68 「出発」
「温泉に行きたい!」
それはミーアの突然の一言から始まった。
「は?なに?」
「だから、温泉に行きましょう! 南部のリーグゼルが良いと思います」
リーグゼルは王国南部に位置する町である。
温泉という物にそれほど思い入れもなく、風呂に入るという事も日常化していないこの国の人々にとって温泉は観光の目玉にはならない。
その為、この国では温泉街という言葉はない。リーグゼルも「珍しい温泉というものがある町」といった認識だ。
ミーアが上目遣いでレイに擦り寄る。
が、その襟首をハクレンが掴み引き離す。
「貴女は何を言っているんですか? ご主人様に対して自身の要望を出すななど、立場をわきまえなさい」
「良いじゃん。ここしばらく働き通しだったんだし。偶にはゆっくり羽を伸ばすのも必要でしょ?」
「それを貴女が言い出す事が僭越だと言っているのです。そもそも週に1日の自由日を貰っています」
「そうだけど、もっと、こう、何と言うか、バカンスー! みたいなのが欲しいの!」
「奴隷にバカンスなどあるわけがないでしょう」
「でも!」
「でも、ではありません!」
2人はバチバチと火花を散らしながら睨み合う。
そして同時に、
「「ご主人様!」」
とレイに裁定を丸投げする。
「いや、バカンスは良いんだけどさ」
「でしょ!」
レイの一言にミーアが嬉しそうに目を輝かせる。
その隣でハクレンが悔しそうに俯く。
「ただ、イキナリそう言われてもな」
「ですよね!」
今度はハクレンが我が意を得たりと目を輝かせる。
「何がどうなってバカンスに行き着いたんだ?」
「ここ最近がんばったと思うの」
「うん?」
「パーティランクはまだだけど、ご主人様とエリスはBランクに昇格したし、この辺でちょっと息抜きしても良いと思わない?」
「まぁ、それは分かるけど、何で温泉?」
「それは、その……」
ミーアは何故か言葉に詰まる。
「冬は寒いので暖かい温泉地に行きたい」
「は?」
「え?」
答えたのはエリスだった。
「夏は涼しい所へ、冬は暖かい所へ、別に珍しくはない」
「フム、そういう事か」
「えっと……まぁ……ニャハハ」
クロスロードは一年を通して温暖な気候だと言われている。
だが「温暖」とは言うが、それでも寒い日の朝には霜が降りる程度の温度にはなる。
数年に1度は自然の雪も降る。積もる事はほとんどないが。
つまり、冬と呼ぶべき時期はあるという事だ。
そして、ミーアは寒さに弱い。大分寒くなったこの時期は暖炉の前を陣取って離れない。
「本当に貴女は……」
ハクレンがこめかみを指で押さえながら低い声を出す。
怒気を孕み今にも剣を抜きかねない雰囲気をかもし出している。
「違う、違うの。寒いのが嫌なのはそうなんだけど、『温泉に』ていうのはご主人様が言い出したの」
「また貴女はそういう適当な事を」
「ホントだってば! 『そのうちに温泉にでも行こうか』て言ってたの。そうよね? ね?」
ミーアが後ずさりながらレイへと視線を送る。
その目は切実に「助けて」と訴えていた。
そして、考えてみれば確かにレイにも心当たりはあった。
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しばらく前の風呂での出来事だった。
家にあるのは釜炊き風呂の為、誰かが火の番をしなければならない。その日はミーアの当番だった。
ゆっくりと浴槽につかるレイに外からミーアが声を掛けた。
「本当にお風呂好きよね。毎日入る人なんてあんまりいないんじゃない?」
「そうか?」
「そうよ。結構なお偉いさんでも毎日湯浴みなんてしないわよ。あとは温泉の出る町の人達とかぐらいじゃない?」
「温泉か~、一度は行ってみたいよな」
「じゃあ、行こうよ。出来れば2人きりで」
「そりゃあ、無理だろうな。まぁ、そのうち皆で行こうか」
「じゃあ、良い所探しておくわ」
「あぁ、任せた」
「よし、任された」
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「あぁ、そう言えば、そんな話もしたな」
「ほら!」
「そうでしたか。失礼致しました」
とってつけたような言葉だが、ハクレンにとってレイの言葉に疑う余地などない。
