〜違和感〜
青威達の頭上から、何かが落ちてくるような音がして、その場にいた皆が上を見上げる。
桜の木の合間から、筆入れやノートが落ちてきて、岩倉の上に降り注ぎ、頭にノートが当たる。痛そうに顔を歪めると、頭を押さえながら頭上を仰いだ。
その光景に、青威達も驚いていた。
「岩倉、俺が相手してやるよ」
抑揚の無い淡々とした声が頭上から聞えたかと思うと、黒い影が青威達の前に飛び降りてきた。黒い長袖シャツを着た後姿。
紫龍であった。
突然現れた紫龍の姿に、朱音以外の誰もが驚いていた。
それもそのはず、三年A組は四階にあり、常人の身体能力では無事に飛び降りる事は無理に等しい。紫龍はその高さを、いとも簡単に飛び降りてきたのだった。
もちろん岩倉もその姿に圧倒され、何歩か後ろに後ずさり、瞳には怯えの影が見えた。だが、まるで何かに操られているかのように、顔つきがいきなり変わる。
「凪紫龍、ぶっ殺す!」
岩倉はそう言い放つと、血走った瞳を見開き、ナイフを紫龍に向けて走り込む、紫龍はそのナイフの刃を素手で掴むと、体を回転させながら、鳩尾に肘を入れた。
岩倉は、呻き声を上げ、その場に膝をつき倒れ込み動かなくなり、紫龍の手からは血が流れ落ちていた。
岩倉が、紫龍に対して「ぶっ殺す」と言った瞬間、青威は体に冷たい何かが走ったような気がしていた。それはとても嫌な感じで、殺気にも似たような、感覚であった。
紫龍は眼の前の岩倉から、静かに涼香に視線を移す。涼香はただただ目の前の光景に怯えているように見えた。
「兄貴、手は大丈夫?」
「ああ、ったく、お前たちのおかげでいい迷惑だぜ」
紫龍は、そう言葉を言い捨てると、不機嫌な表情を浮かべて、朱音に背中を向けて歩いていく。その姿を考祥と学級長は唖然とした表情で見つめていた。
紫龍が現れて、気づいた時には岩倉が倒れていた。一瞬の出来事で動きが見えないほど速く、考祥と学級長は、紫龍の謎の深さにただただ驚いているだけだった。
「青威君、大丈夫?」
桃子が青威の腕を見ながら、そう心配そうに言い、そんな桃子に青威は弱々しく微笑み、腕を押さえていた。
「早く保健室に行かないと」
朱音がそう言って、青威を覗き込んだ顔には、眼帯がなかった。露になった右目は金色に輝いて見える。幼い頃、魅了された瞳が、眼の前にいきなり現れたのだった。
青威は朱音の眼帯の理由が、物貰いではない事を悟り、そこに何か深い理由を感じていた。
朱音の言葉に、他の皆も頷くが、岩倉をこのままにしておくわけにもいかない。
「私が後はやっておくから、早く保健室に行って」
そう申し出たのは涼香だった。
「僕も残りますよ。ここは大丈夫ですから、皆さんで青威君を保健室へ」
学級長がそう言って、その場に涼香と残ったのだった。
朱音は、右目から眼帯が外れている事に気付き、慌てて眼帯を付けなおす。青威はその姿に不自然さを感じ、朱音といい、紫龍といい、凪家自体に自分の知らない何かが、隠されているという事を漠然と感じていた。
朱音達は、青威を連れ保健室へと向う。その後ろ姿を見送ると、涼香が眼の前に倒れている岩倉を見つめて口を開いた。
「学級長、先生を呼んできてくれる」
涼香にそう言われ、学級長は急いで職員室へと走っていった。
皆がいなくなった後、涼香は深い深い溜息とつきながら、青威達が向った方向を見る。何か今までの涼香と違う雰囲気を漂わせ、不穏な空気を纏っているように見える。
「さすがに勘が鋭いな。もう少しでばれる所だった。まあいい取りあえずは、凪紫龍に一矢報いる事ができた」
涼香は、口元歪めほくそ笑みながら、そう呟いたのだった。
紫龍は保健室のドアを開いた。
外は汗をかくような暑さだと言うのに、保健室は一階にあるせいなのか、涼しい空気が漂っている。
「いらっしゃい、紫龍」
真っ赤な口紅を引いた、妖艶な唇を開き、静かで優しいトーンの声が響いてきた。
紫龍は無言で保健室に入ると、窓際に体重を預けるように露原を見る。
「どうしたの? 怪我なんて……貴方、自分の体の状況わかってるの? こんな小さな傷でも命取りになる事だってあるのよ」
露原はそう言うと、紫龍の傷を見ながら消毒をする。
「今回は、血は止まりそうだけど、気をつけないと……まったく、こんな怪我までして守りたい人でもいたのかしら?」
