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日比野重三は頭を抑える。頭が働いていないのは寝不足だからだろう。決して、不純な意味での寝不足ではない。それは笠倉岬が本気ではないのと同じ程度のことだ。それでも、若い女性と同室に泊まっているというだけで、日比野にとって重圧だ。岬が眠るまでは寝室には行かないし、朝は先に行動を開始する。テレビを見ている間に岬も起き、かいがいしく、朝食を準備してくれる。朝ならパンだけで充分だというのに、簡単なサラダと、味噌汁まで揃った朝食だ。
会話は、弾まない。
所詮はかりそめのパートナーでしかないし、状況もそれが許されるほど緩やかなものではないからだ。それで、午後になったら外に出ようということを決めて、日比野はたばこを吸ってくると言い、部屋から応接室に移動した。
応接室では久住照好と日達瑠璃が中央のソファーに座り、何かを話している。少し、落ち着かないように見えるのは、うがちすぎだろうか。だが、今はわずかな変化、兆候も見逃すことはできない。
「おはようございます」
日比野は丁寧な言葉で二人に話しかけた。
「ああ、おはようございます、日比野さん……あら、お疲れですか、いけませんよ、目の下が黒くなってますよ」
「ばか、お前そんなこと指摘するなよ」
「いえいえ、残念ながら、私と彼女はあなた方のような関係ではありませんから」
「あら、そうなの? でも、岬ちゃんは本気だと思うけどなぁ、違うの?」
日比野は首を捻り、それには答えず彼らの向かいに腰を下ろした。ちらりと灰皿に目をやるが、吸殻はない。もう少し我慢することにする。
「いいですよ、吸ってください」
照好が日比野の視線に気がつき、灰皿を日比野の前に移動させた。ありがとうと言い、日比野は煙草に火を点ける。
体の中の不純物が、頭の中のもやもやと一緒に、体の外へとあふれ出す。意識が少しずつクリアになっていき、遅いながらも、ようやく一日の始まりなのだと、体が認識し始める。時刻は、10時30分を越えたところ。起きてからすでに数時間が過ぎているというのに、普段では考えられないことだ。もし、自分が権藤の立場にいたとしたら、今頃はすでに仕事の半ばを迎えているところだろう。
「待ち合わせですか?」
日比野は二人の様子からそう判断する。
「ええ、そうなんですけど、ちょっと遅いねぇ」
「そうだな。10時に約束してたんだけど……」
二人顔を見合わせてから、照好が続ける。
「秘書さんに、施設を案内してもらおうと思いまして。こんな機会、そうそうないですからね。こんな地下構造を持った施設、見ておくほかないでしょう」
「そうですね、確かにここはすばらしい。おそらく研究者にとって、これほど充実した施設に恵まれることはそうないでしょう。閉ざされていますが、開かれている」
「ええ、自分も、将来こういう場所に入ることが出来ると幸せなんですけどね」
「ですが、10時というと、もう30分過ぎていますね。伊崎さんはそれほどルーズのようには見えませんでしたから、心配と言えば、心配ですか」
心配という単語を用いた瞬間に、日比野は後悔する。いや、思考よりも口が勝手にそう解釈した結果だろう。
「私が聞いてきましょうか」
言って立ち上がる。二人も立ち上がろうとするが、それを日比野は制する。直感だ。日比野の強い視線に気がついたのだろう、二人は揃ってソファーに座る。それを見届けてから、日比野は応接室を出た。
日本風のつくりから、一気に近未来的な構造へと移り変わる。左を見ると、左の、入り口側の通路を警官らしい服装の人が陣取っている。日比野はそちらへ向かい、そこで権藤の所在を確認する。
通路を右手に曲がり、最初の部屋に入る。昨日集められたホールだ。中央のテーブルには灰皿が所狭しと積まれていて、そこから溢れんばかりの吸殻が絶妙なバランスを保っている。
「おはよう」
「おん、ああ、日比野か、お前、勝手に入ってくるなよ」
「まあそんな固いこと言うなよ」
「何言ってやがる。決まりを無視するんじゃねぇ」
「苦戦してるみたいだな」
「ああ、全くだ」
「伊崎園子の姿が見えないんだけど、お前、知らないか?」
「んー、お前、どこでそんな情報を得たんだ」
権藤の鋭い視線が日比野に突き刺さる。
「……いない、のか?」
「昨夜、彼女一人で散歩に出たところをこちらは把握している。毎日の日課とのことだ」
「戻ってきてないのか」
「戻ってきた」
「なんだ」
「が、部屋には戻ってきていない」
「?」
「行方不明だ」
「い、いやいやいやいや」
「極秘事項だ」
「戻ってきたのは、確か、なのか?」
「入り口には警察がいるからな」
「いちいち本人確認はしていないだろ」
「……本人の可能性は60パーセント、といったところか。だが、本人であれ、別人であれ、行方が分かってないのは事実だ。それに別人ならば、他に誰かがここから出ていなければならないわけだが……行ったきりの人間がいなければならないわけだが、残念ながらそれはない」
日比野の頭の中を、さまざまな仮説が駆け巡る。
「正直に言って、凶器が見つかって油断をしていた。俺のミスだ」
「捜索は?」
ため息をつき、権藤は唇を噛んだ。




