、「帰らないで」と涙を流した。そんな姿を目の前にして、ホテルの部屋に一人放って帰れるほど、薄情にはなれない少年だった。
下心のパーセンテージも高いが、情にも厚いこの少年は、泣く泣く部屋に泊まる事になったのである。
少年にとって、このような経験は一度や二度ではない。
まあ、この屈託の無い純粋そうな表情が、女性を安心させるのか、それなりのおいしい思いをしてきた事も事実である。
優柔不断で女好き、くっきり二重で睫毛が長く、可愛らしい童顔ときているものだから、年上の女性にモテルのだった。
この少年の名は東雲青威、高校三年生。
今日から新しい学校に登校する予定だったが、そんなこんなで、只今遅刻しそうな状況にある。
二人はエレベーターから出るとホテルのロビーを足早に進む。
急いでいるせいもあって、ホテルの大きな自動ドアしか目に入っていなかった青威は、いきなり何かにぶつかって敷き詰められた絨毯の上に転んだ。
「いっつう」
青威は自分がぶつかった物を見る、そこに立っていたのは身長が百九十センチ近くはあろうかと思うほどの線の細い男。
どう見ても青威より年上に見えるが、同じ学校の制服のズボンを履いている。
ただ違っていたのは、学園指定のワイシャツではなく、ズボンと同じ濃紺の長袖ワイシャツを着ていた事だった。
こんな暑い日に長袖?
青威はその事に少し違和感を感じながら立ち上がる。
「大丈夫?」
素顔でもかなりの美貌の持ち主である女性にそう言われ、青威は頭を掻きながら照れ笑いをする。
そんな青威の姿が可笑しかったのか、ぶつかった線の細い男が鼻で笑い、冷ややかな黒い瞳で青威を見ていた。
黒い瞳に嫌な感覚を感じ、青威は眉間にしわを寄せる。
一瞬青威の目つきが変わるが、そんな青威の意思を無視して、女性に腕を掴まれ、なかば強引に引きずられように自動ドアに引っ張られていった。
「青威君、ほら早くしないと学校に遅れるわよ」
女性の言葉に、青威はハッと我に返り、今此処で揉め事を起こしている暇は無いと、現実に引き戻され、女性に腕を引かれながらホテルの外に出たのだった。
あの馬鹿にしたような目、どこかで見た気がする。
青威はそんな事を思いながら、自動ドアの向こうに立っている、漆黒の髪の毛を掻き揚げる、モデルのように美しい立ち姿の男を睨みつけていた。
青威は女性と二人でタクシーに乗ると、月詠学園まで急いだ。
「そう言えば、お姉さんの名前教えてもらってない気が……」
青威はお得意の『捨てられた子犬目線』攻撃を女性に向けて放つ。
作為的にコケティッシュな、相手が放っておけなくなるような目線を作るのである。
綺麗な紺碧の瞳の虜にならなかった女性は今までにいない。
狙った獲物はかならず落とす。これは青威の心情でもあった。
「これね私の名刺、お店は高校卒業したらいらっしゃい。でも何か困った事があったら連絡ちょうだい。青威君ならいつでも助けてあ・げ・る」
女性はそう言い、青威にウィンクをした。
名刺には店の名前と、源氏名が書いてあった。
「春奈さ……ん?」
青威はそう言い、紺碧の瞳を見開き春奈の顔を見つめた。
「どうしたの?」
春奈の問いに、青威は目を伏せ横に首を振り、名刺を制服のポケットに捻り入れる。
青威の仕草に、春奈は不思議そうな表情を浮かべていたが、それ以上何も聞いては来なかった。
春も終わりに近付き、今日は夏を思わせる暑さである。
路上には生命力の強さを感じる、黄色のタンポポと白の綿毛が混ざり合い、風に揺れていた。
タクシーは学園の門の前で止まる。
「春奈さん、ありがとうございました」
青威はタクシーを下りて、手を振った。
春奈は優しく微笑み、青威に投げキッスをする。
そんな春奈の姿を見つめて、青威は不純な事を思っていた。
春奈さん、俺は貴女と裸のお付き合いをしたかった……
タクシーが去って行き見えなくなると、青威はいきなり非情な現実へと戻される。
遅刻確定である。
学校の周りには、生徒の姿を一人として確認する事はできない。
青威は溜息をつき、意を決して月詠学園の門をくぐったのであった。