置き傘のパラドックス
「じゃあ可愛いってなんだろう」
彼女が突拍子もないことを言うのは毎度のことながら、今回はまたいつもにも増して変わった話題だった。
「髪を黒くしたら高校生に見える大学生は可愛い?それって幼い、子供みたいってこと?小動物とかって言うけれど、それも同じような意味でしょう?」
おかしな事を言うことに関しては、千葉出身の大宮も負けてはいないものの、彼女の論理は常に筋が通っていて、単純な会話では終わらない。
「うん」
「じゃあ女の子にそれを求めるのはなぜ?世の中の男の人はみんな子供が好きってこと?」
湿った風が彼女の髪を靡かせ、それをかき上げる。
針葉樹から滴り落ちる大粒の雨水が、ビニール傘の上で弾けて音を立てた。
「そうじゃないと思うの。人って結局外見。中身は二の次。それは動物的本能であって、子孫をより良い形で残したいって思う衝動だから仕方ないの。だから男は顔じゃない、女は顔じゃない、って言う人は動物的に病気なんだわ、きっと」
六月の灰色に染まる空の下、息継ぎもなしに一気に持論を並べた。
「ずいぶんひどい物言いだね」
毒のある発言だが、ハイドラの姫にとってそれが悪意を含んだものでな いことは承知の上。
「安心して、私の目から見ても貴方は可愛いわ」
髪の毛をくるくると指に巻いて遊んでいた手が止まる。照れくさかったから聞こえないふりをしようとしたけど、やめた。
「男に求めるものじゃないと思うよ。それは女の子に求めるものだ」
「じゃあ私は女の子が好きなのかな?」
いきなり何を言い出すかと思えば。
冗談にもなってない台詞に苦笑いしながら傘を握り直すと、彼女はさも楽しげに笑った。
「それとも私は動物的に病気なのかな?」
遠く降り注ぐ雨を見つめながら、ため息混じりにそう言う。
「それなら僕も動物的に病気だよ、君の外見にかっこよさを感じて興味を持った」
眠そうな目が静かにこちらを見た後、それが悪戯っぽく笑うのと連動して、彼女の紺色の傘が機嫌良さそうにくるくると回る。
「それは確かに病気ね。本来女性が男性に求める魅力を、貴方が感じるなんて」
「そうかもしれない。だからたぶん、『可愛い』って外見じゃないと思うんだ。『綺麗』とか『かっこいい』と違って、『可愛い』は行動や性格を指す言葉なんだと思う」
「『可愛い顔』という表現は?」
「それはつまりあどけない表情、純粋無垢な瞳、といったような部位を含む顔を見た時、『可愛い顔』と表現するんじゃないかな」
僕と彼女の事を語る上でまず理解してもらいたいのは、この会話が僕らの日常会話である、ということだ。
『彼女』と言っても、それは三人称の『彼女』であって、恋人という意味での『彼女』という使い方をするには、もう少し時間が掛かりそうではあるのだが。
普段友人と世間話をするような感覚で、一般論の否定と哲学論争のやり取りが行われ、こんな 会話を幾度となく繰り返して来た。
定義し、構築し、否定し、賛成する。
最初に彼女と話した内容は、確か性悪説だった。
「それでも納得できないなら、僕は動物的病気でいい。病気じゃなかったら君を『好き』になれなかったから」
「嬉しいこと言ってくれるのね」
強がってはいたものの、目を反らした彼女は、顔が見られないように口に手をそえていた。