プロローグ
愛するって 何ですか
愛されるって どういう事ですか
大切なものが この手から零れていく
悲しくて 苦しくて 辛い
もう二度と 傷つきたくない
だから……だから……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
月の姿が見えぬ新月の夜。
風がひんやりとした空気を運び、外に剥き出しになっている廊下を吹きぬけていく。
何百年もの歴史を刻んできた家屋は、闇の中に凛とした威厳を感じさせ、そこに存在していた。
外に剥き出しになっている廊下に一つの影が浮かび上がっている。
「つまらないな〜」
可愛らしい響きを持った幼い声が、溜息と共に聞こえてきた。
廊下の隅に腰をかけ、足を揺らしながら、眼の前にある池を眺める瞳は、澄んだ空を想像させるような紺碧色で美しい輝きを持っている。
外灯の光にぼんやりと映し出された顔は、まだ五歳くらいの男の子。
栗毛の髪の毛を揺らし、口を尖らせ、退屈だと言わんばかりの表情を浮かべていた。
「兄様、兄様! 待って! お父様に怒られますよ。兄様ってば!」
可愛らしい中にも、凛とした意志の強さを感じる、女の子の声が聞こえてくる。
廊下に座っていた男の子は、その声が気になったのか、声のする方に視線を向け、思わず立ち上がった。
眼の前の何かを見て、驚いた表情を浮かべている。
目の錯覚かもしれないが、月明かりも無い夜だと言うのに、その女の子の右の瞳だけが、金色に輝いて見えたのだ。
綺麗な金色……。
男の子は、金色の瞳に魅了されるように、目を離す事ができなかった。
向かい側を歩いて来る女の子は、腰まである艶やかな髪の毛を揺らしながら、前を行く影を追いかけているようだ。
ブスッとした仏頂面の男の子が、女の子の静止も聞かずに足早に歩いているのが見える。
足を踏み鳴らす音から怒りが漂い、周りの空気をも揺らしているようだった。
兄妹らしき二つの影が、廊下の角まで来ると、兄様と呼ばれた男の子と、栗毛の男の子の目が合い、二人はお互いの瞳を見つめ、まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように、身動き一つしなかった。
闇の中から生まれたみたいだ。
栗毛の男の子は、自分を冷ややかな瞳で、見つめる男の子を見てそう思った。
それもそのはず、透き通るような白い肌に、風に揺れる漆黒の髪、冷たい光りを放つ黒い瞳、着ている服までもが黒一色、そして男の子の腕の中には、小さな黒猫が抱かれていた。
子猫の安心しきった顔が、妙に印象的であった。
「貴方、誰?」
艶やかな黒髪の合間から覗かせる、二重の大きな瞳を輝かせ、女の子は、栗毛の男の子に尋ねる。
瞳は金色に光ってはいない。
栗毛の男の子は、明るい笑顔を浮かべ口を開いた。
「俺は……えっと……」
「この家から逃げた女の息子だろ?」
栗毛の男の子が言おうとしたの遮るように、漆黒の髪の男の子が、突き刺すような鋭い口調で言葉を放つ。
紺碧の瞳を黒い瞳は射抜くように見つめ、一瞬にして空気が緊張に包まれた。
栗毛の男の子は、紺碧の瞳を見開き、驚愕の表情を浮かべている。
知らなかったのだ、自分の母親が、この実家を捨て逃げた事を。
そんな事、ある訳が無い!
証拠の無い言葉に少年は怒りを感じていた。
「兄様、駄目よ、そんな言い方!」
女の子は、黒髪を揺らしながらそう言い、廊下から芝生が敷き詰められた草の上に降り立つと、真っ直ぐに栗毛の男の子に向って走っていく。
女の子は、黒髪越しに瞳を揺らすと、紺碧の瞳を見上げ優しく微笑んだ。
「ごめんなさい。兄様を許してあげて」
眼の前の女の子が、頭を深々と下げているにも関わらず、兄と呼ばれた男の子の瞳は冷たく輝き、頭を下げる事もなく、栗毛の男の子から目を背けた。
栗毛の男の子は怒りを感じ、小さな足を踏み鳴らして、コの字を描くように廊下をなぞって走ると、冷たい黒い瞳へと向って行く。
「妹が謝ってるのに、お前はなんなんだよ!」
栗毛の男の子はそう言って、漆黒の髪の男の子の襟元を掴み上げた。
先程まで抱かれていた黒猫は、二人の姿を首をかしげ見つめている。
「アオ! 何してるの!」
女性の激しい声が響き、栗毛の男の子はその声に一瞬体を硬直させると、咄嗟に襟元から手を離し目を伏せた。
廊下を軋む音をさせながら、黒い和装の女性が走ってくる。
「申し訳ありません。あのような振る舞いお許し下さい」
理由も何も聞かず、そうするのが当たり前であるかのように、女性は、漆黒の髪の男の子に頭を下げた。
「か、かあちゃん!」
納得いかないのは栗毛の男の子。
確かに襟元を掴みあげたのはいけない事だが、その発端を作ったのは、眼の前の冷ややかな表情を浮かべる男の子である。
「いいから、お前も謝りなさい」
母親にそう言われたが、栗毛の男の子は、どうしてもそれを受け入れる事ができず、紺碧の瞳を揺らし、漆黒の髪の男の子から顔を背け、ささやかな反抗を見せた。
漆黒の髪の男の子は、目を伏せ鼻で笑い、栗毛の男の子の横を通り過ぎていく。
通り過ぎる瞬間、栗毛の男の子にしか聞えないような微かな声で
「……そのままのお前でいろ」
そう言ったような気がした。
栗毛の男の子は空耳のような言葉を聞き、漆黒の髪の男の子の後を追うように振り向く。
そこには淋しそうな後姿があるだけだった。
漆黒の髪が微かに風に揺れ、振り返る事無く、廊下を軋ませ歩いていく。
その後を小さな黒猫が、鈴を鳴らしながら、可愛い足取りでついていった。
黒髪の少女は、栗毛の男の子と母親に一礼すると、兄と猫の後を追いかけて行き、姿を消してしまった。
母親はその後姿を見送ると、乱れた髪の毛に手を当てながら、目を伏せ静かな口調で言葉を紡ぐ。
「まだ九歳だというのに……かわいそうに」
母親の言葉を理解するには、栗毛の男の子は幼すぎた。
ただ、あの冷ややかな男の子が、自分よりも年上だった事を知り、余計に腹立たしい気がしていた。
年上だと思えないほど、華奢で小さい体をしていたあの男の子。
漆黒の髪の男の子が最後に残した言葉。
優しい笑顔を持つ少女の、金色に見えた瞳。
その全てが、栗毛の男の子の中に、怒りと共に深く刻まれたのだった。
母親は我が子を、自分の方に引き寄せると強く抱きしめる。
「アオ、お前は誰に左右される事なく、自分の信じた道を歩きなさい」
母親はそう言い、我が子の顔を覗き込み、紺碧の瞳を真っ直ぐに見つめた。
母親の心に何があるのか、紺碧の瞳に映る母の姿からは知る由もなかった。
一度しか会った事のない、祖父の通夜での出来事だった。
この時すでに、避けることの出来ない、道を歩み始めていたのかもしれない……