「まぁ、そうだな旅行も良いかもな。確かに、偶には羽も伸ばしたいしな」
「じゃあ!」
レイの言葉にミーアが目を輝かせる。
しかし、それを遮る者が居た。
「オリシス」
エリスだった。
「オリシスに行きたい。歴史と伝統の町並み、芸術と学問の町。一度は訪れたい町としても有名。旅行に行くならオリシスを推す」
普段は自己主張する事などあまりないエリスが今回は珍しく主張してきた。
「え~、オリシスには温泉ないじゃん」
「大丈夫。クロスロードからなら途中に温泉の宿場町がある」
ミーアが発した言葉にエリスが即座に言葉を返す。
いつにも増してやる気が見える。
「で、本音は?」
レイにはエリスが歴史的な建造物や町並みに興味があるようには思えない。
「……オリシスには珍しい魔導書を収めた書院がある」
「なるほど、よく分かった」
納得できるその本心が分かりレイもホッとする。
いつも通りの魔法バカだった。
「ミーアが『暖かい所に行きたい』で、エリスが『珍しい本が読みたい』か。ハクレンは? どこか行きたい所かやりたい事は?」
「私はご主人様が行かれるのであれば何処へでもお供します」
「俺はハクレンの意見を聞いてるんだよ。『特に意見はありません』はダメ」
「……では、ヘリオス迷宮か王都の闘技場に一度は行ってみたいです」
どうやらハクレンの興味は戦闘がらみになるようだ。
それもまたいつも通りと言えばいつも通りだ。
「王都は北部じゃん。寒いんでしょ嫌よ。やっぱりリーグゼル!」
ミーアがハイ、ハイと手を上げながら再びリーグゼルを推す。
「フム、どうするかね?」
レイとしても旅行に反対する気はない。
温泉には興味があるし、単純に行ってみたい。
オリシスは特に興味はないが行きたくない理由もない。
ヘリオス迷宮に入る為にはハンターならBランク以上である必要がある。レイは入れるがハクレンは入れない。行くならハクレンが昇格してからでないと意味はない。
王都の闘技場も特に興味はないが、王都自体には行ってみたい気もするがそれほど強くは思わない。
結論から言えば候補の中で行ってみたいのは温泉という事になる。
しかし、目的地が温泉というだけならばミーアの推すリーグゼルという王国南部の町を選ぶ必要もない。
なぜならリーグゼルは遠い。聖都エレオスより更に南になる。
エリスの言うとおりオリシスへ行く途中の宿場町で温泉に入れるなら、それでも良い。
王都には日帰りで行ける距離に温泉施設が複数あるという。
つまり、『リーグゼル』『公都オリシス』『王都リンドン』そのどこに行っても温泉は楽しめるという事だ。
レイは呟く。
「決め手がないな」
レイ自身に旅行の目的がない以上は消去法で選ぶしかないのだが、消去する理由もない。
強いて言えば雪の積もっているであろう王都は嫌だなという程度か。
王都にせよオリシスにせよいつかは行ってみたい町ではある。だが、今でなければいけない理由はない。リーグゼルに至ってはそこでなければいけない理由もない。
色々と思い悩んだ結果、レイはひとつの結論に至る。
「よし! くじ引きで決めよう」
自身で決められない時は運任せ。誰も文句の言えない『運』という超自然現象に責任を押し付けるのが優柔不断な男の生き様だった。
「よし、いいぞ選べ」
更に自分ではくじを引かないという徹底した責任転嫁ぶりだ。
『リーグゼル』『オリシス』『リンドン』と書いたくじを折りたたみテーブルの上に並べる。
「これかな? いや、コッチかな?」
言い出しっぺであるミーアが不可視のハンドパワーで当たりくじを探る。
「これよ!」
選ばれたのは左のくじ。
その瞬間に旅の行き先は決まった。
「忘れ物はないな」
「はい。大丈夫です」
「問題ない」
「は~い、ないで~す」
行き先が決まって3日、準備を終え出立の日。
馬車に荷物を積め終えたレイが最後の確認を促す。
往復するだけで1月を要する旅だ。と言っても途中で宿場町があるので全てを今の段階で用意しておく必要はなく後で補充も出来るのだが「忘れ物をしました」では幸先が悪い。
「んじゃ、王都に向けて出発」
「「おー」」
馬車がゆっくりと動き出す。
こうして彼等の旅は始まった。