「うっせえな」
「朱音ちゃん? それとも……」
露原はそう意味ありげに微笑むと、紫龍の顔を覗き込み、包帯を巻く。
「露原、お前、あまり顔をつっこむな」
紫龍の刺々しい言葉にも、露原は動じず艶っぽい笑みを浮かべ、紫龍の顔をただ見つめていた。
「そうね……今度は、少し体の調子を見せてもらうわよ」
露原そう言うと、紫龍の額に手を当て少し眉間にしわを寄せる、そして目の下をめくって色を見て溜息をついた。
「ちゃんと、病院に行ってるの? 貧血も相変わらずだし、少し熱もあるみたいだけど」
露原の言葉に、紫龍は鼻で笑いながら目を伏せる。
漆黒の髪の毛を揺らし、冷たさに満ちた表情の影に、悲哀に覆われた心を露原は感じていた。
「青威、大丈夫?」
朱音は怪我をした青威に付き添い、保健室に向っていた。
「でもさ、さっきは驚いたよね?」
「ホントだよな……いきなりだもんな。紫龍が来てくれて助かったぜ」
桃子の言葉に考祥は腕を組みながらそう言った。
青威は、後の代償が怖そうだ、と一人心の中で呟いていた。
「岩倉君が悪いわけではないと思う」
朱音は、真っ直ぐ前を見ると、その向こう側にある何かを見るように、凛と言葉を発した。
「朱音ちゃん、それって、どういう事?」
朱音の言葉に何かの理由を感じて、青威は聞き返すが、朱音は口を噤んで苦笑いし、何も言わずに保健室のドアを開いた。
開いた途端、眼の前に現れた光景に、皆は驚く。
露原が、紫龍の肩に手を置き、口づけをしていたのだ。いや、そう見えたのだった。
露原の綺麗な黒髪の影に隠れて紫龍の顔が見えず、実際の所定かではない。
咄嗟に青威は横にある朱音の顔を見る。だが予想に反して朱音は、表情を変えず保健室に入っていった。
どういう事だ? 朱音ちゃんは紫龍の事を……青威の勘違いだったのだろうか。
「露原先生、こっちも診てもらえます?」
朱音の声に露原は青威達の方を向き、優しい笑みを浮かべると近付いてきた。
実際に口づけをしていたのかしていないのか、それはわからない、だが考祥も桃子も、妄想が勝手に大きく膨らみ、露原の顔をまともに見る事ができなかった。
紫龍はいつものように、青威達を冷ややかな瞳で一瞥すると、無表情な顔で窓の外を見ていた。紫龍の表情から真相を暴くのは無理である。
「ここの所、保健室が随分と繁盛するわね」
露原はそう言いながら、青威の腕を掴むと傷の状態を見る。
「この怪我、何があったの?」
露原の問いに、皆は顔を見合わせて口を噤む。
そんな中で最初に口を開いたのは、考祥だった。
「岩倉哲夫が、いきなり我があこがれの朱音さんに、ナイフで切りかかってきたんだよ。アイツは退学決定だな」
考祥は腕を組みながら、一人頷きそう言った。
「そうだったの……でも怪我も大した事がないし、無事でよかったわね」
露原はそう言って青威に優しく微笑んだ。さすがはこの学園一の美人教師、その場にいた考祥も青威もその微笑に魅了された。
これこそ大人の魅力というものだろうか。
「先生、今度俺とデートしません?」
青威はそう言いながらにっこりと笑顔を浮かべる。そんな青威を見て朱音は溜息をついていた。
「悪いわね。私はどちらかと言うと、凪君の方が好みなのよ、ごめんなさいね」
青威の言葉は瞬時に撃沈された。しかも眼の前に立っている、冷酷無比の男に負けたのだ。
紫龍はその露原の言葉に鼻で笑い歩いて来ると、青威達の横を通り過ぎる瞬間、微かな言葉を口にする。
「よく言うぜ、婚約者がいるくせに」
そう言って、保健室から出て行ったのだった。
ドアが閉じられた後には、完全に敗北した青威と考祥の姿があった。
しかし、さっき感じた感覚は何だったんだろう。
とても嫌な感じ、人間のものとは思えないような、心の底から震えがくるような感じ。
紫龍は何かをきっと隠してる。四階から飛び降りたり、あの岩倉を倒したの動きの速さと言い、それに自殺騒動の時の事……とても普通の人間にできる事じゃない。
青威はそう考えて、ふと思いつく。
霊能力、超能力……自分自身が小さい頃感じたように、同じような力が紫龍にあるとしたら……いや同じじゃない、自分とは桁が違う。青威はそう感じ、紫龍を含めた凪家自体の裏側を知りたいと、そう強く思い始めていた。