第4話
お父様の演習を眺めたり、お兄様にダンスのお稽古を付き合ってもらったり、お母様にお母様のご親戚を招いた非公式のお茶会を開いてもらって参加してみたり、楽しく過ごして10歳。去年の初め、ビヴァリー様が男児を出産されたという慶事は私の耳にも届いている。あれから1年。ゲーム通りであったならビヴァリーが馬脚をあらわして、エリック様を虐待している頃だ。もしビヴァリーがゲームとは違った人格の持ち主で、虐待などされていないのなら、それに越したことはないけれど、もし虐待されてるのならお救いしたい。その一心で匿名投書をダンカン様に送り付けた。内密に、既存の使用人を使わずに内部調査を行うことを強くお勧めすると手紙をしたためた。
ビヴァリーが原作と違い、まともなご夫人だったら酷い誹謗中傷になってしまうが、内部調査はしてみるべき。調査をしてみてビヴァリー様が黒だったらエリック様をお救い出来るし、ビヴァリー様が白だったら「人騒がせな!」と手紙に憤ればいい。無駄足だったとしてもダンカン様がエリック様のことを愛していらっしゃるならやるだけのことはやってみて欲しい。
***
半年後、ウェルスト家で大量の使用人の入れ替えが行われ、ビヴァリー様が離縁されたことを聞いた。
ビヴァリー様…黒やったんやな。
白ならそれはそれで良かったが、黒だったということは、エリック様をお救いできたということ。良かった。どれほど心に傷を負ったかはまだわからないけれど、それでも原作よりはまだ心の傷は軽いと思う。どうか幸せに生きて欲しい。現実ではまだお姿も拝見したことがないけれど、一人の少年の幸福を遠くから祈っております。
それからしばらくして、ウェルスト家からアンケートが来た「紅茶についてアンケートを取っている。あなたがよく飲む紅茶の銘柄は?どうしてその紅茶を選んだか?その紅茶の味や香りはどうか?どこで購入しているか?そのお茶に満足しているか?今後どのような味の紅茶があれば購入したいと思うか?」などの項目が並んでいた。実名でお願いしたい、と全員一人一枚のアンケート用紙が当てられていたので、全員答えて送った。まさか高位貴族にアンケートを依頼されて無視するというのも角が立ちそうだったし、質問自体はすぐに答えられるものだったので。
***
自室で歴史のお勉強をしていると侍女に呼ばれた。
「お嬢様。お客様がいらっしゃっております。」
「まあ、どなた?」
「エリック・ウェルスト様でいらっしゃいます。」
「……!」
ドキッとした。まさか手紙がバレた?まさかだよね?匿名のお手紙だし。以前来たアンケートの件だろうか。私はちょっと変わった紅茶を好んでいる。フレーバーティーとでもいうのだろうか。ほんのり薄荷のような香気のする紅茶を好んでいる。お店でも取り扱いが少ない品だ。好き嫌いが分かれるので普段お客様にはお出ししていない。
「お嬢様にお会いしたいそうです、応接室にお通しいたしましたので…」
「…わかったわ。」
どんな用件であれ、もう来てしまったのなら仕方がない。
軽く身嗜みを整えて、応接室まで出向いた。
応接室に入ると座ってお茶を飲んでいたエリック様と視線が合った。エリック様は攻略対象なだけあってとても美しい。淡い亜麻色の髪に青い瞳の美しい方だ。
「お待たせしました、エリック様。お初にお目にかかります、リディ・ネックラーイと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
にこりと微笑んだ。
エリック様はすぐに立ち上がった。
「初めまして。エリック・ウェルストと申します。どうぞよろしくお願いします。」
握手を求められて手を差し出すとぎゅっと握られた。うあ…美少年のお手々ぎゅう…不覚にもときめいた。顔に熱が昇って熱い。エリック様は私の顔を見た後そっと手を放した。
「ど、どうぞお掛けになってください。」
「ありがとう。」
席を勧めると、エリック様が座りなおした。私は対面の席に座った。侍女が私の分のお茶とお茶菓子を運んできてくれる。エリック様のお茶とお茶菓子は用意されていて、もう少し賞味された後であるようだ。
侍女が下がったのを見計らって声をかけた。
「本日は私に何かご用件が…?」
「ええ。是非お礼をと思って。」
「お礼?」
「父に、この手紙を送ってくださったでしょう?」
エリック様は懐から、私がダンカン様に宛てた匿名の告発文書を取り出した。
「私には覚えがありませんが…」
しらを切った。どうして匿名文書から私の元までたどり着いてしまったのだろう。内心はわてわて慌てている。
