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レテ川に記憶の欠片を沈めて  作者: なつ
第一章 その凶器は神名島へ届けられた
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 あなたとの蜜月を繰り返すたびに、私の体は熱く火照る。その熱は止まることを知らず、今は砂浜の小石を溶かすほどに。きっとこのままあの大海原へと足を踏み出せば、時を待たずして、すべては溶けてしまうだろう。あるいは、すべてを蒸発させてしまうかもしれない。

 この関係も、あの関係も。

 私にとって、この蜜月がすべて。例え不倫だと罵られようとも、私のこの思いは一途で、いかなるハンマーをもってしても打ち砕くことはできない。理性のたがなど、初めからない。あなたが私を狂わせてしまったのだから。

 悪いのはあなた。

 あなたの甘い声、けれど無骨な手、不器用な動き、けれどたくましい体。あなたのすべてが私の中の血液を逆流させ、私の体の中すべてを埋め尽くしてしまう。私はただあなたの傀儡のように、ただあなたの胸の中で小さく揺れるだけ。

 あなたと繰り返す蜜月は、私にとって最良の時。億の苦痛も、万の不安も、あなたのその顔がすべて忘れさせてしまう。残るのは甘い、千の快感と百の安心。何十と重ねた体はあなたのすべてを覚え、一つになる。


 けれど、あまりにも短すぎる夜は、まるで100メートル走の世界記録よりも早く、瞬く間に過ぎてゆく。あなたは、もう何も話さない。いつものように煙草を1本だけ吸うと、見慣れた疲れた白のスーツを着て、まだ私の朦朧とした意識を無視するように、この小さな空間からいなくなってしまう。

 もしも、今私たちが取り組んでいる研究のベクトルを、この空間に応用できるのなら、この小さな空間はどこまでも、無限の広さに変わるというのに。どうして私たちの研究に発展性を求めることがいけないのだろう。どうして、私たちの研究は、この発展性に費やすことができないのだろう。確かに、私の能力など、あなたには遠く及ばない。きっと私など、この共同プロジェクトにとって不要な人間なのだ。ああ、そんなことは分かっている。分かりきっていたこと。それでも、私がここに存在していられるのは、あなたのおかげだということも、分かっている。

 だけどこの関係は長く続かない。続くはずがない。


 私の朦朧とした意識が再び混濁し、一時を経て覚醒したときには、あなたはもういない。まるでレテ川で沐浴してしまったように、忘れてしまう。それは私の意志。仕事中には必要のない記憶。初めからなければ、心を病むこともない。ただつまらない仕事へとわずかに残されたエネルギーを転化するだけでいい。惰性で、退屈で、まるで100メートルを進むのに何年もかける亀のように、遅々として重たい時間。

 自らの力で、その重い空気をこじ開けるように、私は起き上がる。

 もう忘れた。


 世界は星がきらめく銀世界。急がなければ、すべてが閉じてしまう。だから、私は急いで、ここから逃げ出す。


 もう忘れた。

 何度も自分に言い聞かせ、ようやくいつもの、私の部屋に戻る。

 そのまますぐ隣のバスルームへ移動し、頭からシャワーを浴びる。分かっているはずなのに心臓が飛び跳ね、やがて落ち着いていく。シャワーも次第に温かくなり、私の意識と離れた体に残された、あなたの匂いを落としていく。ボディーソープをあわ立て、私の体からあなたのすべてを洗い落とす。シャンプーも同時に行い、もう、私には何も残らない。

 何も。

 後はもぬけの、まるで神様の操り人形のように、決まった動作を機械的にこなすだけ。バスタブに短く浸かり、バスルームを出てからはおしゃれ心のまったくない白衣。大きなめがね。ドライヤーで痛んだ髪を乾かすと、何のアクセントもない黒いゴムで後ろにまとめ、時計を確認する。

 いつもと同じ時間。私はキッチンでパンをトースターに入れると、コーヒーメーカーを準備する。その足でデスクのパソコンのマウスを動かす。宇宙旅行のスクリーンセイバーが消えると、ほとんど真っ黒なデスクトップに白い文字がいくつも並んでいる。文字は、私が見ている間に次々と流れ、画面の上へ消えていく。キーボードを操作し、朝の必要事項を入力すると、その画面を見えなくする。

 広がるのは砂漠。遠景にピラミッドが三つ見えた風景。それ以外何もないし、必要がない。

 トースターが鳴ったので、私はパンを皿に移し、バターを載せる。それからコーヒーもカップに移し、再びパソコンの前へ戻る。

 パンをかじっていると、小さなポップ音。右下に現れたミイラが宝箱を持っている。マウスを移動しそれをクリックすると、メールソフトが立ち上がる。

 差出人は主任。現プロジェクトの最高責任者だ。件名にはモニターのことで、とある。お疲れ様と、最初に礼儀正しい文句が続いている。

「それで、モニターの件なんだけど、準備は滞りなく進んでいる。予定通り、三組のモニターがこの9月の終わりに参加することになっているから確認を忘れないように。君のことだから、忘れることはないと思うけど。ただ、モニターについては今回が初の試みではあるからね、できればただの被験者というより、この島のことをもっとアピールするのもありかな、と思っているんだ。少し調べてみて、大変だとは思うけど、でも北側の海岸はそれなりのものだろう? 季節的に少し寒いかもしれないが、それでもそこを見学したり、必要なら花火なんて時間もありだと考えている。もちろん、モニター外の内容については君が最終的な決定権を持っているし、こちらの意見を強制する気はない。ただ、この研究所の置かれている環境は一般的にあまり理解されない。個人的な意見を言えば、これほど研究に適したスペースはないし、時間も空間も際限なく使うことができる。空間、というのは現実レベルの話ではなくてね。いや、まあいい、そんなことはメインではないな。それで、モニターのことだが、三組の資料を添付しておくから、一度目を通しておいて。資料といっても履歴書と志望動機、簡単なメールでのやりとりくらい。それぞれが連れてくるパートナーについては分かっていないんだけど。それでも、あらかじめある程度の予備知識があるにこしたことはないだろう。あらかじめメールで連絡しあうのも自由だ。あとは君に任せる」

 回りくどい文章だ。これを読んでいる間にトーストはすべて食べ終わってしまうし、コーヒーも2杯目。添付の資料を開き、一通り目を通す。

「かしこまりました。こちらであとの準備は進めておきます。何か不都合なことが起きたときはすぐに相談します」

 私は短くリプライを書き、デスクを離れた。この島のことを調べるとなると、この研究施設から一度離れたほうがいいかもしれない。それに、もともといくつか不思議な遺跡のようなものが残っている。この施設を施工した際も、その場所で二度変更を余儀なくされたのだから。それらの遺跡と、海岸と、あとは以前ここにいた住民にインタビューでもできれば、それなりのものを構築することができるだろう。


 この島のことを調べる最中、私はこの島に流れる佐根川の佐根にまつわる悲しい伝承を知ることになる。


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