「……この便箋は王都の『オールドファッション』という雑貨屋でのみ取り扱われている便箋。やや高価な品で、富裕層向けの品。僕がこの手紙の存在を知った後すぐに調査しましたが、その時点で売れていた便箋は12セット。購入記録から貴族家、庶民、含めてその12家にアンケートを出して、返答を頂きました。あとは筆跡鑑定士さんに鑑定していただき、該当したのがリディ嬢です。」
うはっ。執念深い。
ビヴァリーが離縁されている以上、ビヴァリーは黒だったということで、エリック様が私に恨みを持つことはないと思うが、何故ウェルスト家の内情を知っているか聞かれたりするのかな?それはちょっと困る。前世の話などしたら一発で頭がおかしいと思われるだろうし。おろおろと狼狽えてしまう。
「匿名で告発した…ということは、リディ嬢は本当は自分が告発者だと突き止めて欲しくなかったのでしょう。でも僕は敢えて、リディ嬢に会いに来ました。僕が受けたご恩はかけがえのないもので、もし、いつかリディ嬢が何かお困りになった際は、今度は僕たちウェルスト家の者がお力になりたいと思ったからです。我が家の内情を知っていた詳しい事情を話せだとか、そういったことはご要求いたしません。いつか、本当に困った時、助けさせてください。」
エリック様は深く頭を下げた。
ああ…私はこの人を救えたんだ…そう思ったら胸がいっぱいになってしまった。私が誰かを救えた。その感謝の形を他ならぬご本人が示してくださっている…
ああ…ああ…満たされる。
「ありがとう…ございます。困ったことなどなければ良いと思いますが、もし何かありましたら、頼りにさせていただきます。」
エリック様は顔を上げて微笑んだ。ほっとするような優しい笑顔だ。
それから一緒にお茶を飲みながら雑談した。エリック様はゲーム以上に素敵な方だった。気さくで、優しくて、お話上手で…何だかお話しているとドキドキしてしまって、意味もなく毛先を弄ったりしてしまう。
「へえ、リディ嬢のご趣味は竪琴なのですか。」
「ええ。習い始めて5年経ちます。あまり上手ではないですが、曲を奏でるのは楽しいです。」
現在は11歳である。6歳で竪琴を習い始めてから5年経つ。時の流れるのは早いものだ。
「素敵だな!僕は絵画が趣味なのですが、音楽はからっきしで。何か楽器を奏でると、父上に『騒音公害は感心しない』って叱られるんですよ。」
おどけた口調で話すのでくすくす笑った。とても話しやすい方だと思う。
「でも絵を描くのは本当に好きで、まだ拙いですが、いつかは、もっと上手に描けるようになりたいです。」
熱を込めた口調で語られる。
「きっとなれますわ。エリック様なら、誰もが手を伸ばす高みに登れるはずですわ。」
エリック・ウェルストは絵画を趣味とし、将来はありとあらゆる賞を総なめにする天才である。その絵画には暗いトーンのものが多いが、今お心の傷が癒えているのだとしたら、きっと素敵な優しい絵画を描いてくださると思う。その絵画を見てみたいと思う。
エリック様は可愛くはにかまれた。
「折角ですから、何か一曲聴かせてくださいませんか?」
「本当に上手ではありませんよ?」
困ったように微笑む。本当に上手ではないのだ。才能の底が知れているというか。ジャンルは違うとはいえ、いっぱしのアーティスト…天才画家にお聴かせすると思うと竦んでしまうレベル。
「構いません。どんなに技術が拙くても、芸術は人の心を映すものだと思っています。リディ嬢のお心を、僕にも聴かせてください。」
そうまで仰るならば。
私は自室から竪琴を取ってきた。演奏するのは最近練習している『夢の輪舞曲』。甘くてちょっと切ない曲である。恋しい人と楽しく踊っている曲。しかし『夢の』円舞曲なのである。どんなに楽しくて高揚して幸せでもそれは夢。ある時パチンと弾けて現実にも戻されてしまう。夢だとは理解しているけれど今はまだ夢の中で踊っていたい。そういう曲だ。
心を込めて丁寧に奏でた。
一曲弾き終えると盛大に拍手された。
「甘く麗しいのに、とても切なくて、儚くて、心の洗われるような素敵な音色でした。」
「有難うございます。」
エリック様はお優しくて素敵な少年だ。こんな素敵なエリック様とお喋りできる夢のような時間はもう二度とやってこないかもしれない。そう思うと少し切ないが、今はこの時間にたっぷり浸っていたい。夢の輪舞曲のように。話は弾んで、時間が経つのがあっという間だった。日が暮れる頃、エリック様は暇を告げて去って行った。もう親しくお話しすることなどないのだろうな。そう思うと少し切ない。私の心の中にはするりとエリック様が侵入してしまったらしい。




